第4話

 動画クリエイター同士が集まるイベントがあった三ヵ月前のあの日は、世界の雨水がすべてこの地に降っているような大雨だった。わたしはなぁちゃんとカズマからは離れて行動していて、かといってキャピキャピした女子高生たちの中にも溶け込めず、ただ雨に洗われる東京を高層ビルの大きな窓から見下ろしていた。街がミニチュアに見えて、目の前にあるビルの奥でせわしなく動き回るOLさんに「お疲れ様です」と心の中で唱えた。ちらちらと動き回る人間を眺めるのは、夏休みの自由研究で作ったアリの巣観察に似ていて、見ていて飽きない。降りしきる雨の音がますます強くなり、スマホが震えた。大雨警報が出されたらしい。周りを見ると、誰も大雨警報が通知されたことなど知らない様子で、ぺちゃくちゃとお喋りを続けていた。帰れなくなったらどうしようかな、電車が止まるかな、なぁちゃんたちはどうするのかな。

「大雨警報だ」

 ぽつりと落ちる雨粒のように、そんな呟きが聞こえた。これがのどかくんである。のどかくんはスマホをスクロールしながら、防災情報の確認をしていた。動画を見ていたので顔は知っていた。初対面ながら親近感を覚えて「ですね」と言い、水滴が窓を伝ってほかの水滴とくっつく様子を眺めた。小さい水たまりが大きい水たまりに、大きい水たまりがもっと大きな水たまりに。やがてもっと大きな水たまりは、一筋の線を描きながら窓の桟に消えてゆく。視界の端で驚いたように顔をあげたのどかくんは、一瞬わたしのことを見てから

「電車止まらないか、心配ですね」

とスマホに目線を戻す。お互いに探り合うような会話に緊張の糸をぴんと張っているようでおかしい。別に緊張する必要なんてどこにもないのに、まるで放課後に恋愛ごっこをする初々しいカップルだ。

「はい。あの、のどかくんですよね」

「ぽぽちゃんはお母さんに心配されないですか」

 ぐるる。唸るような雷が鳴り始めた。周りは変わらずぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。

「心配されすぎて、そろそろ鬱陶しいって思うこともあります。のどかくんは心配されないですか? 同じ? じゃあ、一緒ですね。ちょっと嬉しい」

「ちょっとじゃなくて結構。みんな大雨警報なんて気付かなくて、たくさんお酒飲んだりして、もしかして自分だけ違うパーティーに呼ばれたのかなって思っていました。ぽぽちゃんと僕は、同じ招待状が届いていそうで良かったです」

 中途半端な弱さになり、雨が斜めに降るようになったことで雨粒が窓によく当たるようになってきた。

「一緒に雨のなか散歩しませんか。疲れたらどこかで休んでもいいし、僕の家に来てもいいし。もう少し二人きりで仲良くなりたくて」

 年上の男の人は誘い方が遠回りだと思っていたので、ぺちゃくちゃ喋っている女の子の顔を見ながら首を縦に、こくりと揺らした。目を合わせることができない。わたしは箱入り娘なせいで、男の人と動画の企画以外でデートをしたことがない。当然、恋愛経験もない。少女漫画ばかり読んでいたら本棚紹介をする動画で、なぁちゃんに「ロマンチストすぎない?」と言われた。別に何を読んでいてもいいでしょう。恋愛したら気持ち悪いと言わんばかりに撮影の予定を詰めるのは、なぁちゃんだ。カズマは別に気にしていないというスタンスを取りつつ、撮影はきっちり行う。結局なぁちゃんに絶対服従なのだ。わたしの家は、そういう家なのだ。

