<29・諦めぬ者が告ぐ>
まるで校舎全体が、大きな怒りに震えているようだった。
あまりにも大きな揺れに、ぎしぎしと古びた木造の建物が軋む。立っていることができず、梟と英玲奈は共にしゃがみこんでいた。すぐ傍まで鬼が追ってきているのに、と思ったが――それどころでさえない状況である。
乱雑に廊下に積まれていた椅子や机が音を立てて転がり落ちてくる。なんせ廊下がもはや水平ではないのだ。ダンボールのようなもの、棚のようなもの、壊れた扉のようなものまでがどんどん坂を滑るようにしてこちらに向かってくるのである。
逃げるのは、限界があった。なんせ揺れが酷すぎてまともに身動きさえ取れない状況である。
「英玲奈ちゃん!」
椅子の一つが英玲奈の方に向かって転がってきていることに気づき、とっさの判断で梟は彼女に覆いかぶさった。次の瞬間、背中に強烈な痛みが走って呻くことになる。
「梟さんっ!」
「だ、大丈夫……」
本当はあまり大丈夫でもなかったが、どうにかそれだけを絞り出した。椅子のみならず、他にもいろいろなものが体にぶつかってくる。このまま自分達は生き埋めになってしまうのではないか、という恐怖が一瞬心を満たした。だが。
――落ち着け、落ち着け……!この地震が、燕の行動と無関係であるはずない!
地響きが凄すぎて分かりづらいが、地震の直前に燕の歌が止まったように思う。きっと、彼は最後の七不思議、“アキさんのピアノ”をクリアしたのだ。流石は自分の弟、と誇らしい気持ちが僅かに痛みを和らげる。彼は勇敢に、一人で七不思議に立ち向かったのだ。自分達の推測が正しいのなら、あとは出現した人形を所定の位置に持っていくのみであるはずである。
――この校舎全体の震えは、おそらく鬼の最後の抵抗!ここを切り抜ければ、俺達の勝ちのはずだ……!
だから、最後の瞬間まで自分が英玲奈を守る。勿論自分も出来れば生き残りたいが、それは二の次だ。何故なら、とっくに自分は知ってしまっているのだから。
――俺は、長く生きられない。……きっとその未来はもう、確定してるんだ。
あの時ほど、己の中途半端な能力を恨んだことはなかった。
ある日の放課後、学校の靴箱で靴を履き替えていた時に見えてしまったその光景。現実と重なるように見えたのは紛れもなく、未来の自分の姿であったのである。
己が血まみれになって、道路に倒れていた。交通事故であるのか、通り魔か、あるいは別の事件や事故に巻き込まれたのか。確かなことはそれが誰がどう見ても致命傷と分かる出血量であったということ。そして道で倒れている自分が、今通っている中学の制服を着ていたということである。
あの未来がいつやってくるのかはわからないが。それは、あと二年以内に起きる出来頃であるのは確実なのだ。
自分は中学を卒業する前に、なんらかの形で死ぬ。
そのタイミングと理由が明確にわかっているなら、避けようもある未来なのかもしれなかった。実際、過去に自分と燕がトイレで変質者に襲われる未来は回避できたのである。ビジョンを見たのが事件発生の直前だった上、場所とタイミングが明確に分かったからこそどうにかなったパターンだった。だが、そんなことは滅多にないのだ。普段はいつ予知ができるかも、そしていつどこで誰がその未来に遭遇するのかも全く予想ができないのである。
あの道路が、どこの道路であるのかもわからない。
中学に通っているうちのいつか、ということはわかっても――それが正確に何月何日の何時であるのかもわからなければ、防ぎようがない。
何より、未来を変えると何が起きるのか、もう梟は知ってしまっている。あの日、弟を連れて変質者がいるトイレを避けた日。自分達の代わりに、本来ならば襲われなくて済んだはずの別の少年が被害に遭ってしまった。あれはまず間違いなく、未来を変えた弊害。辻褄を合わせようとした結果、自分の行動が他の誰かの運命をも変えてしまったということなのだ。
