<25・兄弟の再会>

 保健室のおばけであるはずなのだから、保健室から出れば追いかけて来ないとばかり思っていたのに。ルリコさんを撒くまで、存外時間がかかってしまった燕である。なんといっても、疲れてきて少し教室に隠れてやり過ごせたと思いきや、大丈夫だと思ったタイミングで廊下の真ん中に立っていたりするのである。

 白衣を着た血まみれの女性、というのは幽霊としてはテンプレートだろう。中にはあの有名な“口裂け女”を女医や看護師に見立てる人もいるほどだ。病院というものに誰も彼もある程度恐怖心があるから余計悪いイメージがついてしまうのだろう。実際の病院はもっと明るいし、燕が風邪を引いて行くような内科のお医者さんもいつも優しくしてくれる記憶しかないのだが(注射はとっても嫌だけれど)。


――あああもう!しつこい!マジしつこい!ふざけんなよ、もう!!


 心の中で悪態をつきながらも、どうにか逃げ込むことに成功したのは家庭科室だった。多分、ここには恐ろしい七不思議の類はなかったはず、である。残念ながら、既に校舎はほとんどが木造に変貌してしまっているし、逃げ込んだ家庭科室も見覚えのある部屋ではなくなってしまっていたわけだが。

 床や天井が木造である、だけではない。

 家庭科室というプレートがかかっていた以上、ここが家庭科室であるのは間違いないはずなのだが――部屋の形がまずおかしいのだ。何故、三角形なのだろう。遊園地のトリックハウス、あるいは忍者屋敷でも見ているようだった。天井はナナメに傾き、あちこちから大量の蜘蛛の巣が垂れこめている。

 歪んだ窓には、乱雑に木で板が打ち付けられており、殆ど外の様子を見ることは叶わない状態だった。辛うじて月明かりが差し込んできているので真っ暗ではないが、手元をはっきり見ることができるほどの光源ではない。本当ならば今すぐ電気をつけてしまいたいところだが、ルリコさんから逃げ切れた保証がない以上自分の居場所を見つけるのは避けたいところだった。


――何で、何で俺ばっかりこんな目に……どうすれば、此処から出られるんだよお……!


 七不思議を全て体験すれば、人形が見つかるのかもしれない。

 その人形が、何か重要な意味を持っているかもしれない。

 かもしれない、かもしれない――今の自分にはその程度の情報しかないのだ。このまま闇雲に逃げ回っているだけでは、いずれ体力が尽きて殺されてしまうだろう。そもそも、旧美術室のユリさんからも、逃げ切れたかどうか怪しいところなのである。自分が気づいてないだけで、ユリさんも闇の中自分を追いかけてきているのかもしれなかった。

 そう、今もよく見えていないだけで。そのテーブルの影から自分を狙っているかもしれない。

 こうしている間にも引き出しやガラス戸が開いて、自分の方に包丁が飛んでくるかもしれない。

 あるいは引き戸がこじ開けられて、あのルリコ先生が血だらけで顔を出すかもしれない――。

 想像すればするほど、気が滅入ることだらけだった。あるいは自分はこのままどんどんおかしくなる真っ暗な校舎に閉じ込められて、二度と日の光の下に出ることはできないのではないか。もう二度と両親にも、英玲奈にも、友達にも、兄にも会うことはできないまま。誰にも知られず死んでいく運命なのではないか。


――嫌だ、そんなの。


 じわり、と涙が滲む。いくら泣くもんかと誓いを立てていても、ずっと独りきりで逃げ回ることに限界が近づいていた。ついでに思い出したかのようにお腹が鳴ってしまう。いつもならとっくに夕御飯を食べて、今頃あったかいお風呂にでも浸かっている時間だったというのに。


――嫌だよ、嫌だよ兄ちゃん。助けてよ……!


