夜桜見物
今年は桜の開花が早い。まだ完全に満開だとは言えないけど、地元で有名な桜の並木通りには、たくさんの人たちが花見を目的に押し寄せていた。もともと等間隔に街灯が並んでいるところであるため、夜桜見物のスポットとしても人気だ。そこから徒歩20分ほど離れたところの公園にも大きな桜の木が数本植えられており、私が住んでいるマンションのベランダからよく見える。
(今年も綺麗だなぁ…)
仕事柄、在宅が基本のため、桜が綺麗に咲き誇るこの時期は仕事で煮詰まったときに気軽に気分転換ができるから、1年で1番好きなときだ。
高校では理系のカリキュラムに身を置いていたが、昔から絵を描くことが好きだったため、最初はデザイン関係の専門学校に進学しようと真剣に考えた。しかし、センスや才能が大きく問われる業界にいきなり飛び込むよりは高校で培った理系の知識を磨くことはどうか、という親からの強い勧めを受け、医用生体工学を学べる大学に進んだ。絵を描くことと同様にSF映画っぽい人工臓器についても興味があったからだ。やがて大学を卒業した私は、とある医療機器メーカーに就職した。最初は研修の日々だったけど、徐々にやりがいのある仕事に参加させてもらえることが増えていき、充実した日々を送るようになった。けれども入社4年目を迎えた頃には、絵を描くことをただの趣味の1つに留めていることに若干の不満を抱えるようになった。大学での講義や休憩時間、就職してからもずっと帰宅後に臓器や医療器具の絵や設計図をよく描いてきた。このまま会社でのキャリアや勤務歴を積み重ねるだけでいいのかと大いに悩んだ。そのことを取引先関係で知り合った当時の交際相手の彼女に相談したところ、彼女はタブレット端末で私の絵を見るなり、挑戦するべきだと背中を押してくれた。彼女の一言で勇気を持てた私は、医療関係のイラストを専門とするメディカルイラストレーターを目指すべく、職場の上司に休憩時間に相談してみた。中小企業であったとはいえ、意外にもすぐにこの件は社長や他の経営陣の知るところとなった。全員が私の絵を見ることとなり、少し恥ずかしかったが、それなりの評価を得られたときの嬉しさや達成感は今でも覚えている。話し合いを重ねた結果、私は休職扱いとなり、その間に専門学校に通うことを許された。会社の規模からして、授業料を100%カバーしてもらうことはさすがに無理であったが、家賃補償といった細かい面でサポートしてくれることになった。さらに交際相手である彼女は、私が家事を一通りしてくれるのなら、同棲して生活費を多少なりとも応援すると申し出てくれた。そうした周囲の温かい応援のもと、3年間の専門学校のカリキュラムを無事に終えることができた。やがて復職した私は、メディカルイラストレーターとして歩み始めた。同時に長らく私を支えてきてくれた彼女と入籍し、恩返しするべく、より一層家事能力に磨きをかけた。現在は、勤めていた会社の買収を機に独立し、フリーのイラストレーターとして在宅で働きながら、磨き上げられた家事能力で妻を支えている。
妻は今日、出張で出掛けている。せっかく桜が綺麗に咲き誇っているのに、一緒に見られないのが残念だ。ベランダから見える公園の巨大な桜の木が、街灯でいい感じにライトアップされていて実に綺麗だ。ふと時計を見ると、時刻は午後7時34分。
(ん〜、もう少し頑張るか)
医療系の出版社や医療機器メーカーからのイラストの依頼をいくつか抱えていた私は、寝るまでにある程度作業を進めることにした。納期にはまだ時間があるが、何が起こるか分からないため保険をかけておきたくなってしまう。とはいえ、紆余曲折あった人生の末に好きなことを生業にすることのできる充実さの有り難みを考えれば、苦でもない。そう思うと、作業が捗る。
「ふう…。こんなものかな」
腕時計で時間を確認してみると、時刻は午後11時47分。
(風呂に入ろう)
風呂場に行き、湯船にお湯を入れている間、私はベランダに出て夜桜見物をすることにした。
(ほんと、桜はいい)
妻が帰ってくる頃には少し散ってしまっているのではないか、と少し心配になってしまう。
(ちょっと見に行ってみるか)
風呂は自動で湯を張ってくれているので溢れる心配はない。私は上着を羽織って出掛けることにした。絵描きならではの職業病なのか、桜を眺めながらスケッチできるようにタブレット端末とそれに対応する専用のペンを持って公園に向かった。さすがに遅い時間だったため、マンションを出て公園に行くまでに誰にも会うことがなかった。
「おお……」
いつもベランダから見下ろしていた桜の木は、近くに来て見上げてみると、上手く言葉で言い表すことができないと悟ってしまうほど見事であった。しばらく眺めていると、
「おや、先客がいらっしゃいましたか」
振り返ると、黒いスーツにこれまた黒い布マスクを着用している若い男性が立っていた。手には、黒い鞄のような物を持っている。
(このあたりの住人かな?)
