2-5


 ばぁーんっ、と。

 大仰な音が空間に鳴り響き、私は音がした方に思わず目を向けた。眼前の赤倉さんも慌てて手を引っ込めて、何事かと視線を移ろわせる。

「……えっ?」目に飛びこんできた光景に私は驚愕している。混乱している。

 女子更衣室の端っこに鎮座する清掃用具ロッカー。その中から誰かが飛び出してきた。

 ……どゆこと?

 その誰かは男子の制服を身に纏い、片手にスマホを持っており――何故かハチマキで目隠しをしていた。そしてその人物の輪郭に、私は見覚えがある。

「ふ、藤吉……? アンタ、そんなとこで何やってんのよ!?」

 赤倉さんが焦ったように、彼の名前を呼んだ。

 藤吉くんはふぅっと息を整えたのち、目隠しをしたまま淡々とした口調で、

「赤倉、今の会話はこのスマホに全て録音させてもらった。このデータを教員にでも提出すればキミの悪行は明るみになる。キミがなるみもの髪を切れば、その行為は立派な犯罪として晴天の元に晒されるんだ」

「なっ……ッ」

 赤倉さんが声を詰まらせた。二の句を継がない彼女に代わって藤吉くんが畳みかける。

「キミが今後一切、なるみもにいじめ行為を行わないと約束するなら、この録音データを誰かに渡すのは勘弁してやる。今すぐここを出て行き、二度となるみもに近づくな」

 藤吉くんの口調は容赦がなかった。他の選択肢を許さない気迫を感じた。でも、

「……藤吉のクセに、私に命令してんじゃねーよ!?」

 私の意識が視界に奪われる。

 赤倉さんが右足をユラリとあげて、そのまま藤吉くんの胴体を前から蹴り飛ばした。

「グッ!」視界を奪われている彼の身体が後ろに吹き飛び、背中が壁に思い切り打ちつけられる。カラン、藤吉くんが手に持っていたスマホが床に転がった。

「――藤吉くん!?」私は思わず彼の名前を呼んだ。でも両腕を羽交い絞めにされている私は、彼に駆け寄ることができない。

 赤倉さんがだるそうに腰をかがめ、藤吉くんが手放したスマホを拾い上げた。画面に目をやりながら、「……チッ」苦々しく顔面を歪ませる。

 そのまま、うずくまっている藤吉くんへと目を向けて、

「おい、藤吉。ロック画面のパスコード教えなよ」

「……嫌だ」

 はぁっ――と大きく嘆息した赤倉さんが髪をかきあげ、つかつかと藤吉くんに近づいた。そのまま、彼の顔面を横薙ぎに思い切り蹴って、

「や、やめてっ!」私が再び叫ぶも、赤倉さんは私の声を一切無視する。

 屈みこんだ彼女が藤吉くんの髪を掴み、ぐいっと顔面を引っ張り上げた。

「パスコード教えないと、センコー呼ぶよ。藤吉くんが女子更衣室で覗きしてまーす――って」

「……構わない」

 藤吉くんはハァハァと息を整えながら、でもハッキリとそう言った。「……あっ?」赤倉さんが苛々しい声をこぼすも、彼は怯む素振りを見せず、

「例え僕に覗き魔のレッテルが張られたとしても、録音データは残り続ける。その間キミは、なるみもに手を出せないはずだ。彼女が助かるなら僕なんてどうなろうと構わないよ」

