第54話 しばしの休息
「あれ? エルバートは?」
漆黒のエルバートがいないことに気が付いたのは、青の広場を脱出し、とてつもなく細く長い階段を上り切った後だった。
とりあえず、休息をとりたいと、階段のあった建物内で、そこにいる全員がだらけている。壁に背を預けて隣り合っているのは、ユリアとカイだ。二人の前にはライナルトが胡坐をかいて座り、アヒムは外と繋がる扉付近で大の字になっていびきをかいている。我が兄ながら豪快だとユリアは頭を抱えてしまう。
ラルフといえば、アロイス、アーベル、エッボが横たわる傍で、律儀に様子を見守っている。
メンバーはこれだけだ。
粉塵が消えだった青の広場に残っていたのは、この八人だった。
何もしていないゴッドフリートが逃げたのはわかる。けれど、儀式に参加したあと、操られ獣と化していたカトリナや、儀式前に何かと雑用をこなし、獣になって戦っていたデニスまでもがいないのは不可解だった。
アロイスたち三人は、粉塵の消え去った後、呻きながら倒れていた。
いくら刃物を使わなかったといっても、相当傷ついているはずで、動けないのは無理もなかった。そんな三人を担いでここまで上って来たのは、何を隠そうアヒムだ。
——俺なら、一人で三人は行けるっ!
という台詞は嘘ではなかったらしい。
根拠のない自信などと思ってしまったことを、ユリアは少し反省している。
それから、はたとユリアはカイの肩を見て、違和感を覚え、首を捻った後に、その違和感の正体を突き止めたのだ。
でも、カイは興味なさそうに、
「さあな。あいつなりに思うところがあって出掛けたんだろ。そのうち戻って来るよ」
と言うなり、眠そうに欠伸をした。
「そういえば、ライナルトと一緒に登場したよね?」
青の広間で、ユリアの逃亡の邪魔をしたカイの肩にはエルバートの姿が見えず、そのあとエルバートの声を聞いたのはライナルトの声とほぼ同時だった。一緒に来たということだろう。事情はさっぱりわからないが。
ライナルトはちらっとカイに一瞥を投げてから、口を開く。
「タァナ村の宿に、エルバートが来たんだよ。手紙を咥えててさ。カイ君からの手紙だった。ここに来いって。簡単な地図はあったけど、詳しいことは何も書かれてなかったよ」
「あ! そういえば、裏切り者だったよね⁉ あれがどういうことなのか、説明しなさいよ!」
ユリアが大声で叫ぶと、カイは耳に指を突っ込んで、あからさまに顔を顰める。
「戦士がしばしの休息をとろうって時に、耳元で騒ぐな」
「だって、カイが言ったんだよ⁉ 『俺の事情は後で話す』とかなんとか!」
「あーうるせー。後でって言ったろ。今じゃない」
「ああ! そうやって、はぐらかそうっていう魂胆なんでしょ? カイっていっつもそうだよねー。肝心な説明を面倒くさがるの。そういうところ、良くないよ? 大事なことこそ、ちゃんと説明して、理解してもらわないといけないんだから」
「だー‼ 静かにしろ、本気で疲れてんだよ」
カイは腕を組むと、コロンと床に転がって、ふて寝を開始する。
「あ! また逃げる!」
「まあまあ、ユリアちゃん。カイ君、本当にお疲れだと思うし、その辺にしておこうよ。ね?」
ライナルトは両手を押し出し、ユリアを宥めるように微笑むが、上手く笑えず、引き攣っている。何だか子ども扱いされているようで、ユリアは面白くない。そっぽを向こうとしたユリアは、はたと宿での一幕を思い出す。
「そういえば、ライナルト。あなた、イルメラさんは? 母様の病状は? 大丈夫だったの?」
ライナルトは虚を突かれたように目をぱちぱちさせてから、すぐに目尻を下げ、口元に困ったような微笑みを浮かべる。
「あれは嘘だったと思う。あの子、平気で嘘つくんだよね。それまで、そんな話聞いたことないし」
「でも、あのとき……」
ライナルトは明らかに動揺していた。それは母親の病状を心配したからではなかったのだろうか。
「とっさに真実みたいに言われちゃうとさ、彼女の虚言癖を知っている俺でも、ころっと騙されちゃうこともあるんだ。俺って、根が素直だから。騙されやすいんだよね」
根が素直などと自分で言ってしまうところがライナルトらしい。
だが、やはり嘘と言い切れないから、信じてしまったのではないだろうか。万が一にも真実と言うこともある。
「もし、本当だったら? 母様、病気だったら?」
言って、ユリアは居た堪れないような気持になって、俯いた。
それならばすぐ旅立つ必要がある。
白の一族のいざこざに、一方的に巻き込んでしまったユリアからすれば、いち早く彼を開放してあげなくてはいけない。この件がなければ、ライナルトは多少迷っても帰ったのではないか。もし戻って、イルメラの嘘だったとなっても、元気だったなら良しとなったのではないだろうか。
けれど、ユリアは、心からライナルトを解放してあげたいとは思えなくなっていた。
そんなことを考える自分が嫌だった。
「例えもし、彼女の言っていたことが真実だったとしても、俺は後悔してないよ」
驚いて顔を上げると、灰緑色の瞳に温かな光が浮かんでいた。
「俺は、君を助けられてよかったと思ってる。本当に、心から」
ユリアはその瞳を見つめたまま、高鳴る胸の鼓動を抑えるように、胸の前で握った手をぐっと体に押し付ける。
「あの……ライナルトの力は、もうなかったんじゃないの?」
神官を辞めたということは、力を失ったということだと思っていた。
だが、ライナルトは内に宿る女神セングレーネの力でユリアを救ってくれた。
力はまだ彼の中にあったということだ。
ライナルトはおもむろに天を仰ぎ、ふっと笑った。
「まだ少しだけ残ってたんだ。俺の存在意義だった力だからね。だから、ほんのわずかでも身に宿しておけば、自分を保てるような気がしてた」
「使い切ったの……?」
震える声で問うと、ライナルトは顔を傾け、おどけた様に目を動かす。
「たぶん、ね」
「私の為に……?」
ユリアの命を助けるために、ライナルトは自分の存在意義だと大切にしていた魔法の力をすべて使い切ってしまった。ユリアは鼻の奥がつんとして、じわりと視界がぼやけてしまう。泣いてはいけない。泣いたら、ライナルトが苦しむ。そう思うのに、涙が盛り上がり、頬をつーっと流れていく。静かに、静かに流れていく。
ライナルトは驚いたように目を見張り、けれどすぐ泣くのを堪えるように眉を寄せて、目を細めると、その手をユリアの頬に伸ばし、指で涙を拭った。
「いいんだ。俺はもっと大事なものを手に入れた。ちっぽけな存在意義なんかじゃなくて、どんな俺だっていいって思える、そんな場所。そんな、俺だけの大切な場所。だから、泣かないで」
頬に伸ばされたライナルトの手を、ユリアはそっと握ると、その手を開かせ、自分の頬に押し当てる。
ライナルトははっとしたように息を呑み、自分の手の中に納まるユリアの顔を見つめ、それから目尻を下げ、優しく微笑んだ。
「ありがとう」
囁かれた声は、ユリア心の中で、いつまでも木霊していた。
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