 もといた大広間のような場所からエレベーターホールに移動すると、途端に静かになった。音が消えたせいで雨も止んだのかと思ったが、細長い縦長の窓を覗くとまだ雨は続いていた。のどかくんは、熱愛スキャンダルが出たら大変だから、と先に一階へ降りていった。人目を気にする同士だからこそ理解できる話に、二人だけの秘密を抱えられる喜びを噛みしめる。三十分後、高円寺駅の近くにある小さな公園で待ち合わせということになった。このとき私は中学生と高校生の狭間の3月、彼は高校2年生の3月を過ごしていた。今とそこまで変わりないはずなのに、ぐっと昔の話に感じてしまう。

 見られる場だから、と背伸びして履いたヒールのせいでかかとの上が擦れている。一階に着き、コト、コト、とエレベーターホールに響く自分の足元が大人の音を鳴らしている。靴擦れをしていてもまぁいいか、と思えた。気高く纏ったブランド物のお洋服は、全てなぁちゃんが用意したものだ。衣装だと思えば、ぽぽちゃんとして生きていられる気がする。早く帰って着替えたい。のどかくんの家に行ったらお洋服を借りたりできるだろうか。もっと仲良くなってからじゃないと駄目かな。わたしはなぁちゃんに「ちょっと仲良くなった人がいるから、二人で喋ってくる」とだけ連絡をして、新宿駅の方向へ歩いた。

 オレンジジュース色の中央線を横目に、駅前でタクシーを捕まえた。運転手のおじさんに行先を伝えると、助手席の後ろにくっついた小さな籠を覗く。塩飴、黒飴、フルーツのど飴のオレンジ味とブドウ味。おじさんらしい絶妙なセレクトの飴玉たちから、奥に眠っていたサイダー味の泡玉を取り出した。くじで当たりを引いたような気持ちになりながら口に含むと、駄菓子の香りがマスクの中に広がった。サイダー味はどの季節も夏にしてしまうパワーを持っている。のどかくんは何味を選ぶのだろうか。初対面にしてはのどかくんのことを考えすぎていることに気付いて、窓の外を眺めた。頬と指先がぬくもりを保っている。誘われただけで浮かれすぎだ。

「すごい雨ですねぇ」

 おじさんが運転業務以外の言葉を初めて発した。ワイパーがせわしなく左右に動いている。タクシーの運転手さんとの会話は、どんなときも「誰か」として扱ってくれるから好きだ。ぽぽちゃんではない人間になれる瞬間がいかに貴重なことか理解してしまうと、なぁちゃんたちのことを嫌いになってしまうような気がして少し落ち込む。確かにわたしの家はなぁちゃんに絶対服従だけど、嫌いな訳ではないのだ。地球に生まれたときからずっと見守ってくれている、たった二人の親なのだ。反抗期が来るかとドキドキしていたけれど、そんなものは一度もこないまま高校生になる。

「そうですね」

「飴、おいしいですか?」

 マスクの外まで夏の香りが漏れていたらしい。

「おいしいです。これ、おじさんが選んだんですか?」

「はい。塩飴とか黒飴は私だけど、大きな泡玉は孫が好きだから入れました」

 大人の男の人が一人称を私、で話すのはとても良いなと思った。

「夏の味がして、わたしも好きです。泡玉」

「よかった。時々勢いあまって飲み込みそうになるから少し怖いけれど」

 おじさんとわたしはそこで一緒に笑い、次の交差点を曲がる頃にはお互い静かに外を見つめていた。車内にはワイパーの機械音と雨音が、エンジンの震えに混ざって響いている。飴玉のように輝く信号機の光が、どこで途切れるか見当のつかない東京の路上を煌々と照らしていた。

 高円寺駅に着いた。おじさんはタクシー代を受け取ると「良い一日を」と言ってから去っていった。海外旅行に行ったときに「ハバグッデイ」と言われたことに感動してから、いつもそう言ってお客さんと別れるのだと教えてくれた。いい運転手さんに会ったなー、と空を見上げる。顔にぷつぷつとぶつかる雨粒は、新宿にいたときよりも勢いが弱まっている気がした。

