連れていって

連れていって


 信号待ちをしている間、私はずっと怒っていた。

月を探したが、見つからなかった。

世の中で腹の立つことはいっぱいある。

その中で一番腹の立つことは、卑怯さだ。

今日、つい先刻だが、夜のコンビニで買い物を済ました入山雅いりやまみやびは駐車場に屯していたヤンキー達に声をかけられた。

私は無視したが、遠ざかりざまにヤンキーの一人に、「ネエちゃん、名前何ていうの!?」と叫ばれた。その後に仲間達がそれをせせら笑う声。胸が悪くなる。

それからずっと私は、腹を立てていた。

腹の立つ。腹の立つ。腹の立つ。腹の立つ。

洗面所の水を流して、顔を一気に洗った。

気持ち良かった。

雅はいつもナチュラルメークだから、化粧を落としてもさほど変わらない。

ポテトチップをかじりながら、テレビをつけた。

下らないサッカー番組がやっていた。

次々にチャンネルを変えていくと、古い映画がやっていた。

途中からだが、それを見ることにした。

見ている途中で、ポテトチップがなくなってしまったのが、少し寂しかった。

映画が終わると、長々とテレビショッピングが続いた。

結局、伝えたいのは愛だった。

雅はテレビを消し、風呂に入り、化粧水をつけた。

それで一日が早くも終わった。

ベッドに入っても、私は目を閉じずに天井をみていた。だが、諦めて目を閉じた。


今日も会社で上司に怒られた。

昼休み、昔、付き合っていた彼氏、智聡ちさとから、着信があった。私はそれを鳴ったままにしておいて、止むとすぐさま、着信拒否にした。

いつかの同窓会の席、「水原みずはらくんと付き合ってんだって? いいなあー」と言われたことを、ボンヤリ思い出していた。

「私もああいう人だったらいいなー」

「雅、ツイてるよ。美人だもんねー」

私は鼻で息をすると、飲むヨーグルトをストローで音がするまですすった。

あんな馬鹿な男いなかった。


夜、道端に植えられた咲き始めのパンジーがやけに悲しげに揺れた。

アスファルトの道路はいつも濡れてるように見える。

風邪を、ひいたかも知れない。

部屋に帰って、何となく熱を計ってみた。

体温36.7℃。体温36.7℃。・・

高くもなく低くもなく。

咳をしても、一人。誰かの句が浮かんだ。


休日、プレーヤーでお気に入りの歌を流した。途中で消した。

飽きない歌なんてない。

最後に響いたギターの音が、消さないでくれと頼んでいるようだった。

休日なのに、いつも通りの時間に起きてしまう。

何かのおまけでついてきたジャスミンティーのティーパックをお湯に入れてみた。

苦かった。

雨が降り出した。

昼に雨は似合わない。

新聞を開いてみる。

私は一つの記事に釘付けになった。

「取り調べ最中、容疑者脱走。なおも行方不明」

野田悠二のだゆうじ・・、あの野田悠二!? ユウちゃんだ!

「――去年起きた一連の事件を受け行われた拳銃密輸組織摘発の際、逮捕された容疑者の一人、野田悠二容疑者が、取り調べ最中に窓ガラスを割って、そのまま逃走した。警察は付近の住民や学校に外出をなるべく控えるように注意喚起をし、野田容疑者の行方を追っている。――」

私の手は震えた。

どうしよう・・。


黄色いカサを差し、私は一人で、昔住んでいた場所に行った。

秘密の隠れ家がある。昔、仲良かった友達同士でよく行ったあの壊れかけたプレハブ小屋・・。

もう誰も覚えてないのかも知れない。

でも、私は覚えてた。

ならユウちゃんも・・。

私は歩いている途中、ずっとユウちゃんのことを考えていた。

昔から乱暴者でひねくれ屋で・・・・、でも私にだけは優しかった。

私のこと好きだったのかな?