 ああ、最悪だ。

 助けて、なんて簡単に言っていい言葉ではないのに。そうやって本当に兄が助けに来てしまったら、自分はどうするつもりなのだろう。こんな恐ろしい場所に、兄が助けに来てくれて。自分の代わりにこの暗い場所に閉じ込められて、二度と出られなくなってしまったとしたら。

 自分は一生、死んでも死にきれないような後悔をする。

 そうだ、そんな後悔を兄にさせないために、自分はここから出るのだと決めたではないか。自分がこのままいなくなって、元の世界に戻ることができなかったら。確実に兄は、己のせいだと責め立てるに決まっているのだからと。自分のことより、人のことで心を痛めるような、それでいてすぐ無茶をするような優しい兄なのだから。




『大丈夫か!?怪我はないか!?』




 公園の階段で足を滑らせた燕を受け止めて、足を捻挫した時も。兄は痛いはずなのに、燕の心配ばかりしていた。どんなに痛くても、怖くても、絶対泣かない兄。小学生の時、道を歩いていて車に連れ込まれそうになった時も。通りがかった人が声をかけるまで、ずっと暴れまわって抵抗していたらしい。殴られて唇が切れ、鼻血を出し、青あざだらけになっていたにもかかわらず。

 そもそも兄がその道を通ったのは、燕の忘れ物を届けに行こうとしていたというのだからどうにもならない。そういう兄だった。弟のせいで迷惑を被っても、そもそもそれを迷惑だと考えないような。痛くても怖くても、燕の前ではずっと笑っているのである。

 そんな兄が誇らしくて――時々、ほんの時々憎たらしくて。


――助けに来て、なんて思っちゃダメだ。兄ちゃんが助けに来ちゃう。だめだ、それじゃ……駄目なんだ。


 ぎゅっと拳を握って、歯を食いしばって耐える、耐える。出来ることなら吠えたいほどの激情を、心の中で叫ぶことで発散させる。

 自分は、守られる側ではなく、守る側に回るのだ。兄のことも、英玲奈のことも、全部全部全部――。




『燕!』




 はっとして顔を上げた。どこからか、兄の声が聞こえたような気がしたからだ。


「……兄ちゃん?」


 思わず呼んだ時、座り込んだ右手に何かが触れる感触があった。はっとして見れば、そこには見覚えのある赤い布地が。

 月明かりに青白く照らされる、赤い服のお人形。まるでいきもののようにちょんちょんと燕の手をつつくと、まるで“ついてきて”と言うように部屋の右方向へと消えていく。


「ま、待って!何処に行くの!?」


 方向感覚が狂うようなこの家庭科室では、人形がどんな場所へ向かおうとしているのかがさっぱりわからない。ただ、自分にはもう他に道標となるようなものがないのも確かなことだ。縋るような気持ちで、人形を追いかけることにする燕。

 何より先ほど、確かに聞こえたのだ。人形の方から、兄の声が。


――もしかして、此処に、兄ちゃんが来てる?


 よくよく考えたら。こんな時間まで自分が家に帰らなかったら、兄が心配しないはずがない。燕の性格からして、夜遅くまで自分を探し回ることは充分有り得ること。少なくとも、この学校まで来るのは必然ではなかろうか。

 だが、同じように閉ざされたこの“もうひとつの学校”に兄がいるのかどうかは――。


――ううん、きっといる!賭ける!兄ちゃんは、此処にいる!!


 人形がてとてとと歩く先には、もう一つドアのようなものがあった。棚の影になっていて、さっきの燕の位置からは一切見えていなかったのである。そのドアの向こうに、透けるように消えていく人形。慌てて立ち上がってノブに手をかけると、ドアはあっさりと開いた。その向こうは、普通に廊下が続いているようだ。

 見えるところに、ルリコさんや、何か恐ろしい幽霊がいる気配はない。人形はどこに、と思えば。すぐ隣の階段を、上の方に上っていく姿が見えた。


「上?」


 というか、此処は何階だったっけ、と思った。むちゃくちゃに逃げ回っていたことと、どんどん校舎の内部の様子がおかしくなってしまったことで現在位置の把握が難しくなっていたのだ。もし家庭科室の位置が自分が知っている校舎のそれと同じままであるなら、いままで自分がいたのは二階ということになるはずなのだが。