 小さな水たまりがいくつもある駅前を抜け、商店街を抜け、ひょっこりと現れる公園に辿りつく。のどかくんは傘を差しながら二人掛けのベンチに座っていた。おしりが濡れちゃうよ、と思ったら、彼はハンカチを敷いて座っていた。遊具は一つもなくて、これはいったい公園と呼んでいいんだろうか、というような公園だ。だけど、公園の入り口にはしっかりと公園の名前が刻まれた石碑が置かれていたから公園なのだろう。

「また会えて良かったです」

「わたしも」

 二人掛けのベンチにが一つしかないので、わたしは吸い込まれるようにのどかくんの隣に座ることになった。ベンチは濡れていたのでハンカチで拭いて、のどかくんの傘に入って座る。特に何を話したらいいのか分からず、黙っていると雨の音が鼓膜に響いて心が落ち着いた。しっとりと流れる時間はまるでわたしとのどかくんを守ってくれているようで、言葉を交わさなくてもいいと安心できる。

「会えたのが雨の日で良かったかも」

 のどかくんは絶えず水滴に打たれる花壇のパンジーを見つめながら、わたしのほうへ傘を傾けた。それではのどかくんが濡れてしまうと、傘を押し返すと、また傾けられ、それを続けていたら、ふいに押し返した手をそっと手で包まれた。冷えた手に他人のぬくもりが伝わって急に温かい。

「のどか、くん」

「うん」

「そんなに濡れてたら風邪引いちゃいます」

 そうしてわたしは自然な流れでのどかくんのお家へお邪魔することになった。公園からお家へ移動するときは、周りの目を気にして傘で顔が隠れるようにしながら移動しなくてはいけない。傘を持ってくれるのどかくんの手が骨ばっていて、大人の男の人なのだということを意識する。

「友達を家に呼ぶことは多いんですか?」

 面接みたいな問いをしてしまった自分が恥ずかしい。父親以外の男性にめっぽう慣れていないのだ。

「動画以外だとないかも、初めてのお客さまかも」

 お客さま、という言葉が可愛くて思わず呟いてしまう。敬語とため口がごちゃ混ぜなのどかくんの言葉は、ぽかぽかと温かい。寒い季節にも隣にいたいな、と思う。

「そんなお洒落じゃないけど、汚くはないから安心して。掃除はちゃんとしてるんだ」

「えらい。編集で忙しいはずなのに」

「そんなことないよ。ぽぽちゃんだって」

 何かを言いかけたように言葉が止まったので、のどかくんの顔を見ると

「ぽぽちゃんって本名、なんていうの。名前で呼びたいかも、人気者じゃなくて一人の女の子として仲良くなりたいから」

と言われて驚く。女の子、という言葉もなんだかぽかぽかしている。のどかくんの口から出る言葉ひとつひとつが雨に濡れて冷えた身体と心を温めてくれるような気がした。

「ほのか、です」

 そして、初めてわたしをぽぽちゃん以外の名前で呼んでくれる人が出来た。のどかくんは穏やかな声でわたしの名前を呼んだ。

「ほのかちゃん」

 幸せだ。人間としての幸せを一瞬のうちに詰め込んだら、今になるかもしれない。

「教えてくれてありがとう。あ、ここを右に曲がったらうちだから」

 あっという間にのどかくんのお家の前に着いてしまった。高円寺の駅から少し離れた、小さなアパートの二階。のどかくんは高校生なのに一人暮らしをしている。

「見た目はボロボロだけど、中はリフォームされてて綺麗だから」

 さっきから思ってもいない心配をフォローされてばかりでおかしい。きっとのどかくんも緊張しているのだと気付く。傘を畳んで、降りやまない雨から小走りで逃げるようにドアの前へ進んだ。のどかくんが黒い小さな肩掛けのバッグから鍵を探している最中、わたしはずっと緊張していて、目が回りそうだった。のどかくんのお隣さんの窓から知らない柔軟剤の匂いが香っている。そういえば、男の人の家に一人で行くのは初めてだ。急に不安になってくる。高校生とはいえのどかくんは男の子だ。異性の家に、二人きり。もしかして本当に仲良くなりたいわけじゃ、カチャ。

