3 出遭い
出遭いというのは打(ぶ)つかることかもしれないと思ったのは彼女との出逢いがそうだったからで、しかし長い塀の角で出逢い頭にドカン……という話ではもちろんない。
だいたい彼女=ディーは死体だ。自分で、そういったのだから間違いない。
状況を再現してみると、こんな具合になる。
土曜日の午後に道を歩いている。用事があったわけではなく、歩くために歩いている。歩くことが好きだったということもあるし、身体が鈍ってきて、ちょっと気持ちが悪かったのも理由のひとつだ。
陽射しはけっこう強かったけれど、さほど気合を入れることもなく、
「じゃ、行くか!」
といった感じで外に出かける。
あのとき自転車で出かけていたら、出遭いはなかった……のかなぁ?
まぁ、そのときにはそれなりの偶然が蓋然して必然になったのかもしれないが……。
交差点を挟んで道路の前方三、四十メートル先にチラと見かけた細長い影が、どうやら記憶に残る最初の接近遭遇だったようだ。もちろん、それ以前にも同じ影を見かけたことがあったかもしれないが、記憶にない。もっとも、そのときの自覚は意識に浮かんだ直後に消える。
数分後、
「ふうん、こういう曲を聞くんだ!」
と、ぼくの右横でメモリプレーヤーにプラグインされたインナーヘッドフォンRから出力される音楽を、そのインナーヘッドフォンRを左耳に挿して盗み聴く彼女が言う。
ええと、説明すると、ウォーキングするときには――いつもではないが――ぼくは音楽を聴く。そのときには音質には拘らないが、外れ難(にく)いインナータイプのヘッドフォンを使う。インナータイプは耳に挿した場合に外の音が聞こえ難いので、通常左右どちらかを外すことにしている。あのとき、ぼくが外していたのはRの方で――実際長さの関係で外し易いのがRの方だったが――ぼくの首からぶら下がったそれを彼女が耳に挿して感想を述べた、というわけだ。
「映画じゃないのに、そんなことあるんだ!」
ぎょっとして、ぼくが応える。
「そんなシーン、わたし、観たことがないわ」
「喩えだよ、喩え!」
「信号、赤だ!」
……ということで二人一緒に立ち止まり、ぼくはすかさず彼女を見る。
瓜実型の顔つきで、かなりあどけない表情をしていたが、きれい……っていうか、美人ではないが顔全体が整っていて、かわいらしいという感じの第一印象。前髪は胸を越える程度で後ろ髪はおそらく腰の近くまで伸びていそうだ。身長は、ぼくより高かったので一・七五メートルくらいか? 全体的にほっそりしていて、足の長さは普通。着ていた服は東南アジア風……っていうか、日本の晩夏にも合った涼しげなエスニックに膝下の古着のようなジーンズ。
「あのさぁ……」
と、ぼくが彼女に問いかける。
「月並みな質問で誠に申しわけないんですけど、キミ、誰?」
すると彼女はぼくの背中に手を伸ばし、
「うわさに聞いたことはあるけど、本当にいるんだ!」
と、あえて表現すれば、時価数千万円の伊万里焼(いまり・やき)の皿にでも触れるように、コワゴワとぼくの背中に指を伸ばして、ほんの少しだけ翼を触る。
「見えるの?」
「ううん、感じるだけ……」
彼女が答える。
「『ディー』って憶えて。それが、わたしの識別記号。『Dead Body』の『D』。何故なら、わたしは死体だから。『Corpse』の『C』でも、『Cadaver(解剖用の死体)』の『C』でも良かったんだけど、『シー』より、やっぱ、『ディー』か『デイ』よね。うん」
「からかってんの?」
ぼくが応じる。
「しっかり、生きてて、動いてんじゃん」
「この曲、怖いね!」
「綺麗だよ!」
「そうなの?」
「ジェルジュ・リゲティの『弦楽四重奏曲第一番・夜の変容』、アルディッティ弦楽四重奏団の演奏。たぶんバルトークの弦楽四重奏曲第三番へのオマージュだと思う」
「へえ、まったく聞いたことのない人たちだなぁ。……良く聴くの?」
「『ルクス・エテルナ』なら、たいていの人が聴いたことあると思うけど……。でも、あれを使ったあの映画も公開からもうものすごく時間が経ってるから、無理か?」
死体の件は、そのときは、それっきりになる。
信号が変わったので、腰の揺れを合わせて、仲良く歩きはじめる。
「歩くときには不向きじゃない? その音楽……」
交差点を渡り終えたところで、ディーがぼくに問いかけ、
「それは正しい指摘です。でもまぁ、もうすぐ終わるから……」
「承知いたしました」
言って前方を見つめる。
横顔はけっこう凛々しい。でも、幼い感じだから同じ年くらいか?
「目的地は?」
「設定されていない」
しかし辺りの景色を確認し、
「まだ少し距離があるけど、行ってみる?」
と言ってみる。
「どこ?」
「岩井俊二(いわい・しゅんじ)っていう映画監督、知ってる?」
「少女漫画のヒトね」
話が合う!