高校からは学校にも行かなくなったらしい。

私が説得してあげよう。

あのプレハブ小屋がまだあったなら。あのプレハブ小屋に、あのユウちゃんがいたのなら・・。

鉄の網がかかった草原はあった。

あの網が破れた場所もあの頃のままあった。

私はカサをたたみ、そこに体をすべり込ませて、膝までの濡れた草原を縫って、林の中へ分け入った。

あった。

あった! プレハブがまだあった! 私は足音を立てずに、近寄った。

「ユウちゃん?・・ユウちゃん?・・」私はそろりそろりとペシャンコにつぶれた各部屋を見て回った。

「ユ・・」ガタンと何かが動いた音がした。

私は息を呑んだ。

「・・ユウちゃん?」声が少し裏返った。

「・・誰だ・・?」小さく声がした。くぐもっていた。

「私、入山雅・・。覚えてる?・・あの、・・小学校も中学校もおんなじだった、あの入山雅。・・ユウちゃん?」

沈黙が空く。こっちを見ている気がした。

「一人よ」私は言った。

ガタ、ゴト、と音がして、一枚のトタン板が倒れた。中に人が居た。暗闇で見えないが。

「ユウちゃん?」私は聞いた。

「うん。・・そうだ・・」くぐもった声が言った。

「行くよ?・・」

「ああ・・」声はひどく疲れていた。

私は歩きにくいトタンの床を這うようにして、そこに辿り着いた。

暗い一室に、野田悠二がいた。

服が血まみれだった。

冬だというのに、半袖だった。

悠二は鼻を押さえている。その手も血まみれだった。

「どうしたの!?」私は大声を出した。

「静かにしろよ。・・鼻をつぶした・・」私はユウちゃんの傍に寄ってみた。

ユウちゃんの息は荒い。息がしづらそうだった。

「ユウちゃん、どうしてそんなことしたの?」私は聞いた。

「鼻のことか?・・顔が割れてるからよぅ・・捕まらないようによ・・」と悠二は少し笑ったように言った。

私は持って来たハンカチを差し出した。

「要らねえよ。・・どうせ、こんなんじゃ、・・おんなじだからよぅ・・」悠二は鼻から手を離した。ボタボタと血が落ちた。鼻が確かに曲がっている。大きく咳をした。

「久し振りだなー・・」悠二はのほほんと今度は確かに笑って言った。

「うん・・」何だか私は泣きたくなった。涙を堪えた。


「騙されたんだよ・・。組の奴らにさ・・」悠二の鼻の血は少し収まった。

「俺、脱けたとこだったんだよ・・組をさ・・。で、ケジメつけるってんで、呼び出されたんだ。・・あそこでよぅ・・警察が待ってるなんてよぅ・・」悠二の声は小さくなっていった。

「俺、拳銃の密輸なんて知らなくてよ。末端だったから・・。パシリだよ。それがよぅ、いけなかったのかなあ・・」悠二は手に付いた乾いた血を両手を擦り合わせて、取ろうとした。だが、無駄だった。