 のどかくんの部屋のドアが開いた。

「お邪魔します」

 ふっと息を吐き、呼吸をする。玄関には靴が二足、スニーカーと革靴。どちらも履き古していて年季が入っているように見える。物を大切にするタイプなんだ、と思いつつ、じろじろ見るのはよくないか、とのどかくんのほうを見ると

「手洗うとこはこっちね、石鹸も使っていいからね」

そんなに緊張していないようだった。逆にわたしがぐっと緊張してしまう。実は慣れているんだろうか。

「ありがとう」

 手を洗い、のどかくんの家のタオルで濡れた手を拭かせてもらう。今日初めて会った人の家にいることを実感して、背中の汗がたらりと垂れたような気がした。

 東京の一人暮らしらしいワンルームの間取りは、のどかくんとわたしが座るだけでぐっと狭く感じる。わたしが深く息を吐くと、のどかくんは

「そんなに緊張しないでよ、変に誘ったりしないから」

と目を細めて笑った。あまりにも自然にくしゃっと笑ったから、わたしもつられて目を細めて笑った。ふと、のどかくんの左目の下には小さなほくろがあるのだと知った。一つだけ光る恒星のようでも、一粒の心の涙のようでもある。のどかくんの顔は淡泊だから、ほくろがよく似合っていると思った。

「お母さんに心配されないですか」

 服が擦れる音がして、のどかくんが足を崩す。わたしも正座からお山座りに崩す。たった一つの動作でもシンクロすると気が合ったような気がしてしまう。のどかくんは不思議な雰囲気の持ち主だ。

「あー、一応連絡はしたんですけど」

 スマホを取り出して確認すると、既読すらついていなかった。ヒールで擦れたかかとが、今さら痛んだ。ちらりと目をやると、血は出ていなかった。

「本当は心配なんてしてないのかも」

と、のどかくんにスマホの画面を見せると、彼は、そっか、とわたしの隣に座り直した。

 横並びになり、白くてでこぼこの壁を見つめる。雨の音が遠くで響いている。心の涙が紛れているように感じて、ずっと雨が降り続いているのはこのせいだと怒りたくなった。心の底が浸水している。

「なぁちゃんもカズマも、きっとお喋りに夢中なだけです。好きなことをして、生きているから。あの二人は」

「自分の親のことなのに随分冷静なんだね」

「なんだか最近、他人みたいに感じることが多くなったんです。のどかくんはそういうことって」

「あるよ」

 三文字だけで伝わるのどかくんの優しさに包まれる。でもそこには年上の余裕に隠されたのどかくんの孤独も含まれている気がして、彼に触れることで自分と向き合うことになるのが怖くなる。のどかくんはわたしに似ているのかもしれない。

「小学生の頃から周りと違う家に育っていることは分かっていたはずなのに、中学生になってからそれが受け付けられなくなったんです。家族に対して、遠い親戚のような感覚を覚えるようになりました。別に喧嘩をすることが増えたわけではないし、仲が悪くなったわけでもないんです。ただ、親を一人の人間として見るようになったというか」

「それは別に悪いことじゃないよ。だって、成長しているってことだから」

「でも、一人の人間として見られるようになったら嫌なところも目につくようになりました。自分だったら絶対そんなこと言わない、絶対そんなことしないって。わたしはまだ子どもだけど、もしもわたしが親だったら子どもに絶対こんなことさせないって事あるごとに思うんです。なぁちゃんもカズマも好きなのに、どこか別の家族に生まれた自分を想像をすることもあるくらいなんです。だけど、それじゃあ今のわたしがまるで幸せじゃないみたいじゃないですか。自分のことを否定することが増えるのは、嫌なんです」