「てめっ――」

 赤倉さんは明らかに焦燥していた。頑なに折れない藤吉くんの態度に怒りをあらわにしていた。彼らのやり取りを見ていた私の胸に、大きな大きな疑問符が発芽する。

 藤吉くんはなんで、私なんかのためにここまで――

「どいつもこいつも……なんで、私の言うこと聞かないんだよ。なんで、私の思い通りになんないんだよ……クソッ!」

 彼らのやりとりを傍観している私の全身から、一瞬で血の気が抜けた。

 子どものように癇癪を起こす赤倉さんがとった次の行動は、およそ看過できるものではない。

 赤倉さんが、手に持っていた裁ちばさみの刃先を、藤吉くんの喉元につきつけはじめたんだ。

「藤吉……アンタ、言うこと聞かないと、殺すよ?」

 あらわになっている藤吉くんの肌の上から、赤い滴が垂れ始める。

「ちょっ……アカ、それはヤバいって――」

「うるさいっ!」

 私の右腕を拘束している茶髪の子が蒼白の表情を浮かべて力ない声をかけるも、赤倉さんの怒声にかき消されてしまう。

 私たちは戦慄していた。赤倉さんは明らかに正常な思考を保てていない。怒りに感情が支配されてしまっている。自分がとっている行動の是非を、判断できていない。

「ふ、藤吉くん。パスコード言って! 私の髪なんて、どうでもいいから!」

 私が金切り声で叫ぶも、「……ダメだよ」命の危険が迫ってなお、藤吉くんは頑なな態度を崩さなかった。

「なるみもはアイドルなんだから。キミの髪がボロボロに切られるなんて、そんなこと絶対にあっちゃあいけない」

「な、何言ってんだよ……。このままだと、キミ、ホントに――」

「大丈夫。こんなのタダのハッタリだ。一介の高校生に人なんて殺せるワケがない」

「……はっ?」

 煽るような藤吉くんの発言に、赤倉さんが女の子とは思えないほど低い唸り声をあげた。

「……アンタ、どこまで私をコケにすれば気が済むワケ? 私が冗談でこんなことしているって、そう思っているワケ?」

「思っているよ。っていうかいい加減諦めなよ。録音データが僕のスマホにある以上、キミはなるみもに手を出せない。さっさとそのハサミを降ろしてこの更衣室から出ていけ」

「……上等だよ」赤倉さんが、ワナワナと声を震わせている。

「藤吉ごときが、私を舐めやがって……、アンタなんか、ほんっとーに、ブッ殺してやるよッ!」

 つんざくような金切り声が、更衣室中に響き渡った。

 赤倉さんが藤吉くんの髪を左手で掴み上げたまま、裁ちバサミを持った右手を思いっきり振りかぶって――

 私は思わず目を瞑ってしまう。暗闇に視界が支配され、無音の時間が無限に続く。

 なんで、どうして、こんなことに。

 後悔にまみれたテキストが頭の中に溢れ、私の脳が現実世界の直視を明確に拒否していた。

 こんなことをしてもどうせ、藤吉くんの悲痛な叫び声が、すぐに――

 私はそう思っていた。そういう想像を、していたんだけど。

「『殺す』という言葉を使うからには、お前は命の重さを理解できているのだろうな?」

 藤吉くんの絶叫が聞こえてこない。

 代わりに耳に流れたのはこの場にいる誰でもない、第三者の声だった。

 恐る恐る目を開ける。視界に映ったその光景に、思わず私は「えっ?」と疑問符をこぼした。

 赤倉さんの腕は振り上がったまま。裁ちバサミを握った左手の手首を誰かが掴み上げている。誰か――真っ黒な長髪を背に流す羽黒さんが、灰色の瞳で赤倉さんを見下ろしていた。

「……あ、アンタは、転校生の……ッ?」

 赤倉さんもまた、困惑した表情で羽黒さんを見上げている。突如とした第三者の登場に、その場にいる全員がポカンと大口を開けていた。

「グッ!?」赤倉さんがうめき声を漏らし、裁ちバサミが地面に転がった。羽黒さんが手首を掴む力を強めて、耐えられなくなった赤倉さんが掌を開いてしまったんだろう。羽黒さんがだるそうな所作で裁ちバサミを拾い上げ、チョキチョキと弄ぶように刃を開閉させる。

