多様性
毒々しい文章です。お身体にさわる危険があります。
単刀直入にいうと、「おたくの子は発達障害なんじゃないですか?」と園から言われている。もちろん、もっとマイルドな言い方でだ。先生いわく、教室から飛び出してしまう、イスに座ってられない、それゆえに朝の会ができない、ご飯中に立ち上がる、とのことだった。伝えようとする声は途切れとぎれであり、表情からも参っている様子が伝わってきて、わたしも申し訳なかったな、と思った。それに親としても、かなり以前から「この子はグレーだなあ」と思っていたので、今回正直に伝えてくださってありがたいと思ったのだった。
さてわたし自身もしかるべき診断をうけたら何かしらの病名はつくだろうと思っており、その範囲はわたしだけではなく義理も含めた親族ほとんどに該当する。
息子にそういった特性が現れているなあと薄々気づきながらも、あまり深刻に考えていなかったのは、まず年々落ち着きの兆しを見せているということ、そしてそもそもわたしをふくめた周囲というのが、そういった性質をもつ人々ばかりであるということ。幸か不幸か、どこを見ても同類しかいないのだ。
そのようなわけでわたし自身としては、先生には申し訳ないと思いつつも、まあ。いいんじゃない? 別に……以外の感想がまるで出てこなかった。朝の会だって? なるほど先生にとってはとても大切で履行しなければならない業務の一つに違いないだろうけれども、朝の会に参加することが今後の人生において有意義な時間の使い方になるとはとうてい思えなかった。ただ、クラスの混乱をまねくというのは十分にわかる。悩ましいなと思った。
そしてつくづく、この世とは生きにくいものだなあと思った。発達障害といえば、さいきん芸人のやすこに向かって暴言を吐いてしまったフワちゃんが発達障害なのではないかと疑われているらしい。もちろん、フワちゃんの言動は許されることではないし、というか歳も歳なのだし、わたし自身としては生まれ育った環境がどちらかというとやすこに近いのでイヤな気持ちになりもしたが、フワちゃんがもし「発達障害でした」ということになれば世の人々はたいてい納得するのではないかとおもう。
そしてそれは、近年はびこっている「多様性」なるものが立派な紛い物であると認めてしまうのも同じなのではないか。多様性とはなにか。それはある集団において多数派の人々が少数派の人々を仲間として受け入れるために必要な、きわめて一方的なラベリングのことを指す。かなり底意地の悪い言い方になるけれども、発達障害者というラベルは、本人よりも周囲の大人にこそ必要なのだ。「ああ、あの人は○○だから仕方ないよね」というふうに。(ただし、本人が困っている場合はこの限りではない)
名前をつけることによって人々は対象を(イヤイヤながらも)「咀嚼」し「理解」する。つまり名前のついていないものは「多様性」のおこぼれに与ることもできないのだ。だけど、それってどうなのだろう? まず我々はおのおのの尻の穴の小ささを自覚すべきではないか。多数派であることに甘んじて自分自身を疑おうとしないのは少数派であることよりも余程まずいことなのではないだろうか。
理解すべきは他者ではなくまず自分自身で、多様性を謳うのならまずそこからスタートすべきだとわたしは思えてならない。
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