勿論、そんなことがわかっていてあのような行動をしたわけではない。
弟を守るために、他に手段があったのかどうかもわからない。
それでも、悔やまない日はなかった。弟を二階に一人で行かせて、自分が一階のトイレに行っていれば余計な誰かを巻き込まずに済んだのではないか、とか。自分は結局、自分達を守るために赤の他人を犠牲にしたようなものではないのか、とか。
考えても悩んでもどうしようもないことを、今でも夢に見てしまうのである。
――誰かのためとか、そういうんじゃない。けど、俺がもしその未来を回避することで、代わりに誰かが死ぬかもしれないってなら。……そう簡単に、回避したいだなんて言えるかよ。
もしかしたら、未来を変えた結果死ぬのは弟になるかもしれないし、英玲奈かもしれないし、身内の大切な誰かかもしれないのだ。そんなことになるくらいなら、自分が死んだ方がまだマシだった。これは、思いやりなんてものじゃない。もう同じ後悔をするのが嫌だという、完全に身勝手な己のエゴである。
――どうせ、なんて思うべきじゃない。でも、英玲奈ちゃんや燕が死ぬくらいなら、俺がっ……!
ああ、でも。
此処で死んだら、やっぱり未来が変わるわけで。そうなったらあの場面では、別の誰かが死ぬことになってしまうのだろうか。
「きゃあっ!」
「!」
積み上がった椅子や机、棚の瓦礫の中でどうにかもがいていると。不意に英玲奈が悲鳴をあげた。ギョッとして梟はそちらに視線を向ける。もはや前後も左右もわからない状況の中、瓦礫の隙間を縫うようにして顔を突き出したものがあったのである。
マリコだったもの。
今はもはや、鬼でしかない異形。
ぐいぐいと隙間に顔をねじ込んでくるその女は、血走った目をぐるんと白く裏返し、そこからだらだらと血の雫を垂れ零していた。額からも、角なのか骨なのかわからないものが突き出し、自分達に噛み付かんと大きく裂けた口の中で牙をガチガチと鳴らしていた。瓦礫の隙間から、さらに伸びてくるのは、骨が突き出しぐにゃぐにゃに折れ裂けた複数の腕のようなものだ。
「上だ、上に逃げるんだ!」
斜めに積まれた瓦礫を登るようにと、英玲奈に促す梟。彼女の後ろで、どんどん下から登って追いついてこようとする鬼を牽制する。
「来るなっ……来るんじゃねえ……!」
積まれた瓦礫は強固で、どれかを引き抜いて投げつけるなんてことはできそうにない。英玲奈と自分が登る速度より、鬼が登ってくるスピードの方が早い。このままでは、追いつかれてしまうのも時間の問題だった。
そもそもこの段階まで変貌してしまった怪物を相手に、自分のちゃちな霊力を纏っただけの投擲が本当に効くだろうか。
――諦めるもんか……諦めるもんかよ!
恐怖で、全身が強張りそうになり。逃げたい、叫びたい、蹲ってしまいたい。その全てを押し殺し、梟は英玲奈とともに瓦礫を這い上り続ける。
――きっと、燕だって頑張ってんだ!俺が、先に諦めてたまるかよ!
***
「ぐうううっ……!」
凄まじい地響きに、床や廊下のあちこちが崩落していく。立っていることなど不可能だった。燕は人形をしっかり抱きしめると、這うようにして廊下に出る。
音楽室は三階の端。
人形があると思しき、自分のクラスの教室は三階の中央部分。そう遠いものではないはずだ。問題は、この地震でゆっくりしか進むことができないということ。地響きの音とともに、天井や床が落ちてきて一歩間違えると真っ逆さまになりそうだということである。
――マリコさんが、こっちに来ないってことは……多分襲われてるのは兄ちゃんと英玲奈ちゃんだ。早く、俺が早くしないと……!