「か、返せよっ!?」立ち上がった赤倉さんが羽黒さんに向けて手を伸ばすも、ひょいっと、羽黒さんは間髪で腕を上げることで彼女の奪取をかわす。

 体勢を崩した赤倉さんがヨロヨロとした足取りで、腕を震わせながら羽黒さんに人差し指を向けた。

「なんなのよ。アンタ、こいつらに関係ないでしょ? 邪魔しないでくれる? そもそも、どっから現れたのよ?」

「どちらの質問にも答える必要はない。私は自分の仕事に従事しているだけだ」

「……はぁっ?」

 要領の得ない羽黒さんの回答、赤倉さんが露骨に片眉を吊り上げるのは当然だろう。

 でも羽黒さんは、彼女の態度をまるごと無視するよう表情を一つも動かさない。

 次に放った彼女の台詞は、私が想像だにしないものだった。

「お前、私とゲームをしないか? 私が勝ったらお前らにはこの場から去ってもらう。お前が勝ったら、藤吉玲希と鳴海美百紗を好きにするがいい」

 羽黒さんの言葉を受けて、赤倉さんが困惑した顔つきでしどろもどろに返す。

「……何、言ってんの? いきなりゲームとか、そんなん、するワケ――」

「ルールは簡単だ。このハサミを今からお前に返そう。コレを使ってお前が私のことを殺すことができればお前の勝ち。失敗したらお前の負け」

 ――えっ……?

 唖然とする一同を他所に、羽黒さんは赤倉さんの右手首を再び掴み、手に持っていた裁ちバサミを彼女の掌に無理やり握りこませた、そのまま、

 彼女の手を誘導し、ハサミの刃先を自身の左胸の前にトンと突き立てる。

「……なっ、なんだよ……、アンタ、何やって――」

「さぁ、私は一切の抵抗を示す気はない。お前が少し力を込めて押し込めば、脆い人間の肉体など簡単に穴を開けることができるぞ?」

 赤倉さんの言葉を遮った羽黒さんが、ニヤリと口角を吊り上げる。

「人間の心臓は肋骨で覆われているからな。刃を水平にして、隙間を縫ってうまく刺しこむ必要がある。まぁこの刃渡りがあれば、充分に到達するだろう」

「い、イヤ――」

 赤倉さんは右手を引いて羽黒さんの胸から離そうとしているようだ。しかし羽黒さんが覆った両掌がぎゅうっと握りこまれているためか、微動だにしない。赤倉さんが情けなく腕を上下運動させる様を、羽黒さんが冷たい目つきで眺めている。

「さっきお前、『殺す』と言ってたよな? 人の命を奪う覚悟を、持っているということだよな? ……どうした、何を躊躇している。すぐに拝めるぞ? 外傷性心疾患により血流のポンプ機能が損傷し、みるみるうちに体温を失っていく私の姿が。口から血反吐の塊を吹き出す私の姿が。小便を垂れ流し、ピクピクと全身を痙攣させる私の姿が」

「ヤダ、ヤダ……お願い、離して――」

 赤倉さんが幼子のように弱々しい声を漏らし始めるも、羽黒さんは一切聞き入れぬ調子で、

「なんだ? できんのか? どれ少し……手伝ってやろうか」

 ズブリ。

 羽黒さんの左胸。白のワイシャツの上を濁った赤色の染みが広がった。

「ひっ……ひぃっ!」

 赤倉さんが甲高く悲痛な声をあげ、彼女は涙目になりながらガタガタ全身を震わせていた。彼女だけじゃない。私を拘束していた周囲の女の子達もうめき声を漏らし、蒼白の表情で口元を手でおさえはじめる。私とて、あまりの恐怖に全身が硬直し足にうまく力が入らない。

「い……いやぁぁぁぁぁっ!」

 いよいよ赤倉さんが絶叫した。羽黒さんに掴みこまれていた右手を無理やりはがして、足をもつれさせながら更衣室の入り口に駆け出す。私の周りにいた他の女の子たちも私の元から離れて赤倉さんにつづく。でも

 ガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャッ。

「あっ、開かない!? な、なんで――」

 赤倉さんがドアノブに手をかけ無理やり引き開けようとするも、何故だか更衣室の扉が開かない。彼女たちが体当たりと共に無理やり開け放とうとしても、反対側から無理やり抑え込まているようにドアが戻ってしまう。