 人形は三階を素通りし、そのまま四階へ向かう階段を上がっていく。五階まで行くのかな、なんて呑気に思ってすぐ――ぎょっとさせられた。


「んなっ!?」


 三階の踊り場から上が――無い

 四階へ続く階段がないのだ。完全に、一枚の木の板になってしまっている。人形はその前で立ち止まっていた。


「な、なにこれ!?上の階、なくなっちゃってる……!?」


 元からこんな構造であったはずがない。幽霊達――あるいは見えない力によって、校舎の空間が捻じ曲げられてしまった影響なのだろうか。


――ど、どうしよう。上の階にも七不思議はあるのに……ここから先に行けないんじゃ……。


 だが、人形が自分を此処に連れてきたなら、必ず何か意味はあるはずである。思わずその壁をドンドンと叩いてみた、その時だった。


『おいっ!そこに誰かいるのか!?』

「!!」


 聞き間違えるはずが、なかった。

 だって自分がさっきまで、助けを求めてしまったその相手であるのだから。


「兄ちゃん!!」


 殆ど悲鳴に近い声で絶叫した。何故兄が上の階にいるのだとか、それならば何故今まで遭遇できなかったのかとか、大体この壁はなんなのだとか。言いたいことはいくらでもあったが、今は。


「兄ちゃん!兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん!俺だよ、燕だよ、此処にいるよおおお!!」


 一度叫んでしまったら、止まらなくなった。堪えきれなくなった涙が、ぼろぼろと頬を伝い落ちていく。

 やはり兄は、来てくれていた。自分を迎えに、こんな場所までやってきてくれたのだ。


『燕!?燕なのか!?』

『燕君……!?燕君がいるの!?』

「ええっ!?ちょ、その声英玲奈ちゃん!?英玲奈ちゃんいるの、なんで!?」


 自分を“燕君”と呼ぶ人間は限られている。何より、彼女と結ばれたくておまじないを試したのだ。こっちもこっちで、間違えるはずのない愛しい声である。


「兄ちゃん、これどうなってるの!?俺、恋のおまじない試しただけなんだよ。そしたらなんか鏡から髪の毛がぶわーって出てきて吸い込まれて、学校に閉じ込められちゃって!出られないし変なのいっぱい出てくるし、保健室の血まみれの女の人とかもう超怖いし学校もなんかどんどんボロくなるしおかしくなるし、もうどうすればいいのかわかんなくて、それでっ!」


 矢継ぎ早に捲し立てた。安堵と同時に、早くなんとかしてほしいという気持ちが溢れて止まらなくなってしまったのである。

 本当はずっと怖かった。一人で心細かった。もう二度と、誰とも会えないのではないかと本気で心配していたのだ。

 忌々しい壁を叩きながら泣き叫ぶと、兄は一言“落ち着け”と言った。


『英玲奈ちゃんとは、忘れ物を取りに来たところで遭遇して一緒に来た。で、お前と同じように空き教室に来て、このよくわかんねー校舎に二人一緒に閉じ込められたんだ。とにかく今は落ち着いて俺の話を聞け。このままじゃ俺らがこの学校に閉じ込められるだけじゃない、藤根宮の土地が大変なことになる!』


 流石というべきか、彼は説明が非常に簡潔だった。パニックになっている燕を落ち着かせるように、必ず助けるからまずは話を聞け、と繰り返す。


『探してみたけど、五階四階と、三階二階一階で完全に空間が隔絶されている。俺達は下の階に行けない。最後の手順は、お前がどうにかするしかないんだ……!』


 そして、梟は話し始める。

 彼らがどういう経緯で校舎に閉じ込められたのかと、今まで何を体験してきたのかの詳細を。

 そして、この状況を打破するためにはどうすればいいのかを。

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