Lesson3. 高橋くんはかっこいい。
校舎の裏手を上履きのまま歩いて昇降口に向かうと、高橋くんを見つけた。U字溝のわきにあるコンクリートのうえに大の字で寝そべっていた。左頬にあたらしい青タンが目立ち、横むきに流れでた鼻血が黒っぽく乾いて油絵のよう。
「また喧嘩したん?」
そう声をかけて、高橋くんのそばに腰をおろした。高橋くんは二重のくっきりしている瞼をつむったまま、かすれた声で言った。
「ヤニくれ」
負けていても、トレードマークのつんつんの髪の毛が崩れていても、やっぱり高橋くんはかっこよかった。
「持ってるわけねえじゃん」
そう苦笑すると、高橋くんは、「使えねー」と舌打ちをして、上半身を起こし、だらしなく開いた学ランの内ポケットをまさぐり、「ねえじゃん、落としたかな」とぼやいた。高橋くんが吸うのはあおのショートホープだ。
「買ってこようか?」
形だけ言ってみた。学生服のままコンビニで買えるはずもないけど、耄碌したおばあちゃんが毛糸をあみながら店番してるくたびれた煙草屋に当てはあった。
「おめーはやめとけよ、そういうの」
そこのおばあちゃんとは高橋くんも面識があり、むしろ僕よりよっぽど仲が良いというか、ときどき愉しそうに立ち話してることがあったので、どの店かすぐに分かっただろう。自分はしょっちゅうそこで煙草を買ってるくせに、ガキ扱いみたいなしたり顔で、僕の背中をおおきな手でかるく撫でた。ゆるんだ口のまわりには無精髭が生えている。「俺はお前らとちがってオナニーしてなくて毛が薄いから、二日にいっぺんしか剃らなくていいんだ」とかほざいてたけど、だいたいいつもわずかな髭が尖っていて、わらうとすごくやさしい。
「負けるなんて珍しいじゃん」
ぼろぼろの高橋くんがおもしろくて、そう水を向けた。高橋くんは悔しそうでもなく、「バーカ。二十倍殴り返したよ。色男の消費税みたいなもんで、5パーぐらいは殴らせてやったんだ」と、血痰まじりの唾をはきながら教えてくれた。
つまり、先輩の彼女に手を出したらしい。町でたまたま出会って、なんとなく公園でおしゃべりしてるうち、そういうムードになり、胸を服のうえから揉んだだけ。いったいどこが問題なのか分からない。右だけだし。と、高橋くんは不服そうだった。いやいや、僕にもまったく分からない。公園で話してるだけで胸を揉む展開になるとか、いったいどんな話術を使えばそっちに持っていけるんだ。たとえば自分に当てはめてみよう。甘井ちゃんと公園で話しているうち、なんとなく彼女が身体をしなだれかけてきて、口調も誘っているふうで、いつのまにか僕の手が甘井ちゃんの胸を……。とそこまでを考えて、あまりにあり得ないと首を横に振る。勃起もしなかった。それに、甘井ちゃんは服のうえから見るかぎり、胸は大きそうにないし。胸だけでいえば、野間のほうが大きいと思う。中学生のときにはすでにできたての肉まんみたいな膨らみがあった。
「……で、新立はなんでこんなとこ歩いてんの? 上履きだし」
高橋くんが尋ねてきたので、僕は僕のほうのストーリーを教えた。そんなに長い話ではなかったけど、高橋くんはしきりに声をあげて笑い、「おー、青春じゃん」と、どこか羨ましそうに言った。しばらく沈黙がつづいたので、せーので立ち上がり、おのずと帰る流れになった。
「新立さあ」
自転車を並べて走らせながら、片手放しの高橋くんが言った。いかした高橋くんらしくもない、持って回ったような言い方だった。
「甘井ちゃん狙うの、やめといたほうがいいよ。新立の手に負えるような女じゃねえよ。野間にしとけ野間に。身のほどを知りなさい」
言葉を選んだわりに言うのがそれかよ。野間のくだりは悪いジョークにしても、僕に気をつかってるかのような上から目線がムカつく。あと、進路指導のライス(名字が林だからライス)の物真似、にてない。
「お前に甘井ちゃんの何が分かんのよ? つーか、高橋くん、あの子と話してるとき、あんまないじゃん」
思ったままを伝えた。高橋くんと話しているときは飾らずにいられる。中学校で、うちのクラスに高橋くんが転校してきたときからそうだった。当時、高橋くんと野間がおなじ美化委員で、週イチの掃除点検をさぼりたがる高橋くんを説得するのが僕の役目だったっけ。気怠そうながらもどうして僕なんかの言うことには従ってくれたのか、高橋くんとの関係を慮るとき、いかんせん脈絡のない人付き合いの妙を感じる。
「でも俺、甘井ちゃん落とそうと思えば、余裕だと思うよ」
高橋くんの言い口は彼の言葉のとおりたっぷりの余裕があって、相当の自信があって言ってるんだなと分かった。実際、そうなんだろう。ただ、悔しくはなかった。高橋くんは甘井ちゃんを落とさないと思う。好みが僕と違うし。僕が好きな子に高橋くんは手を出したりしない。先輩の彼女の胸を揉むのと違って。そうじゃない、ということが半分分かっていながら、もう半分で信じてる。そうできる相手は、ちょっと親友かもしれない。
「じゃあ、落とせばいいじゃん」
ようやく声を張ると、高橋くんは、くっく、と笑った。おいおい、馬鹿にすんなよ。僕の余裕のなさが見透かされてる。
「コレクションしてんのよ。俺。人生で、なるべくたくさんのタイプの女を抱きたいの。メンヘラとかヤリマンはもう十分体験したから」
体験だって。またムカついたけれど、たぶん本当だろうな、と思う。高橋くんは女子と遊ぶたびプリクラをいちいち自慢してきたのだが、ぜんぶ違うかんじの子だった。いっぽう、高橋くんがながく付き合ってる本命の彼女(彼はそれを「嫁」と呼んだ)は、これといって特長のない、十人前の女の子で、いかにも彼のコレクションの平均という具合だった。
というより、高橋くんはなにか勘違いしてるんじゃないか。メンヘラというのは失礼だけどまあ分かる。甘井ちゃんはメンタルを病んでて、学校に来てもだいたいいつも保健室に籠ってるし、数種類のレゴみたいにカラフルな薬が欠かせないようだった。そもそも僕らがバスケするようになったのは、言い出しっぺは野間だが、甘井ちゃんを元気づけたいから、という流れじゃなかったっけ。だから甘井ちゃんのメンタルの具合はみんな知ってるし、高橋くんの口ぶりこそああだけど、みんなちゃんと気を配ってる。でも、ヤリマンというのは、ぜんぜん違うだろう。
「甘井ちゃんが、エンコーしてるって、しらんの?」
別れぎわ、やっと高橋くんが教えてくれた。びっくりはしなかった。いつもそういうふうにして、大人の文化を僕に紹介してくれたのが、高橋くんという子だった。
「相手は、ティーチャーらしいよ」
そう言い残し、手もふらずに去っていった。高橋くんは、ぜんぶ知ったうえで、彼をティーチャーと名づけたんだろうか。だとしたら、やっぱセンスがいいな。ティーチャーの、「L」を発音するときの、いやみったらしい唾の音を思い出す。あんなふうに、甘井ちゃんのヴァギナをべろべろ舐めたんだろうか。でっかい石ころを思い切り蹴飛ばした。石ころは一瞬で濃緑色をした溝のなかに消えた。にごった泡が藻のあいだから息をして、骨みたいにやせたハヤが逃げていく。
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