十月
10.04|わりと生きてる
頭が疲れる意味のない行為を何故するのかといえば、自分の中でそれについての気になりが巻き起こるからだろう。この気になりは、果たしてなんのためにあるのか。わたしが気になったとしてそれを、考え込んだところでどうなるのか。これは自分の考えがあり、それが接触したものとくっつくことでこう反応しているというよりも、ほんとうにただ、自分が不意に(ないしはザッピング的に)体内にいれたものへ対処しているだけな気がする。
思考とか考えというものは体外へ出力するためのものではなくて、自分の中に這入ってきたそれへどう対処するか、それ以上も以下もたぶんない。もっともらしく取り繕って自分の外へ出したり、出すはずのないものをそこが外だという自覚が抜けたまま放出したりしている状況が、いまではないか。一応の平穏を得られるとか、踏ん切りがつくとか、踏ん切りをつける必要はないが空虚さを味わうところに至るとか。本来考えるのに向かないものが思考をするからこうなる気がする。もっと暴力的で自棄的な、思い込みと勢いで破壊や崩壊へ至るのが自分の性質ではないかと。
棘のある文言を発せなくなった人間はおそらく埋没をしてゆくが、自分を有するとは棘なのだろうかとも感じるためわからない。埋没が哀れかというとたぶんそうではないが、なににも引っかかることのない無用になるだけな気もする。それでいいのかもしれないが、そうなれないものが我ではないか、というのが恐らく長年あるのだ。深い考えがあるわけではない。おなかがすいている。
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