映画館スタッフ

 昨年の春に俺は関東圏内の大学に進学した。それから1年ぐらいかけて映画館のバイトで貯めた貯金で中古の原付を買い、通学やバイトへの交通手段として使うようになった。


(バイクは良い。車と比べたら不便だけど、風を感じながら疾走する感覚が楽しい…)


 大学の後期の試験を終えて、無事必要な単位を確保できた俺は春休みに泊まりがけのツーリングをすることにした。とはいえ、まだ寒いことから出発は3月の下旬と考え、それまでは映画館のバイトに勤しむことにした。映画館での俺の担当は主にポップコーン売り場だ。お客様から注文を聞いて、ドリンクやポップコーンなどをひたすら用意して会計するのが俺の仕事。バイト先の映画館は大学の近くにあるだけでなく、東京へのアクセスが良い駅の近くにあるため、ビジネスマンやその家族といった幅広い年齢層の人たちが常に大勢来る。つまり、年中忙しいのだ。まあ、大作の映画が公開していない時期は比較的人は少ないけど、それでも週末になるとそれなりの来場者数となる。


* * *


* *



 その日は、某国民的アニメの劇場版が公開初日だった。朝一からシフトが入っていた俺は家族連れで混み合うバイト先に覚悟を決めて原付で向かった。男性スタッフ用更衣室で着替えを終えると、俺は先に事務室に集まっていた先輩スタッフや社員さんたちに挨拶をしつつ、劇場スタッフ用の無線や小型のライトを腰につけていった。そして、今日の上映スケジュールが記載された紙を受け取って朝礼で社員さんたちと情報共有をしてからポップコーン売り場で作業を始めた。


(今日は朝から混みそうだから、ポップコーンの鍋は塩味とキャメル味でそれぞれ2回ぐらい…)


劇場開場後にすぐ上映が始まる作品の現段階で予想される来場者数の合計人数を無線で事務室にいる社員さんに確認して、温まったポップコーンの鍋に材料を入れていく。


(もう何度もやってきた作業だ。…そういえば、ここでのバイトを始めて、どれくらいのポップコーンを作ってきたのだろうか?)


物思いに耽っていると、背中に衝撃を感じた。


「っ⁉︎」

「ごめん!大丈夫?」


考え事していたせいで、他のスタッフの邪魔になってしまい、レジの準備をしようと移動してきた先輩スタッフとぶつかってしまった。


「大丈夫です。ぼーっとしていた俺が悪いんで…」

「そう?火傷とかしてない?」


ポップコーンの材料を入れていた左手の手首を見ると少し赤くなっているのが分かった。


(この程度なら、水で冷やしておけば大丈夫だろう)


その後、ポップコーン売り場の準備が整ったところで劇場の開場時間となった。週末でしかも大作のアニメ映画公開日とあって家族連れが多い。ファミリー層が厚いということは、一回の会計で家族の人数分のドリンクとポップコーンなどのフードも用意しないといけない。しかもそれが各レジで長蛇の列をなしている。俺はミスをしないようにと気をつけながら、ひたすらレジを打ちまくった。


 およそ1時間ほどで売り場は落ち着いてきた。だからといって休んでいいわけではない。すぐに別のスクリーンで他の作品の上映が始まるから、ポップコーンやドリンクなどのカップの補充やカウンター内の床に散らばったポップコーンを掃除していかなければいけない。


 正午過ぎに先輩スタッフから休憩に入ってもいいと言われたので、更衣室に戻ってロッカーから上着を取り出し、制服の上から羽織った。開場前の準備で負った火傷が思いのほか、ヒリヒリして痛い。ちょうど近くにドラッグストアがあるのを思い出して、塗り薬かなにかを買いに行くことにした。更衣室を出て、劇場内を少し歩いたところにあるスタッフ用の出入り口を出て目的のドラッグストアへと向かった。5分もかからないうちに到着し、店の自動ドアが開くのと同時に店内に入った。


「えっ……」


いつもなら明るい照明と白い清潔な床が拡がっていて、無数の商品棚と宣伝用のBGMが出迎えてくれるはずなのに、それがそこにはなかった。


「…なんだよ、ここは?」


終わりの見えない暗闇がどこまでも続いている空間のなかに俺は佇んでいた。


「いらっしゃいませ」

「⁉︎」


振り返ると、ヨーロッパの街並みにありそうな1本の街灯がこれまたおしゃれなバーカウンターを照らしていた。そのカウンターの中には1人の男が立っていた。20代後半から30代前半あたりだろうか。黒のスーツとネクタイの下にグレーのシャツを着ている彼からは人当たりの良さそうな雰囲気が感じられた。顔の下半分が黒色のマスクで隠されていても、こちらに向かって微笑みかけているのが分かる。


「あの…、ここは?」


戸惑いながらも、彼に尋ねてみた。


「当店は何かしらのお薬を必要とされていらっしゃる方の前に現れる薬屋でございます。私はこちらの店主でございます」

「は、はあ」


いまいち信じ難い状況だ。


「ご心配なく。お客様のご用件が済まされましたら、もとの場所へと戻られることができますので」

「用件?」

「はい。入り用なのでしょ?左手首の火傷に」

「⁉︎」


(なんで知っているんだ⁉︎)


「仕事柄分かるんですよ。お客様が何をお求めなのかを」


スーツ姿の彼は、そう言ってカウンターの下から黒いレザー製のアタッシュケースを取り出した。カウンターの上でそれを開くと、俺に中身が見えるようにケースを反転させた。見ると、よくジャムなどが入っている物と同じくらいの大きさの瓶が1つ入っていた。


「…?」

「こちらは【雪女の息吹き】という火傷に効く塗り薬でございます」

「【雪女の息吹き】…」


俺は彼に紹介された塗り薬を見つめた。


「市販の塗り薬ではすぐに治ることは難しいことですが、こちらならその日のうちに完治いたします」


(そんなのありかよ…)


「お値段は、おひとつ1,000円となります」


勝手に話が進んでいく。そのとき、俺は彼が最初に言った言葉を思い出した。


ー『お客様のご用件が済まされましたら、もとの場所へと戻られることができますので』ー


(用件が済まされないと戻れないというのなら買うしかないのだろう)


「ひ…ひとつ、ください」

「ありがとうございます」


黒スーツの彼はお金を受け取ると、塗り薬が入っている瓶を紙袋に入れて俺に差し出した。


「またのご利用お待ちしております」


そう言って男が俺にむかって一礼すると、暗闇だった周囲が明るくなっていった。


「⁉︎」


気がつくと、先ほど俺が入ろうとしていたドラッグストアの自動ドアの側に立っていた。男から受け取った紙袋を持っていることに気づいた俺は、あの空間での出来事は確かにあったことなんだと不思議と納得している自分にしばらく驚いていた。スマートフォンで時間を確認すると俺が休憩で劇場を離れた直後の時間であった。


(あの場所で過ごした時間はもとの場所ではカウントされない仕組みなんだろうか?)


 劇場内の更衣室に戻った俺は、さっそく薬を火傷した部分に塗った。手首全体にひんやりとした感覚が徐々に拡がっていく。やがて、赤くなっていた火傷の痕は消えてしまった。


(即効性かよ…)


* * *


* *



 その後、俺が大学を卒業してバイトを辞めるまで何度かドラッグストアに寄ることはあったが、黒スーツの彼が出迎えてくれることは一度もなかった。

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