「もっとも、いまはプロデューサーの仕事の方が多いみたいだけど」
「そうねぇ。もう遺作、撮っちゃったからね」
「その岩井監督の短編映画のロケ地」
「あっ、行く、行く!」
曲が終わったので、今の会話の関連曲をかけることにする。監督自ら自身の『遺作』に指定したその映画作品には架空のアーティストが登場するが、メディアミックスで現実にも発売されたその唯一のアルバム曲。
「うわっ、鬱のとき聴くと、死にたくなるう!」
イントロのメロディーの最初が聞こえたところでディーが言う。
「中島初子(なかじま・はつこ)より、マシじゃない?」
「いい勝負かな」
「でも死体じゃなかったっけ?」
「あ、そうだ。死体は死ねない」
「蘇った?」
「さぁ、それはどうかな……」
交差点に出る。
「この道を右折、方向的には南下」
高速道路を潜(くぐ)って、だらだらと坂を下る。道なりに進むと玉川警察署がある坂道だ。時刻を確認すると十四時少し過ぎ。
「暑いね?」
「確かに……」
でも、彼女の横顔は涼しげだ。
「本当に? 実は暑くなさそうだけど」
「暑いわよ。でも、服が涼しいからね」
「なるほど!」
「キミは作務衣(さむえ)でも着たらどうかな? なんか似合いそう!」
確かにリーバイのジーンズは暑い。お気に入りの606の404仕様。上半身はTシャツ一枚だったけれど……。
「まぁ、作務衣だったら、足、短くても似合うしね」
ぼくが言うと、
「そんなことないんじゃない」
ぼくのことを上から下までざっと眺めて、
「普通に格好いいよ!」
「駆けるのは速いんだけどね」
「その割には細いわね」
指がすっと伸びて、しなやかな左手でぼくの腿を触って言う。
「細いのは、練習、サボってるから……」
「もったいないなぁ」
一呼吸あって、
「でも、ま、わかるわ」
上から口調だ。
「そこの信号で左折」
信号を渡って、さっきよりは急な坂道を昇る。登り坂の進行方向に向かって左側の歩道を……。
最初に予想していたよりも交通量が多い。この前来たときは、そうでもなかったはず。今は違う。この坂がどこかの大通りへの抜け道になっているのだろうか? 前のときの方が例外だったようだが、時間帯の関係か? 割合と有名らしい神学院を左手に通り過ぎた辺りで頃合を見計らう。
「振り返ってみて……」
「うーん、わかんないわ」
「道の真ん中から見ると、たぶんわかるよ」
その映画を見ていればね。
それで車の流れが切れるのを待ち、二人して道の真ん中まで歩いて行く。
ディーを引っ張るために手を繋いで……。
「桜か!」
「そう、いっぱい降ってた」
「大島由美子(おおしま・ゆみこ)の見開き画っぽかったね」
「あーっ、いわれてみれば、そうかも?」
「タクシー運転手とトラックと……。葬式だっけ?」
「結婚式だよ!」
「えへへー」
わざとか!
車が来たので横断する。
「ネット情報によると、桜の季節には大勢のファンが詣でるらしいよ」
「半年以上も先だね」
「いまは残暑だからね。……で、同じ映画からもう一ヶ所をまわろうか?」
坂をもうほんの少しだけ昇り、右折。少し行くと左手側に私設団地……っていうか、私企業の寮が現れる。
「主人公の引越し先ね」
「……と思うんだけど、撮影時からずいぶん経ってるじゃない。工事でもしたらしくて、同じアングルが見つからないんだ」
柵と入り口の看板に『関係者以外立入禁止』と書いてあるが、構わずどうどうとした態度で一緒に入る。
「ドキドキするわね」
何故かまだ手を繋いでいたので、ディーのドキドキが伝わる。
「近所の人の抜け道になってるみたいだから、不審者に見えなければ平気だと思うよ」
そう言いつつも、ちょっとキョロキョロしてしまう。
「キョドって、ない?」
ディーが笑う。
ぼくが目指している方向を指差すと、
「あそこが、主人公が入居した団地だと思うわ」
と言い、別方向を見つめ、
「ブランコがあるから、たぶん、合ってるわよ」
数台並んだブランコを発見してディーが指摘。
団地を映画の撮影アングルに合わせて、桜の樹および枝越しに眺めてから、そのブランコの列に向かう。住人らしいお父さんと幼い娘がひとり遊んでいたが、ディーは気にせず、隣のブランコを目指す。すっと手が離れる。その手で、ヘッドフォンRが返される。ディーがブランコに座って、ゆらす。お父さんからのお咎めはない。娘の方は我関せず。微風が気持ち良い。
「キミとデートする彼女は体力がいるな!」
ブランコにゆられながらディーが言う。
「普通の女の子と散歩でいくらかの距離を歩いたのはキミが初めてだよ。中学に入ってからは……」
「昔はモテたわけだ」
「そういう意味じゃないよ」
「同じ人がいないんだよね。……キミには飛べない翼があって、わたしは死体」
「……?」
「少し、疲れたわ。……おごってあげるから、どっかのお店に入って、お茶しようよ」
「あっ、悪い! この辺、詳しくないんだ!」
「そうなの?」
「自宅から十キロ弱、離れてるし……」
「ほう! じゃ、さっきの高速まで戻れば?」
「妥当な提案だと思います」
そこで互いに恥ずかしくなったのか、手繋ぎなしでインナーヘッドフォン繋ぎだけを再開し、十棟くらいの私企業寮を反対側の柵から抜け、おおよそ北に向かって歩きはじめる。
「でもさぁ」
ディーが言う。
「人口数千人くらいの田舎の暮らしって想像できないわよね」
映画設定の話だ。
「それに、そこから出てきて、アパートに入居して、大学に通うって行為も……」
「ぼくも山の手のヒトなので同感です」
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