<27・それでも貴方を待つ者として>

 英玲奈が何を言いかけてやめたのか。当然梟にはわかっていたし、その詳細を尋ねるのはあまりにも野暮なことだった。

 だから一言、彼女に問うに留めたのである。


「……良かったのか?言わなくて」


 燕の足音はとうに遠くへ遠ざかっている。勇敢なあの弟は、たった一人でも怪異に向かっていく覚悟を決めてくれたのだろう。そんな彼を、心の底から誇らしいと思う。だからこそ。

 もし、英玲奈が自分の気持ちを素直に弟に伝えてくれていたら。もっと背中を押す結果になったのではないか、なんてことも思わないわけではなくて。


「……いいんです。動揺させたくないし」

「動揺?」

「燕君の好きな人が他にいたら、困らせちゃうだけだから、嫌です。私、燕君が好きだから……足引っ張りたくないし」


 困ったように笑う英玲奈を見て、梟は自分に考えが足らなかったことを悟るのである。よくよく考えれば、英玲奈は“燕に好きな人がいる”ことまでは知っていても、その相手が自分であると知っているわけではない。この様子だと、薄々そうかもしれないと期待していても、だから確信が持てているわけではないのだろう。

 間違っていたら。他に好きな子がいるんだとしたら。きっと優しい彼は、自分にこれからどう接すればいいか悩んで足を止めてしまう。英玲奈の視点ならば、そう二の足を踏んでしまうのも仕方のないことではないか。


「今の状況って、吊り橋効果っていうか。そういうの働きそうで、それは嫌だし。私が告白して、今燕君がOKをくれても、それを正直に信じるの無理な気がして。……ちゃんと落ち着いた状況で、ちゃんと気持ちを伝えて決着つけたいです。無理やり、他に好きな子がいるのに、燕君の言葉を引き出すような卑怯な真似はしたくないんです……」


 こういう時。吊り橋効果でもなんでもいいから、相手の肯定を引き出してしまいたい人間なんぞいくらでもいるだろうに。この子は、そんなまやかしは使いたくない、本当の本当に好きだという気持ちがあると通じ合いたいのだというのだ。この年の子で、これだけ真剣に恋愛と、相手のことを慮れる存在がどれくらいいるだろう。

 大人でさえ、汚い手で既成事実を作って相手の心を繋ぎ留めようとする人間だっていくらでもいるというのに。


「……英玲奈ちゃんってば、超大人」


 彼女が言っている言葉はきっと正しい。何より、清々しいほど正々堂々としていると思う。それでもだ。


「でもさ。……今、こんなこと言うのは卑怯だけど。人間なんか、いつ死ぬかもわかんない生き物なんだぜ。今日と同じ明日が、当たり前に来る保証なんか何処にもない。むしろ、明日が来る約束なんか本当は誰もしてくれないのに、みんなそれが当たり前だと普通に信じちまうんだ。……そうやって信じることで、安心して今日を生きていけるっつーかさ」


 実際、昨日と全く同じ今日が来たことなど一度もない。それは英玲奈もわかっているだろう。

 少なくとも昨日の彼女は、自分達がこのような怪異に見舞われることなんて全く予想していなかったはずだ。


「たった一言が言えなかったせいで、死ぬまで……死んだ後になってでも後悔してる奴らなんかいくらでもいるんだよ。今日言えなかったことは、明日言えばいい。そう思っていた、明日がこなかった。大抵の人達はそうなんだ。自分が、急にその明日を奪われるなんて思ってもいないんだ。だから約束して、約束が守れなくなる。……俺だったら、今日言えることはなるべく今日言っておきたいなって思うんだよな。俺も、燕も、英玲奈ちゃんも、父さんも母さんもみんな。いつ、不慮の事故とかで死ぬかなんてわからないだろ?」


 自分達なんか、今まさに命の危機に瀕している。燕が失敗すれば。あるいは自分達が、これから襲ってくるかもしれない鬼達をかわしきれなければ。二度と朝日を拝むことはできなくなるだろう。

 つい先ほど燕に言えなかった言葉を、永遠に後悔する羽目になるなんてこともあるかもしれないのだ。


――そうだ。その瞬間は……いつやってくるかなんて、わからねぇんだ。


 何故なら、梟は知っている。

 自分はきっと、遠くない未来に――。


「だからこそ、約束するんです」

「え」


 英玲奈が言った予想外の言葉に、梟は目を見開く。


「今日と同じ、明日が来る保証なんかない。約束は、守られないこともあるかもしれない。でも、だからこそ私達、未来を約束したいんだと思います。その未来が来るように頑張るんだぞって、お互いに誓いを立てるために。そうすることで、その瞬間が来る確率を、みんな一生懸命上げようとしてるんじゃないかなって」

「英玲奈ちゃん……」

「梟さんは、約束は守られなかったら意味はなくなると思ってるのかもしれないけど。私は、そうじゃないです。約束の一番大事なことはきっと、約束した瞬間に果たされてると思います。結果的に守れないこともあるかもしれないけど……その約束を守るために、お互いが頑張った事実は消えないじゃないですか。私は、結果だけが全てだなんて嫌です。だって結果っていうのは、過程がなきゃ伴わないものなんだから」


