玉響 (たまゆら) の夢
七迦寧巴
第1話 黒い鯉(葬式をしない集落の話)
義父が亡くなった。
嫁いできて二年。この集落では葬式はあげないことを知ったばかりだった。
死者が出ると、その家の門には黒い鯉のぼりがあげられる。
風にはためく黒い鯉は集落の人々に喪を知らせながら天に昇っていくかのように見えた。
やがて家の中から喪主の男性が出てきた。それに続き、親族と思われる数人の男女が黒い絹にくるまれた亡骸を運びながらゆっくりと歩き出す。
お悔やみの言葉を掛けることもない。ただ静かに手を合わせ、故人とその一行を見送るだけ。
夫から声を出してはいけないと固く言われていたので、黙ってその姿を見送った。
一行は集落の一番奥にある森の中へ入って行った。
そこには大きな湖があり、そこに故人が埋葬されると聞いたが、まだ訪れたことはなかったので、どういう場所なのかは知らない。
義父が亡くなり、義母は泣きはらした顔を隠すようにしながら、親族のために出す料理を作っている。私もそれを手伝っていた。
夫の弟たちがやってきたのは昼頃だった。家の門には黒い鯉のぼりが掲げられた。
和室に敷かれた布団に義父は北枕で横たわっている。
その前に長テーブルが置かれ、料理が並んだ。親族だけの会食。義父と一緒の空間で食べる最後の食事だ。
食事をしながら、義父の生前の話や離れて暮らす弟たちの近況など、他愛もない話をする。
僧侶が来てお経をあげることもないその光景は、私には奇妙に映った。
食事が済み、日が傾きかける頃
「そろそろだな」と夫が立ち上がり、和室の箪笥から大きな絹の布を取りだした。黒い絹で中央には白い家紋の刺繍が入っている。
その絹に義父は丁寧にくるまれた。ちょうど胸元あたりに家紋が配されるようになっていた。
ヒノキのような香りがする担架に似たものに義父は乗せられ、夫の弟たちが持ち上げる。
家を出ると、近所の人たちが並び、義父と沈黙の別れをしていた。
夫が先頭、次に義父を運ぶ弟たち、そのあとに義母、私、弟たちの妻や子供が続いた。
ゆっくりと森を目指す。鳥の鳴き声も虫の声も聞こえない。ただ、自分たちが地面を踏みしめる音だけが響いている。
風もないのだろう。木々の葉のざわめきすら聞こえない。
でも何かが居るように感じる。ひっそりと私たちを見ているような、そんな視線があるように感じた。
十五分ほど経ったろうか。森が開け、広い湖が目の前に現れた。
湖上には霧がかかっているようだ。そして湖面は恐ろしいほど青く澄んでいた。目を凝らして見ると、湖のちょうど中央あたりに小さな島があり、そこに祠が一つ建っていた。
夫は祠の観音扉を正面に見る位置に立つ。弟たちは義父を地面にゆっくりと下ろした。
「どうぞお迎えください」
夫がそう言うと、辺りには一層の静寂が訪れた。
なにが起きるのだろう……そう思って黙っていると、静かに祠の観音扉が開いた。
半透明の何かが祠の前に現れる。透けているが黒い着物のようなものを着ているように見えた。
人の形のようでもあり──いや、黒い鯉が立っているようにも見える。その不思議なものは、ゆっくりと湖面を滑るように岸に近づいてきた。
そして義父の亡骸を見下ろし、そっと手を差し伸べた。
すると義父の亡骸から、透き通ったものが出てきた。義父だ──義父の魂の具象化とでも言うべきか。
体から離れた義父は、祠から出てきたものの手を取り、静かに湖に入っていく。
音も無く静かに……そして祠に辿り着くと、中に消えていった。
祠の扉が音も無く閉まると同時に、横たわっていた義父の亡骸は静かに湖面に沈み消えていった。
あとには絹の布だけが、たゆたうように湖面に浮いているだけ──
夫は絹の手袋をはめると、その手で布を持ち上げた。不思議と絹の布は濡れていない。
こんなに澄んだ湖なのに、義父の体は消えて何処にもなかった。
不思議に思って湖面に手を伸ばした私を夫は制した。
「素手で湖面に触れてはいけない。連れて行かれるよ」
「──誰に」
「僕たちの祖先たちに」
あの祠には集落の祖先たちが居るという。
そして死者が出れば、その者の祖先が祠から出て死者を連れて行く。死者は祖先と一体になるのだそうだ。それと同時に肉体は消滅する。
いつか私が死んだら、やっぱり此処に連れてこられるのだろうか。
私は夫の祖先たちに受け入れられるのだろうか。もしも受け入れられなければ、肉体は湖に沈んだままになるのだろうか。魂はどうなるのだろう。
それはその日が来るまで分からない。
<了>
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