5 小さな奇跡
翌日の日曜日に『奇跡』は起こらない。
一応、外出はしてみたのだけれど、昨日と同じ場所を歩くのも何だかさもしい気がして、逆方向に向かったから、非奇跡になったのかもしれない。
しかしそれでも、それが本当に『奇跡』だとしたら起こって当然という気がしていたのだから、我ながらヘンな自信に満ち溢れていたみたいで、夕暮れが近づいてきて、身体も疲労してくると、けっこうな量の虚しさがどっと心に押し寄せてくる。死体のディーは同じことを考えていてくれるのだろうか? それなら生きているディーはどうなんだろう? ぼくの頭と心の中をそういった考えが堂々巡りして、切なくなって、「えーい、迷惑な話だ! そもそも、ぼくを見つけたのはディーの方じゃないか?」と強がってはみても、気分はちっとも晴れない。残念なことに……というか、もしかしたら、ありがたいことだったのかもしれないが、こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。
翌日は普通に学校で、久しぶりに雨が降っていて、イジメがあって、シカトがあって、エンコウがセッテイされていて、そうかと思えば、ホームルームで活発な意見交換……っていうか、議論があったり&なかったりして、雨空が晴れて残暑空が広がったり、石みたいな雲が流れたり、放課後の真摯なクラブ活動があったり、しかしやっぱり帰宅組もいたりと、ごく標準的な一日が、まったり/ゆったりと過ぎ去っていく。
どこか熱っぽい、頭と胸がわずかに裏返しになったような、胃が気持ち悪いような感じで気分は優れなかったのだけど、図書委員の市川初枝(いちかわ・はつえ)が、
「図書委員会があるよ!」
と呼びに来たので、しかたなく連れ立って図書館へ向かう。
ウチの学校の図書館は、建物自体は旧いがけっこう立派で、少なくとも一棟独立した校舎の天井が高くて天窓――っていうのか?――があって、一階部分をすべて占有していたから、図書室ではなく図書館と呼んで何の問題もない建造物といえる。ちなみに二階は理科実験室と視聴覚室で、その上にはやはり一部屋ぶち抜きの音楽室がある。
その図書館の中央に位置する、やはり時代が付いていて、必要以上に巨大で頑丈な樫材のテーブルを囲んで行われた会議は、本を汚す人がいるとか、図書カードに記入しない人が多いとか、図書カードには記入するが本を返さない人がいるとか、図書館内で隠れて食事をする人が最近増えてきたとかいう、おそらく昔もいまもさして変わるとは思えない普遍的な議題を粛々と検討するという極めて地味なものだ。
結果的に特に結論は出なかったが、将来的方向性だけを合意して、図書委員会は小一時間で終る。
いつもは元気な坂本睦月(さかもと・むつき)図書委員長が、小テストの点数が悪かったのが原因か、早く帰りたがっていて、それが、委員会が短時間で終わった要因のようだ。
他にすることもなかったので、
「また、部活サボり?」
とか市川初枝に揶揄されながら、家の方向が一緒だったので、連れだって帰る。
「全国大会も終わったしね!」
「……って、出てなかったくせに」
「だって、みんな、速いんだもん」
「練習しなかったからだろ!」
「練習したって変わりないよ」
「おっ、相変わらず、仲がいいね! お二人さん」
「ありがとう。そんなことしか考えられない、キミがかわいそうだ!」
「ぼくと市川さんって、傍目には仲良く見えるのかな?」
「はぁ?」
「じゃあ、またねぇ」
「うん、さよなら」
「いや別に、それが厭というわけじゃないんだけど……」
「にゃおん」
「わん!」
「煮え切らない男はモテないよ!」
「これまで、そういうことに関心なかったし……」
「これまでって、へぇ、最近関心があるようになったんだ」
ぼくは何て答えて良いのかわからない。
「頑張れよ! 恋する中学生」
「自分だって、中学生のくせに……」
しかし、
『えっ、相手、誰? どこのクラス? 誰、誰?』
とか反射的に切り返してこない辺り、市川初枝に対するぼくの信頼は厚い。
「じゃ、市川さんは関心ないの?」
「ありますよ、そりゃぁ! 女の子だし……」
「女も男も、その点では関係ないと思うけどね……」