 燕君は絶対やり遂げますよ、と。英玲奈はふんわりと微笑った。


「私、燕君を信じます。さっき言ったこと、嘘なんかじゃないです。必ず夜は明けます。……ううん、燕君と、私達の手で朝を呼ぶんです。そのために、約束したんですよ。梟さんは、違いますか?」


 本当は不安で不安で仕方ないはずなのに、彼女は梟を励まそうと真剣に言葉を紡ぎ、笑顔を絶やさないのだ。待つことが、自ら戦いに赴くよりも辛くとも、燕の帰りにを本気で信じて。


――ああ、こりゃ。……燕が惚れるのも、当然だわ。


 彼女を最後まで守りきるのが自分の役目であるはずなのに、気づけばすっかり自分の方が彼女に支えられてしまっている。なるほど、自分が見込んだ男は、きっちり最強の女を見つけていたというわけだ。

 なるほど、こんな彼女の声を聞いてしまっては――心折れる理由が見つからないではないか。


「……そうだな。英玲奈ちゃんの言う通りだわ。ありがと、ちょっと弱気になってたかも」


 よし、と梟は立ち上がる。少々この階段に長居をしてしまった。マリコが自分達と燕のどちらに来るのかわからないが、他の鬼が襲って来ない保証もない。一箇所にとどまるのは悪手だろう。ましてや、この場所では逃げ道もないのだ。


「そろそろ移動すっか。……燕がやり遂げるまで時間、きっちり稼いで逃げ切るぞ!」


 さあ、最後の戦いを始めようではないか。



 ***




 どれほど足が震えても、前に進まなければいけない時が人にはある。子供とか大人とか、男とか女とか、そんなことは全く関係ないのだろう。――なんて、以前見たアニメの受け売りではあるが。燕は今まさに、自分自身でその言葉の意味を実感している真っ最中であったりするのである。

 一人でどこまで、立ち向かえるのかなんてわからない。

 自分は兄のように霊能力なんてものはないし、兄のように多少なりにも幽霊を祓う力があるなんてそんなことはない。何か有効な退魔法を知っているなんてこともないし、効きそうなお経を知っているわけでもないからだ。

 確かなことは、それでも立ち向かわなければいけないということ。

 信じていると、待っていると言われた。ならばそれ以上の理由はどこにもない。その期待を背負ったならば、それに応える義務が自分にはある。自分が世界で一番信頼している人たちに、同じほどの信頼を向けられたのだ。子供だなんて、そんなことは全く関係ないのだ。

 立ち向かうのだ、運命に。

 打ち破るのだ、運命を。


「ここか……!」


 三階の廊下も変貌し、まるで障害物のように椅子や机が乱雑に転がるのを飛び越えながら進んでいかなければならない状態だった。

 木枠で格子を嵌められ、僅かな月明かりが漏れるばかりの道。まるで牢獄のようなその道をただひたすら感覚を頼りに進んだ先に、求めた場所はあった。

 音楽室。蜘蛛の巣だらけだが、確かに読めるプレートが掲げられている。


『アキさんって女の子がいたんだってさ。ピアノが天才的に上手い、小学五年生の女の子』


 マリコさん、などが襲いかかってくる気配はまだない。今のうちに、と音楽室の戸に手をかける。


『いつか天才的なピアニストになるんじゃないか。そんな風に期待された女の子だったんだけど……彼女は、本当はピアニストじゃなくて、歌手になりたかったんだ。正確には、ピアノで弾き語りをして歌う人になりたかったんだな。自分の音楽は、歌声が合わさってやっと完成されると思っていたらしい。……ところが、彼女には致命的な問題があった。ピアノは天才的に上手いのに、歌は得意ではなかったんだ。それどころか、音痴と呼べるレベルで、いつも他の生徒や先生に言われてしまっていたらしい……アキさんは、ピアノだけ弾いていた方がいいと』

『ええっ……それ、ひどい』

『酷い話だよな、ほんと。彼女もそれが悔しくて、学校に残ってずっと弾き語りの練習をしたんだ。歌が上手になるように。弾きながら、素敵な歌が歌えるようになるように。……でも、彼女が望んだ歌を手に入れる前に……』

『死んじゃったの?』

『そうだ。大きな地震じゃなかったんだけどな……元より旧校舎はかなりボロかった。彼女が練習していた音楽室のあたりは天井が崩れて大変なことになって、彼女はピアノごと埋まって……そのまま』


 梟から聞いた、悲しい物語を反芻する。

 音楽室の中は外の滅茶苦茶な様子と違って、存外綺麗なものだった。そして、忘れ去られたようにひっそり佇むグランドピアノが、一つ。ぽつんと取り残されたように、佇んでいる。


『以来、彼女は……同じように歌に悩んでいる人を助け手くれる存在になった。おまじないをすると、歌が上手くなりたい人を助けてくれるらしい。それが、新しい七不思議のお話だな。そして昔の七不思議は……』


――できるかな、俺に。……いや。


 意を決して。燕は一歩、音楽室の中に踏み込むのである。


――やるんだ、俺が。この怖い夢を、終わりにするために。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る