第14話 茶色

「大丈夫だよ。みんな人に慣れた猫だから」

 若く、同い年くらいの男女も多くいる。ソファや床に座る人を真似るように、僕らは膝を曲げて床に腰を落とす。飼われている猫なだけあって、自然と一匹のトラ猫が僕らに近寄った。しかし僕の前を通り過ぎると、そのまま彩音の膝の上に乗ってしまった。

 そして数分後、十匹弱の猫たちは、僕らの周りばかりに集まっていた。それも僕にはあまり近寄ってはくれないが、彩音を取り囲むように集まっている。カメラのフラッシュをオフにして、その光景を少し離れた箇所に移ってシャッターを切る。

「すごいねあの白い髪の人……通い詰めてる人か、モデルか何かかな?」

 ヒソヒソと背中側でこちらの話をしているのが聞こえる。僕は何よりも、彩音にとって居心地が悪くないかが気がかりで仕方がない。ちらりと横目で確かめるその瞳は、いつにも増して、嬉しそうだった。肩、膝、頭にまで居心地良さそうに座る猫たちと、楽しそうに猫じゃらしを持つその姿に、落ち着くような愛しさがあった。


「あ、やめて」

 頭に乗っていたマンチカンが降りると、華奢な肩にバランスよく座る黒猫が帽子をおもちゃのように突き始めてしまった。優しく彩音が伝えるも、お構いなしに帽子に向かって手を伸ばす。頭頂部を右手で押さえているとはいえ、彩音は帽子を取られるのが本当に嫌そうだ。僕が肩に乗る猫に持ち上げようと、そばに寄ったとき、近くのキャットタワーから白猫が帽子の鍔に目掛けて飛び移ろうとした。

「キャッ!」

 その勢いで、帽子が肩に乗っていた黒猫と共に落ちてしまう。目線が集められているのが、周囲を確認しなくとも理解できる。

「え……まつ毛まで白い」

 近くにいた人の会話が聞こえる。慌てて帽子を被り直すも、その透明感あるアルビノの顔を、見られてしまった。何事もなかったようにする彩音だが、先ほどのような表情はもう残っていない。


「大丈夫?」

 軽く頷いて反応はしてくれたが、部屋の空気が明らかに先ほどとは違うものだった。自分が落ち着いていないのが、腕を掴まれてからようやく気がついた。

「大丈夫だから。慣れてる」

 その短く小さな声が胸の奥に何か小さな棘を刺したような感覚だった。誰も悪くはないとはわかっている。しかしどうしても、誰かのせいにしなければ気が済まない自分がいたのも事実だ。こんな自分が、酷く憎かった。

 その後は人の入れ替えも多くなり、彩音の顔を見た人達は退室の時間がきたようで、僕らが部屋で一番古い人となっていた。スマホで時間を確認すると、残り十分強といったところだ。数分前に、ソファが空いたタイミングで硬いカーペットの上から移動していた。ふかふかで沈むような座り心地に体を離したくはない。しかし延長料金を払うほど、ここにいるわけにもいかない。お店から外へ踏み出すと、西陽が僕らと街並みを襲い始めている。月明かりが出始める、序章のようだった。


「じゃあ次行こう」

 うん、そう頷きと返事をもらい、歩き出す。徒歩数分で到着した、空を突き刺そうとする大きな建物に入り、僕らは大きなエレベーターで上へ上へと向かう。耳の奥が圧迫されるような感覚に、彩音は驚いていた。

「唾を飲み込むと治るよ」

 耳元で伝えると、僕の袖を掴んでいた指先は安心したように僕から遠ざかる。

 到着の音とともに三と八が並ぶデジタル表示板。ここまでの高所は人生でも数え切れるほどしかない。扉が開き、ぞろぞろと人が溢れるような波に流れ、ガラス張りの展望台に到着した。東京のビルだらけの街を雄黄色ゆうおういろ杏色あんずいろ梔子色くちなしいろなどの様々なオレンジ色に似た色のグラデーションが、冬の昼に終わりを告げているようだ。

 遠くの雲が毎秒ごと、僅かに形を変えつつ、暖かそうな水の上を泳いでいるように見える。白と黒ばかりの高い建物ばかりの中に、真っ赤な鉄筋のタワーがその馴染まない存在感で際立っている。


「綺麗だね」

 そっと掛けた声を追うように隣を気にかけた。

 その涙を見るのは、二回目だった。頬を伝う右目から零れた雫は夕陽に照らされ、透明ではなかった。

「どうしたの?」

 僕の掛けた言葉で、ようやく自分が泣いていることに気付いたようだ。袖で涙を拭うも、もう一度、雫が垂れる。

「わからない。勝手に出てくるの。……けど、初めて街並みを見て素敵だと思えた」

 僕がこれまでに見ていた世界は当たり前なものだけれど、隣で同じ景色を目の当たりにしている彩音には全くの別物に写っていることが未だに信じがたい。

「どんな風に見える?」

 息をひとつ飲み込んで、声を出してくれた。

「……焼けたような空の海が、大きな魚を飲み込もうとしてるみたい」

「大きな魚?」

彩音は一度頷くと、ガラス越しの東京に指を差して説明してくれた。

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