「キミのセリフは、まぁ、いつものことだけれど、年寄りじみてるわねぇ……。あるいは、孔子さま? 聖人君子?」
切り通しの崖……っていうか、いわゆる急勾配の坂の細い木と土と砂利の階段を下りてしばらく進んだ場所で奇跡が起こる。
「なーんだ、彼女、いるじゃない!」
微妙に死角になっていた道の左手方向からやってきた私服姿のディーが言う。
その日の服装は、この前のエスニック風ではなくて、細い足がスラリと長く見えるスリムのジーンズに、ふわふわした感じのカーディガンみたいなものを、緩いTシャツの上に引っ掛けたという出で立ちだ。
すると、ドサッ! 足元から小さな衝撃と音が聞こえてくる。
ちょっとびっくりしてその方向に目を向けると市川初枝の鞄が落ちて倒れている。
「あーっ、吃驚した!」
と市川初枝が声を発する。
「ありゃら……。びっくりしたのは、こっちの方だよ!」
市川初枝が鞄を拾って埃を払う。ついで、おそらく事情がまったく掴めていないディーに向かい、
「お気の毒さまですが、あたしたちは、別にそういう関係ではありませんから……」
冷静な声と幾らかキツイ口調で彼女に告げる。
「なんか、マンガみたいね……」
あどけなく微笑みながらディーが答える。
「キミと遇うときは、マンガの登場人物にでもなるのかしら?」
すると急に興味をそそられたのか、市川初枝がひそひそ声でぼくに、
「ねぇねぇねぇ、彼女、だれ? だれ? だれ? ねぇ?」
と訊くものだから、仕方なくぼくは、
「えーと、『ディー』という個人識別名しか、ぼくは知りませんよ。そういった知り合い」
と正直に紹介する。それを聞いていたディーが、
「ディーでーす!」
と、お嬢様ポーズで斜めに身体を捻りながら市川初枝に挨拶するものだから、
「あ、ども、市川です」
その仕種に面食らった市川初枝が生真面目な声でそれに応じる。
一瞬の間があってから、彼女が小声で、
「キミは、こういう娘(こ)が趣味だったの? やっぱ、ちょっと、吃驚、意外!」
「いや、ぼくたちも、いまのところまだ、たぶん、そういった関係ではないよ。お互い、識別名しか知らないし……」
「……?」
「だから、さ、ディーとエフ」
「エッフぅ……」
「何でみんな、そこで促音(そくおん)になるの?」
それから、ディーに、
「この辺りに住んでんの?」
ディーが首を横に振る。
「いえ、全然。……あ、でも、ちょっと関連して思いだしてきた。……『三度(たび)お会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません』」
「残念ながら、それは知らない」
ぼくが口を挟むと、
「わっ、怖っ、『陽炎座』だ!」
市川初枝がそう指摘する。
「鈴木清順の映画の方の……」
「市川さんは知ってんの?」
するとディーが、
「でもまだ二回目だから、単なる『奇跡』ね。次の『偶然』は『必然』に変わる。……って、用事があるから、今日はこれまで……」
そう言うと、ぼくと市川初枝がさっき連れ立って降りてきた急坂を登り、その場から去る。
すると、ややあってから、
「だれ、あれ?」
市川初枝が呆れたようにぼくの顔を眺めまわして訊くものだから、
「だから、『ディー』。識別名D」
と、ぼくが答える。
「それで、キミがエフ?」
「そう」
間。
「わたし、泣きたくなってきた!」
そして本当に彼女はその場で大粒の涙を溢れさせはじめる。
「……だって、入っていけないんだもの、全然」
それからぼくは肩を竦めながら、そしてときおり好奇の視線を身体中に浴びながら、静かに泣き続ける/涙を溢れさせ続ける、市川初枝を彼女の家まで送り届ける。
その後、自宅に帰って食事を終え、ネットで『陽炎座』のことを調べてみたけれども、現物を観ていないので、解説や感想文を読んでもいまいちピンとこない。だから、それはいずれレンタル店で借りることにして、お風呂に入り、宿題と僅かな予習を済ませてベッドに横になっているうちに眠ってしまう。
その日は夢を見ていない。そして、なんだかそれがすっごく残念なことのように思えてくる。
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