 顔を見なくても、のどかくんがわたしを見つめていることが分かる。息を呑む音まですぐそばに感じられる。しばらく心を落ち着かせるための、静かな時間があった。

「なにか、きっかけがあったの? そう思うようになった日の」

「いや、きっかけというよりも、毎日の積み重ねだからわからないんです。生活のなかに動画制作という根本があって、そもそもそれがおかしいんです。動画より子どもの気持ちを優先するべきだと思うんですけど、動画制作がお仕事である以上わたしもそれで生活しているから口を出せないし」

「まだ中学生だから?」

「はい、稼げないうちは仕方ないのかなって。もうすぐ高校生になるから、そしたらのどかくんみたいになりたいです」

「やめたほうがいいよ。俺も胸張って幸せとは言えないし」

 どうして、と言うよりも先に、のどかくんの瞳が今にも零れ落ちそうな寂しさで満ちていて、肩を近くに寄せる。身体のぬくもりだけでも寄り添いあえたら孤独が紛れるかと思ったのだ。

「ありがとう」

「寂しいと身体が冷たくなる気がします」

「冷たい?」

 のどかくんがそっと差し出した手のひらに触れると、わたしの手のほうが冷たくて思わず

「冷たい」

「嘘じゃん、君のほうが冷たいじゃん」

と笑いあった。こんなに幸せな状況があっていいものか、と手を握ると

「嘘みたいだね」

と握り返された。一緒にいれば温かいから、孤独も紛れているのだと思う。ずっとこのまま時が止まればいいと思ったけれど、もっと一緒に幸せになりたいとも思った。のどかくんがどう思っていたのかはわからないけれど、少なくともわたしは強くそう願った。

「きっかけ、あるかもしれません」

 身体を巡るひんやりとしたものが全て指先に集まっている。のどかくんはわたしを優しく慰めるように、親指でわたしの手の甲を撫でた。

「うん。どんなことか訊いてもいい?」

「わたし、小学校でも中学校でも一応友達はいたんです。みんな本当の名前では呼んでくれなかったけれど、確かに友達でした。放課後や土日にみんなで公園やゲームセンター、カラオケに行ったりして。なぁちゃんに少し咎められたこともあったけど、友達が少ないことは世間体的に良くないからと許してくれました。大人に囲まれて育ったから、同じ年の子と喋れるだけでもすごく嬉しかった。

 中学生の頃、いつも仲良くしていた友達と何人かで集まって遊んだんです。その日はカラオケに行ったんですよ。それで、何気なく、帰りにみんなで自撮りを撮ったんです。すごく楽しかったから、家に帰ってからプライベート用のSNSにそのみんなとの写真を載せて。鍵をかけたアカウントだったし、別に問題はないと思っていたんですよ。周りの友達も同じような投稿をしていたし、真似してみたかったのもあって。だけど、次の日になってその写真が流出したんです」

「流出」

 のどかくんは言葉をそっと抜き出すように呟いた。時折わたしの瞳を見つめて、じっくりと話を聞いてくれている。

「鍵をかけていても、中に入っている人が信頼できるとは限らないんですよね。中学生のわたしにはそれがまだ理解しきれていなくて、次の日は学校に行ったら友達に呼び出されて『早く投稿消して』『誰が流出したか検討くらいはつくでしょう?』って詰められました。あまりに突然のことで、そのときは黙りっぱなしでしたね。帰ったらなぁちゃんに怒られるなー、と少し遠回りして帰ったら、ネット記事を書いている記者の人に捕まって、もっと怒られました。

 母親はどんなときも子どもの味方だと思っていたんですけど、そのとき、なぁちゃんが開口一番に『ぽぽは有名なんだから、写真なんかあげたら駄目でしょう』って言ったんです。本名で呼ばれないことの寂しさと、クリエイターとしてのほうを大切にするんだなっていう失望で胸がいっぱいになって、その場で泣き崩れたんですね。そしたら、なぁちゃんがカメラを回し始めて。その泣いた顔が流出直後の動画のサムネイルに使われたりして、本当に地獄でした。子どもの気持ちなんてこれっぽっちも考えてない。所詮、親も誰かの子どもなんです。年齢を重ねただけの、子ども」