私は、ただ隣にいた。

「お前、綺麗だなー・・」悠二が私を見て言った。

「何、言ってんのよ。もう!」私は悠二の肩を叩いた。悠二は笑っていた。

「高飛び、すんだ・・」悠二が言った。

「どこに?」私は聞いた。

「さあ、・・どっか、・・遠い所にさ」悠二はそう言ってから、私にあそこを見ろ、と目で差した。くたびれたボストンバッグが置いてあった。

「何?」私は聞いた。

「ここに来る前によ、寄ったんだよ。俺の家・・。金と、パスポート入ってる。・・見てみろよ」と言った。

私はそれを手で引きずって、開いてみた。一万円札が何枚も入っていた。あと、赤いパスポート。私はパスポートを開いてみた。違う名前が書いてあった。

「な、面白いだろ?」と悠二は笑っていた。

「何、得意になってるのよ」と言って、私もプッと笑った。

「血が、止まってからな・・」悠二が上を見て呟いた。

「頼まれてくんねえかなあ・・」悠二が私に言った。

「何?」

「この鼻に付けるガーゼとよ、あと、サングラス。見当たりってのがいてよ・・、捕まっちまうんだ・・。目だけでよ・・」

「分かった。買って来る。待っててよ」私は一万円札を一枚握り締めて、立ち上がった。拍子に頭を天井にブツけた。

「何やってんだよ」と悠二は笑った。


近くのドラッグストアで、手頃なガーゼと、一番高いサングラスを買った。悠二に、「サングラス、高そうなのな」と言われたからだ。

悠二は「ありがとよ」と言って、鼻にガーゼを当てて上を向いて黙っていた。

私も黙っていた。

悠二は寝ていた。

私はボストンバッグに入っていた煙草をフカした。

久し振りに吸うと、美味しかった。

いつの間にか悠二は目を覚ましていた。上を向いたままだった。

「おれ、馬鹿だからよぅ・・。お前のこと好きだって、言えなかったんだ・・」

私は肯いてみた。


悠二の鼻血が止まってから、新しいガーゼと取り替えた。

悠二はサングラスをかけて、私にニヤリと笑った。

「全然分かんないよ」私は言った。

「もう飛行機終わってっかな」悠二が宵闇の空を見て言った。

「明日にしてよ」私は言った。

「何で?」悠二が聞いた。

「私、見届けてあげるから」

「何で?」悠二が驚いた。

「私が、見届ける」

「・・お前、変わってないのな。強気だったじゃんかよ、昔から」悠二が言った。

「うん」私はキッパリ言った。


会社に電話をかけた。

部長が出た。

私は弱った声を出して、明日休ませて下さいと告げた。

「お大事にね」と言って、電話は切られた。

隣で悠二が不満そうに呟いた。

「何も、会社休まなくたっていいじゃんかよぅ・・」

「いいのよ。大丈夫」私は明るく言った。

ユウちゃんは眠った。

私は眠れなかった。


翌日になった。

悠二は近くのスーパーで安いジャケットを買って、羽織ってから、タクシーを呼んで、私と一緒に空港まで行った。

空港は人で混雑していた。

「こんなに人がいるんならバレねえよな」悠二が言った。

悠二は列に並び、アメリカのニューヨーク行きのチケットを買って、戻って来た。

「これから先どうなるかなんて分かんないけどよぅ・・。俺、お前のこと、忘れてねえから」悠二はそう言って、サングラスをちょっと傾けて私に笑いかけた。固い握手をした。

「じゃあな」悠二が言った。悠二が遠ざかる。悠二が遠ざかる。

「連れていって」不意に口から出た。

「何?」悠二が振り返った。悠二の後ろに男が二人立った。ポンと肩を叩いた。

「野田悠二だな?」悠二が固まった。

「はい・・」悠二がうなだれた。腕を二人の男に掴まれた。何人か、多分警察だろう、男たちが走って来た。一人が私の方に向かってきた。

「あんた、この人と関係あるの?」詰問するような厳しい口ぶりだった。

ユウちゃんが、私の目を睨んだ。

「だから何だっていうのよ」と私は言いたかった。だけど、私は、「関係ない」と、かすれた声で言っていた。

「関係ない人は、下がって!」一斉に男たちが悠二の周りを取り巻いた。

大勢の人達が騒いで、取り囲んで、ユウちゃんを見ていた。

私はユウちゃんが通るはずだった飛行機のゲートを見ていた。

ユウちゃんが連れられて行った。


「――あらためて無罪を主張――」

私はニュースを見ていた。


会社に向かう途中で私は立ち止まった。

その日も雨が降っていて、その日も私はあの黄色いカサを差していた。

ユウちゃんは悪くない。

関係ない。

だから、私は、泣いたりしない。

面会に行くんだ。

ユウちゃんに、会いにいくんだ。

だから、私、ちゃんとしていよう。

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