とりあえず、軽く会釈しておいた。すると、
「おひとりでいらしたところ申し訳ありません。ちょっと、これから私の友人たちが夜桜見物に来るのですが、よろしいですか?」
(随分と律儀だな。…というか、この時間に花見?)
「構いませんよ。ここは私の土地ではなく、公園ですので」
「ありがとうございます」
男が私に一礼すると、彼の後ろにある公園の入り口付近から楽器の音色が聞こえてきた。それも1つどころではない。
(こんな夜更けに音楽だなんて、近所中から苦情が来るだろうに…)
無数の楽器の音が徐々に近づいて来るが、近所の住人たちが窓から覗いたり、公園に怒鳴り込んできたりする様子はなかった。
「あれは…⁉︎」
暗闇の奥から現れてきた者たちは、異形の集団であった。昔、レンタルビデオ店で借りたアニメ作品で似たような者たちを見たことがある。
『おお、綺麗な桜じゃ』
『ほんとだぁ〜』
『今年も見事よのぉ』
『酒じゃ、酒じゃ』
(妖怪だ‼︎…信じられない)
「皆さ〜ん、こちらで〜す」
スーツ姿の男が異形の者たちに向かって手を振る。
(友人って、妖怪たちのことかよ⁉︎)
「驚かせてしまい申し訳ありません。彼らとは仕事関係で知り合いまして。あ、そうそう。私、医薬品関係の営業をしております、黒衣漆黒と申します」
「はあ、そうですか…」
職業と名を紹介した男は、しばらく私を眺めた。
「ん〜、拝見させていただいたところ、イラストレーターでいらっしゃいますか?」
「⁉︎」
「いやぁ、長く営業しておりますと人間観察が得意になりましてね」
(妖怪とつながりのある製薬企業の営業って何だ⁉︎)
『おお、漆黒殿。久しいのぉ』
『漆黒さん、今宵はいい酒を持って来ましたぞ』
『おや、人間もいる』
『ほんとだ』
気付くと、周囲を無数の妖怪たちが私と彼を取り囲んでいた。
「皆さん、お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。こちらの方は先ほど偶然お会いした絵描きの方になります。よろしくお願いします」
『ほぉ〜、絵師か』
『今宵の花見は賑やかになりそうだのう』
黒衣と名乗った男の紹介のおかげで、妖怪たちに暖かく迎えられた私は彼らの宴に混ざることになった。戸惑いもあったが、彼らは非常に友好的であり、なにより目の前の光景が全て驚きの連続であったので、自然と私も大いに楽しむようになった。猫又が勧めてきた『またたび酒』、河童が持ってきた『きゅうりの漬け物』や妖狐自慢の『いなり寿司』。どれも実に絶品であった。
(この光景を描きたいな)
大きな桜の木の下で妖怪たちが大宴会を催す光景は、私の絵描きとしての本能を奮い立たせた。宴会の輪から少し離れたところにある公園のベンチに座り、早速私は目の前の様子を持っていたタブレット端末に描き始めた。これほどの非日常の世界をスケッチするという可笑しなことはないので、描くのがすごく楽しい。色は帰ってから塗ることにして、ひたすら描き続けると、
「いい絵ですね」
漆黒殿と妖怪たちに慕われている彼が、いつのまにか私の後ろからタブレット端末を覗き込んでいた。
「出来上がりましたら、その絵をください」
その言葉を聞いた直後に、私の意識は遠のいた。
「……ん」
気がつくと、私は自宅のリビングのソファで寝ていた。あたりを見回して、テーブルの上に置いてあったタブレット端末に妖怪たちのスケッチが残っていないか確認してみた。
「…あった」
夢ではなかったようだ。しばらく呆然としていたが、テーブルの上に置いてある紙袋に目がいった。
(なんだ、これ?)
開けると陶器製の瓶と手紙が入っていた。手紙には、
『昨夜は私どもの花見に参加していただき、誠にありがとうございました。この手紙と一緒に袋に入っております瓶は【常時鍼灸治療】という塗り薬でございます。絵描きの方は手先が疲れたり、肩が凝ったりして大変だと伺いましたので、ぜひ使ってみてください』
紙袋の中を確認してみると、彼のものと思われる名刺が入っていた。興味深いから、いつか連絡してみよう。
* * *
* *
*
あの不思議な夜桜見物から2ヶ月が経った。変わらず私は家事全般を担当して忙しい妻をサポートしつつ、イラストレーターとしていくつかの案件を抱えていた。黒衣という男から薬をもらったあとに少し時間がかかったものの、あの日見た妖怪たちの絵を完成させた私はデータを薬と一緒に同封されていた彼の連絡先にメールで送った。すると翌日には、見知らぬアドレスからメールがいくつか届いた。読んでみると、どれも絵に関するお礼であり、あの日の花見に参加し、私の絵に偶然描かれていた妖怪たちからであった。
(妖怪たちもスマートフォンとか持っているのか)
その後、医療関係のイラスト以外にも妖怪たちからの依頼を時折請け負うようになった。
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