第5話 ベージュ色

「もう行こう。立っているだけだと体が冷えそう」

 そそくさと歩き出す彼女を後ろを、今度は僕が着いて歩く。木製の歩道の終わり、道がアスファルトに変わると、公園のような場所が現れた。屋根のついたテーブルとベンチがある。僕らは誘われるように公園の中に入る。

 休憩場所を越すと、ここが丘の上にある公園なのだと、ようやく気が付いた。大きな階段の横には、一本の木が見守るように街並みを見下ろしている。その隣で僕らは足を止めた。

 海のような街景色がこの星の広大さを物語っているようだ。遠くの方にはビルが列を乱して並んでいる。近くの大通りからはスポーツカーのエンジン音が響いている。その間を割くように川が流れ、まるで二つの世界の境目のようだ。


「こんなところがあったんだね。すごく遠くまで見える」

 彼女の横に立つ、裸になりかけている木から落ち葉が一枚、ベージュ色の帽子に寄りかかる。僕はその様子を見て、シャッターを切った。

「どうして今私を撮ったの?」

 僕は枯葉を手に取り、彼女の顔の前で見せた。

「ほら、頭に黄色い秋が降ってきたみたいで」

 そう伝えると、彼女の隣の木陰からクスクスとした笑い声が聞こえてきた。僕らは目を向ける。秋を着たような木の隣に、添えるように置かれたベンチに座る女性が、口に手を添えて笑っている。


「ごめんなさい、秋が降ってきたって、素敵な言い方だったから」

 その女性は、とても整った顔立ちだった。白い素肌に、高い鼻、そしてこの人もマフラーをしている。しかしその色は赤と白のチェックで、どちらかといえば冬のような色だ。

「ここに来るのは初めてですか?」

 そう女性に訊かれると、彼女は僕の袖をさりげなく掴んでいた。きっとトラウマが蘇ったのだろうと悟る。

「はい、友達にここの景色が綺麗だと教えてもらいまして」

「そうなんだ! 私もうすぐ行かなきゃいけないんだけど、それまで良かったら話しません?」

 女性には笑顔の絶えない人だと感じた。けれど僕は彼女に考慮して、断ろうと考えた。

「申し訳ないですが……」


「いいですよ」

 僕の声に重ねた彼女の口が漏らした言葉は意外なものだった。

「ありがとう!」

 女性がそう活気良く言うとベンチの端に座り直し、女性の隣に彼女、そして反対の端に僕、といった順で身を寄せる。彼女は黙ったままただ真っ直ぐと街並みにまつ毛を向けるだけだった。

「おふたりは、いくつですか?」

「十八……あ、十九です」

 ようやく顔を女性へ向けたと思うと、躊躇うこともなく答えた。僕の質問には流すときさえあるというのに。

「僕も十九です」

「じゃあおふたりは同い年なんですね! なんだかお似合いです! 私は二十一歳だから、三人ほぼ同い歳ですね!」

 ニコニコとした表情の収まらない女性は、幸せの文字を擬人化したような存在に感じる。


「……貴女は、どうしてここに来たの?」

 身動き一つ取らずに彼女が問う。女性は首を傾けて笑顔をこちらに向ける。

「それは、今日の話? それとも、初めて来たときの話?」

「……じゃあ、どちらも教えてもらえる?」

 迷った挙句、欲張ったような質問にも、女性は嬉しそうに僕らへ語ってくれた。

「初めて来たときは、何となく夜景ってものを見てみたくって、それで当時片思いしていた彼に連れてきてもらったの。ここは夜景もすごく綺麗で……敬語辞めても大丈夫? 同じくらいの歳なのに、何だか違和感があって……」

 彼女に目を向けられ、言葉を使わずに察することができた。

「はい、僕らは大丈夫ですよ」


「ありがとう! それで、えーっと、あ、今日どうしてここに来たか、だったね」

 よく喋る人でもあった。彼女とはまるで逆だ。しかし彼女は飽きる様子もなく、女性の話に興味を向け続けている。

「今日はー、うーん、気分?」

 ニコッと笑う女性を見て、僕は漏れるように声が抜けた。

「気分……」

「ほかに理由はないの? 理由がなければこんなところ、普通来ないわ」

 ぶつける様な口ぶりに、女性は少し驚いた表情だった。

「理由なんかなくても、行きたいところに行くことができるのが、生き物ってものでしょう?」

 首を傾げ、僕らの顔を覗き込むようにした女性は、続ける。


「それに、こんなところだからこそ、来たくなっちゃうものだよ。ほら、すぐそこを歩いているおばあさんとか、遠くの方を走っている車、空を飛ぶ蟻のように小さい飛行機。全てに一人ひとりの人生が関わっていて、それをここは一望できる。素敵な場所だよ」

 女性の言葉には、何か芯のような強さを感じた。僕は何も言い返すことも、頷くこともできなかった。彼女から小さな溜め息が抜けると、負けたような口調で声を返した。

「貴女、不思議な人ね」


「私、すい。あなたたちは?」

「私は彩音あやね。この人は……」

「僕は幸助といいます」

「貴方、幸助って名前だったのね」

 翠さんは再び首を傾げ、一拍置いて状況を理解していた。

「あなた達、お互いの名前を知らなかったの⁉︎」

「えぇ、私達、会うのは二回目なの」

 本当は初めて見かけた眼科で名字だけは聞いていたなんて、言えたものじゃない。僕は何も言わずにただふたりの話を聞いていた。


「会った日に名前って訊くものじゃない?」

「私達が出会ったのはたまたまだし、また会うことがあるなんて思っていなかったの」

 ふーん、と抜けたような声でそう言って、翠さんは背もたれのないベンチの後ろに手をかけ、空に身体を向ける。楽観的なその態度が、羨ましくもあり、妬ましくもあった。

「じゃあ今日はふたりの初デートなんだね」

「別にデートってほどじゃないですよ」

 僕もそのつもりだった。特に何かを楽しみにいくとか、ふたりだけの思い出を作りに来たわけでもないと、そう自分に語る。何キロも離れた空色そらいろの背景に、一機の飛行機がまっすぐな雲を作り上げていた。


「今日もすごく良い日だなぁ……そうだ幸助くん、そのカメラは? 紅葉を撮りにきたの?」

 首から下げていた一眼レフカメラに興味を示す翠さんに、僕はお祖父ちゃんから貰ったものだということを話した。しかし色を探しにきたということは言葉が喉に引っ掛かり、話さなかった。

「ここの景色、すごくいいね」

 僕は徐にこの景色へレンズ越しに再び目を向ける。この景色も、彼女にはうす暗い世界にしか見えないと考えると、ちくりと胸が痛む。一つのシャッター音が、辺りに響いた。

「え! もうこんな時間だったの! ごめんもう私行かなきゃだ!」

 自分の腕時計を確認してベンチから飛ぶように立ち上がった翠さんは、何かを思い出したようで、慌てて鞄の紐を肩にかける。ありがとうじゃあね、とだけ言ってそそくさ背中を見せて姿を消した。彼女は一度も、翠さんに目を向けることはなかった。


「どうして話そうと思ったの?」

彼女は僕の質問を飲み込むように大きく息を吸った。そして、ゆっくりと吐き出した。

「どうしてだろうね」

 春風に似た空気の流れが木の葉を擽る音を作る。静かな雰囲気が服で隠し切れない肌を冷やすのを感じながら、僕らは会話をしていたことも忘れるように広い街並みを眺める。この時間が僕にとっては、とても長い期間だと錯覚していた。

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