それどころか、このままでは自分達全員、校舎と一気に生き埋めということも充分有り得る。歯を食い縛り、燕は穴だらけの廊下を四つん這いで進んだ。
人形から、思念が伝わってくる。
場所は間違っていないと。あと少しで、あるべき場所に辿り着くのだと。
時間は残されていない。封印が解けてしまおうとしている。あと少し、あと少しで全てが無に帰してしまう――その前に。
――そんなこと、させるもんか!
黒い靄のようなものが燕の周囲を取り囲み、突風を巻き起こして足止めしようとする。鬼としての形を保てるほどではない浮遊霊や思念の一部なのだろう。
多くの声が聞こえる。ざわざわと、殺意や敵意をもって訴えかけてくる。
『行くな』
『行くな』
『戻れ』
『先に進んではならぬ』
『やっと我らは自由になれたというのに』
『また封じられるなどたまったものではない』
『あの世になど行くものか』
『まだこの世に未練が』
『お前らごときに』
『
『消えろ』
『その封印を戻してみろ、お前の首をねじ切ってくれるぞ』
『命は惜しかろうよ』
『戻るがいい』
『生きたいだろう?』
『生かしてやってもいいのだぞ、お前だけならば』
『だから、我らを』
「うるせええええええ!」
転びながら、ふらつきながら。一瞬地震が弱くなったその瞬間、燕は怒鳴り、立ち上がっていた。
大地を踏みしめ、走り出す。かけっこなら、誰にも負けない。それが自分だ。
「俺だけ、生きたって!意味ねぇつってんだよ、ばーか!」
自分に真正面から立ち向かってくる気概もないくせに、勝手なことばかり抜かすなと言いたい。
此処は、自分達の世界だ。
生きている者達の世界なのだ。
とっくに死んだ者が、いつまでも好き勝手にしていい道理がどこにあるというのか。
――兄ちゃんも、英玲奈ちゃんも、父さんも母さんもみんなみんないて初めて俺の世界なんだよ!お前らに、そいつを好き勝手されてたまるか!
「うおおおおおおおおおお!」
光が、見える。天井の近くに、赤く輝く光の球が。燕は叫びながらその方向に向かって人形を投げた。あれが正解の場所だと、本能的に理解していた。
黒い手がいくつも人形に、燕に伸びてくる。飲み込もうとする。しかし燕の強い“生きる意思”を纏ったそれを阻止することは叶わなかった。
球の中心に、人形が飛び込んだ瞬間、その光は大きく輝きを増した。赤から、青へ。そして人形の体がゆっくりと反転すると同時に――その服の色が赤から青へと変化していく。
そして。
嘆くような恨むような怨霊達の怒号とともに、目も眩むような眩しい光が周囲を包み込んだのだ。
***
「!!」
地響きが、突然やんだ。
化物に足を掴まれる寸前だった梟は、不自然に動きが止まった鬼に瞠目する。
「これは……!」
瓦礫の穴の下の方から、何か眩しい青い光が登ってくるのが見えた。腕を、足を、角を、骨を、全身に生やした“鬼”が絶叫する。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
光に包まれ、鬼が穴の中をゆっくりと落下していくのが見えた。梟は確信する。どうやら、燕がやるべきことを成し遂げたらしいということを。
「梟さん、手を!」
「ああ!」
一足先に瓦礫の山の上に登った英玲奈の手を握り、梟は山の上へと這い上がった。
長い長い、悪夢のような冒険の夜が終わろうとしている。何が正解で、何が間違いであったのかもわからない夜が。それでも確かに、それぞれが新しい答えを見つけたであろう夜が。
――ああ、朝が来る……やっと。
やがて二人の視界も光に包まれて真っ白になり、何も見えないほどに塗りつぶされたのである。
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