その薔薇を喰む-2《前菜|歓迎のことば》


 残暑の風が頬を撫でる。


「迷った甲斐があった……」


 鬱蒼とした森をしばらく歩いて抜けた先に広がるのは、深い青を湛えた湖畔、バラで彩られた庭を構える屋敷。

 バックパックを背負い直し、汗を拭って再び歩き出す。水筒の水は残り少なく、陽も既に落ち始めていた。

 自然の中で──特に、水や焚き火をするのにちょうど良い枝や枯葉のある森の中で野宿するのは、私たち旅人の醍醐味ではあるが、ああ言った風変わりな土地に邸宅を構える人間の話を聞くのもまた面白い。何よりこの国の家庭料理を楽しむ機会になるし──本音を言うならば、携帯食料以外の食事と白いシーツ、ふかふかのベッドが恋しくなっただけだが──とにかく、民家というのは良いこと尽くしなのだ。

 無防備に開いた門を抜け、庭を抜け、暗くなってきたために灯った洋燈に照らされてオレンジ色に光る扉を叩く。


II

「お客さまなんていつぶりかしら! どうぞくつろいでいらしてね」


 赤いリボンがついた白いワンピースを踊るように揺らしながらそう言った彼女の名は、メアリー・ハイツェン。

 この邸の若き主人で、シルクのように艶やかに波打つブロンドの髪とアクアマリンのような瞳の、三六〇度どこから見ても──実際にそうしたわけではないが──美しい女性である。

 彼女が重厚な扉から顔を覗かせた時、そのあまりの美しさに息を呑んだものだ。

 客間へ続く静かな廊下で、胃が空腹だと訴える。

 メアリーは私の空腹を見兼ねて言った。


「私、お腹が空いてしまって。すぐにでも食事にできるのだけれど、どうかしら?」


III

 ダイニングは大きく取られた窓からウッドデッキを伝って、直接湖畔のすぐそばへ出られる造りになっていた。先ほどまで晴れていた外は黒い雲がかかっていて、メアリーは「残念だわ、夜の湖は綺麗なのに」と呟きながら、窓を閉めた。


「どうぞ、お掛けになって」


 彼女は洗練されたマホガニー製のリボンバックチェア〔背もたれにリボンを結んだような彫刻が施されている椅子のこと〕を引いて、私に座るよう促した。

 キャロット・ラペ、グリンピースのポタージュ、洋梨のコンポート──テーブルの上には既に食事が並んでいた。中央のメインディッシュのプレートは、埃が被らないようにクローシュ〔銀の蓋のこと〕で覆われていた。


「ちょっとしたサプライズを兼ねているから、どうか、私が良いと言うまで開けないでくださる?」


 メアリーは悪戯を思いついた時のような幼げな笑みを浮かべてそう言ったので、私も了承した。

 並べられたカトラリーはどれもこれも銀で作られたもので、シンプルかつ上等な代物。彼女の出自の良さが窺える。


「ミス・ハイツェン、君はここで一人で暮らして居るのですか?」


 私は尋ねる。

 ワインがとぷとぷと音を立てながらグラスの中を満たす。

 彼女は首を振った。


「いいえ、一人ではないわ。私、料理はできないもの」


 それから、彼女自身のグラスにも同じようにワインを注ぐと、こう付け足した。


「どうか、そんなに畏まらないでメアリーと、そう呼んで欲しいわ。私、あなたのことをお友達のように思っているのよ」


 メアリーの瞳が真っ直ぐと私を捕らえる。私は、束の間息の仕方を忘れたような錯覚に陥って、その瞳から目が離せなくなる。

 その瞳が薄らかに細められて、ばら色の唇が乾杯の口上を紡ぐ。


「ようこそ、すてきな旅人さん。今日はきっと忘れられない日になるわ」


 静かな夕刻のダイニングに、食事の始まりを告げる音が響いた。


IV

 メアリーは、私の旅の話──たとえば、今まで訪れた地の面白い風習や、これまでに巻き込まれた事件など──を聞きたがった。私は喜んで話したし、彼女もそれにたいそう満足しているようで嬉しかった。

 外で降り出した雨を忘れさせるように、彼女の品のある笑い声が響く。

 開いたダイニングと廊下を繋ぐ扉から、黒い猫が姿を現して、僕の足の間を縫って彼女の膝の上へ飛び乗った。


「君の飼い猫?」

「まあ……そうね、そんなところかしら……? どうしたの、ルシファー? 嫉妬でもしたの?」


 彼女は猫に笑いかけてから膝から猫を下ろそうとしたが、降ろした途端にまた飛び乗ろうとするのでダメだった。


「食事中なのに、申し訳ないわ。どうか許して」


 彼女はそう言ったが、私は少しも気にしてはいなかった。動物と赤子ほど可愛らしくて癒しを与えるものはない。


「それにしても、君は随分積極的なんだね。僕の話をここまで聞いてくれるなんて」

「私は一人で外に出ることができないから、旅をできる貴方が羨ましいの。色んなものをその目で見て、直に感じるのでしょう? 素敵だわ!」


 私の推測にすぎないが、メアリーの振る舞いやこの家を見ると、やはり彼女はどこかの御令嬢で、自由の効かない肩身の狭い思いをしているらしかった。


「メアリー、君はずっとここで暮らしてきたのかい?」


 私は尋ねた。


「ええ、そうよ。身体が弱かったから、療養のために十一のときにここに来て、それからずっとこの家にいるの」

「じゃあ、海を見たことは?」


 彼女は首を振る。それから、本で読んだことがあるだけだと言った。


「それじゃあ、僕が海沿いを旅した時の話を聞かせてあげよう」

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