 沈んでいく空気を無理やり切り替えることもなく、のどかくんは静かに、ただ静かに聞いてくれた。

「子どもは自分が中心だからね」

「うん。のどかくんは心配、されないですか」

 ふと手を握ったまま訊いてみる。ぬくもりを保っていれば、少しだけ踏み込んでも怖くないと思えた。

「されない。俺、結構一人でも生きていけるんだ」

「大人だから?」

「そう、もう大人だから」

 そう言ってさっきよりも強く手を握るのどかくんは、幼稚園でいつまでもお迎えが来ない子どものような顔をしていた。本当はずっと寂しいのだ。どこまでもわたしと似ている。

「一人暮らしをしてるのも、大人だから?」

「俺、動画では一人っ子って言っているけど実は兄貴が一人いるんだ。これは動画を見ている人は誰も知らないはず。地元の人は知ってるけどさ。どうして公表しないの、って思ったでしょう。一人暮らしを始める少し前にさ『兄貴のほうが優秀で、お前はぼんやりしているタイプだからいないと思ったほうが気が楽なんだ』って、親に言われたの。母親に。それで」

「だから、逃げるように一人で」

「そう。嘘ついちゃっててごめんね」

 のどかくんはそう言って、わたしのおでこをつんつんと指で優しくついた。

「嘘つくっていうか、わたしたち今日会ったばっかりだよ」

「そっか、確かに。なんだかずっと前から知っていたような気がしてた」

 動画クリエイターの人たちはみんなそう言う。当たり前だ。だってわたしは産まれる前から「ぽぽちゃん」として親しまれているのだ。みんなが大好きななぁちゃんとカズマの間に産まれたたった一人の娘、ぽぽちゃん。誰もが羨ましがるようなおもちゃだらけの環境で、たくさんの明るい大人に囲まれて、元気に育っているぽぽちゃん。本当のわたしを見てくれる人なんてどこにもいなくて、ずっと一人で、孤独を抱えたまま笑顔を作っている。

「本当のわたしは今日会ったばっかりだから」

「うん、改めて今日からよろしくお願いします」

 はい、と生徒のように返事をして、二人で堪えきれない笑顔を分かち合った。初めて安心して過ごせる場所が見つかったような気がした。これがわたしとのどかくんの出会い。

 お互いに春休みを迎えたわたしたちは、それから何度も二人で会った。ファンやなぁちゃんにバレないように、会うのは決まってのどかくんの家。クリエイター同士で会っているのに、企画や動画の内容を考えずに、ただダラダラと時間を過ごせることが嬉しかった。のどかくんが普段あげているのはのんびりした日常のVlogやゆるいゲーム実況動画だ。おかげで、わたしとのどかくんは一日中二人でゲームをすることができた。それから、のどかくんは漫画が好きで、壁際にたくさんの漫画が詰められた背丈の低い本棚を置いていた。わたしはよくそこから漫画を借りて、読ませてもらった。おすすめの漫画はスポーツものやバトルものが多くて、自分とは違う環境で育ったことを感じられて面白かった。

「のどかくんの家って小さなネカフェみたいだよね」

と言ったら、のどかくんは

「ネカフェ行ったことあるんだ? 意外」

と驚いた。そうだ、このときにのどかくんにネカフェのコンソメ味ポテトがおすすめだと教えてもらった。のどかくんはわたしの知らないことをたくさん教えてくれた。例えば、手が小さい人は心臓も小さいんだって、とか、涙は堪えたら心が壊れちゃうから泣いた方がいいんだよ、とか。どうでもいいこともいっぱい教えてくれたけど、ほとんど忘れてしまった。でもそれでよかった。わたしは一緒に過ごせることに価値を感じているから。

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