 絶叫が空間に轟くさ中、羽黒さんがユラリと彼女たちに近づいて、

「赤倉とやら、お前は『失敗』したな。このゲーム、私の勝ちだ」

「だ、誰か……誰か、助けてっ! こ、殺される……ッ!」

 羽黒さんの声はおそらく、赤倉さんたちに一切届いてない。彼女たちは平静を失った様そうで、泣きわめきながら更衣室の扉をドンドンと叩いていた。

 すがるように身を寄せて、わが身かわいさに一切の見てくれを捨て去っていた。

 羽黒さんがふぅっと嘆息した。だるそうに前髪を掻きあげながら、「おい、赤倉とやら」ボソボソと、抑揚のない口調で、

「覚悟がないのならな。『殺す』なんて言葉……二度と使うな」

 ドンドンッ、ドンドンッ。必死に扉をたたくだけの赤倉さんに、羽黒さんの声が届いているかはわからない。羽黒さんが再び嘆息した。

「……もういいぞっ」

 彼女が少し大きな声をドアに向かって放ると、ガチャリ。それまで一切微動だにしなかった更衣室の扉がいとも簡単に開いた。赤倉さんたちの身体が屋外へとなだれこみ、そのまま彼女たちは一目散に逃げていった。

 到来した静寂が空間を包み、私はヘナヘナとその場にへたりこむ。

 ドクドクと心臓の音が鳴りやまない。状況の変化が早すぎて、私の脳は展開についていけてなかった。そして更なる登場人物の参戦により、私の脳は更なる混乱をきたした。

「もーっ! 遅いですよーっ! アタシはか弱い天使……じゃなかった、女子高生なんですからねーっ! あんまり重労働ばっか、させないでくださいよーっ!」

 先ほどまでの殺伐がうってかわり、のん気で可愛らしい声が私の耳に飛び込む。

 開け放たれた更衣室の入り口から中に入ってきたのは金髪ブロンドヘアの女の子。私や羽黒さんと同じタイミングで転校してきた若井さんだった。彼女は両手を腰に手を当てて、なにやらプリプリとおかんむりのご様子。

「何がか弱いだ。お前の馬鹿力があれば、例え相撲取り数人がつっぱり張り手をかましたところで、ドアの一枚や二枚塞ぐことなんぞ容易だろう」

 どうやら、更衣室の扉が開かなかったのは、裏から若井さんが押さえつけていたかららしい。

 不満げに口をすぼめていた彼女だったが、今度はギョッと目を丸くする。

「って、シレネ様!? ……じゃなかった、雪乃ちゃん!? け、け、怪我してるじゃないですかーっ!? 無茶苦茶はするなってあれほど言っておいたのにーっ!? もーっ!」

 若井さんが露骨に慌てながら羽黒さんに近づくと、羽黒さんが何でもないような所作で血に染まった胸元に目をやり、

「ああ、大したことはない。皮膚と肉が少しえぐれただけだからな。しかし細菌感染により化膿したら厄介だ。どれ、エーデル……じゃなかった。若井菫、私を保健室に連れて行き、手当をしろ」

「言われなくてもそうしますよーっ! もーっ! 手がかかるなーっ!」

 ぐいぐいっと若井さんに腕を引っ張られている羽黒さんの視線が移ろい、地面にへたりこんでいる私へと向けられた。

「鳴海美百紗よ。藤吉玲希も軽度ながら、先ほど赤倉とやらに暴行を受けていたな。奴の保護はお前に任せる」

「……えっ? あっ、うん――」

 阿呆面を晒していただけの私が辛うじた返事を返すと、羽黒さんは満足げに口元を綻ばせた。そのまま若井さんにずるずると身体を引っ張られていき、バタン、扉の閉められた女子更衣室には私と、未だはちまきで目隠しをしている藤吉くんだけが残される。

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