第5話胃薬

 文久ぶんきゅう三年の一月。

 私は江戸の実家に戻っていた。

 久しぶりのからりとした冬の空気はとても居心地良かった。


 江戸に帰ってきたのは父が病に倒れてしまったことが原因だ。ただの風邪が重いものになってしまって、それで私を呼び寄せたのだった。上役にその旨を言うと「ならば正月休みも兼ねて江戸に戻るがいい」と許可をくれた。


 ありがたい話だったが京から江戸へ帰るのは一苦労だった。

 酷く情勢が荒れていて関所の人間も緊迫した様子で、物改めも慎重になって時間を食ってしまった。


 そのせいで正月には間に合わず、三が日を過ぎた頃に帰ってきた。

 出迎えた妹は「兄上、少々遅いですよ」と目をくりくりさせて言う。

 私は父の容態はどうだと訊ねた。


「ええ。今ではぴんぴんとしています。元々、医者の不養生ですので」


 父は深酒が過ぎるところがある。年がら年中飲んでいるわけではないが、飲むときはとことん飲む癖があった。

 私は早速父と母に会った。父は布団から出ていて食事をしていた。流石に酒は飲んでいなかった。


「梅太郎。よく戻ってきたな。二年ぶりか」


 父上、もう少し酒を控えてください。お身体に触りますよ。


「分かっているけどやめられんわい。こればかりはな」


 では、深酒はやめてください。もう若くはないでしょう。


「すっかり医者みたいなことを言うようになったな」


 そりゃあ、医者ですから。


「ふん。つまらなくなったな。そうだ、京で面白いことはなかったのか」


 別段、面白いことは無かったのだが、ふと龍馬のことを思い出した。

 母と妹がいる前で、私は龍馬のことを話した。

 女性陣はぴんと来なかったようだが、父は「たいした男だな」と唸った。


「大志を抱く男っていうのは大きな男じゃないといけねえ」


 珍しく江戸っ子訛りが出るくらいだから相当気に入ったのだろう。

 しかも「その龍馬って男と俺たちは縁があるらしい」と言う。


「勝先生のところにいるかもしれないのなら、お前も行ってくるがいい」


 今や幕府の要人となっている勝麟太郎かつりんたろうと、一介の獄医が会えるとは思えなかった。

 しかし父は「勝先生の父と私の父は交流があってな」と自慢げに言う。


「薬を依頼されていたのだ。もう煎じてあるから持って行ってくれ」


 本当に奇縁があるものだ。

 私は半ば呆然としつつ、頷いた。



◆◇◆◇



 一緒に行きたがったおてんばな妹を振り払って、勝麟太郎のいる屋敷へと向かった。

 道順は父から聞かされた。案外近場の大きな屋敷だった。

 門の前に来て、御免ください、と言うと綺麗な妙齢の女性が出てきた。

 おそらく奥方だろうと私は推測した。


「失礼ですが、どなたでしょうか?」


 軽く警戒されているなと私は感じた。

 このご時勢、物騒なことが多いので当然だが。

 私は、才谷梅太郎と申します、と丁寧に言う。


「才谷? ああ、義理の父から聞いたことがあります」


 小吉殿ですね。私は医者です。胃薬を持参してきました。


「あの胃薬ですか! とても良く効きますよ!」


 胃薬の話になると途端に機嫌が良くなった奥方。

 すると「申し遅れました」と頭を下げた。


「わたくし、民子たみこと申します。勝先生の元へご案内いたします」


 私は気苦労が絶えないのだろうなと、お疲れ様です、と思わず言ってしまった。

 民子さんはにこりと笑って、楚々とした姿勢で私を屋敷に招いた。


 一番奥にある大きな部屋の前で、民子さんが「お前さま、才谷様がお見えになっております」と言う。

 すると襖から「才谷先生? ああ、入ってもらえ」と返事が返ってきた。

 私が入ると、勝麟太郎は折り目正しく初見台で書物を読んでいた。


 勝麟太郎は凛々しい顔をしていて、学者にも見えるが、芯がしっかりとしている武士のようにも見えた。それでいて役者にも見える。若くしてひとを納得させられるような、見た目に説得力というものを備えていた。それが私が思った印象である。

 その近くでだらしない恰好で書物を読んでいる龍馬がいた。


「ありゃ? おんしは京にいるはずじゃぜ?」


 龍馬は驚きつつ私を見て笑った。

 私は、本当にここにいるとは思わなかった、と努めて冷静に言う。


「うん? なんだお前さんたち。知り合いなのかい?」


 幕府の要人とは思えない、気さくな話し方をする勝麟太郎。

 私は、大坂で知り合った友人です、と答えた。


「そうじゃ。この腕の傷を縫うてもらったぜよ」

「へえ。縫うねえ。こりゃあ面白い縁もあるもんだ」


 面白げに笑う勝麟太郎。それから民子さんに「酒でも持ってきてくれ」と言う。

 私は下戸だったが、拒むわけにはいかなかった。

 民子さんが台所へ向かうと「実はあんたのおじいさんには世話になったんだ」と勝麟太郎は言う。


「俺が九つの頃、犬に金玉噛まれてな。その治療で熱さましを調合してくれたのが、あんたのおじいさんだ」


 何とも不思議な縁である。

 そう言えば祖父は薬の調合に関しては江戸一番と評されていた。


「まあせっかく来たんだ。いろいろ話そうぜ」


 話す、ですか。私は国事については門外漢でして。


「ふうん。お前さんは医者かい?」


 一応、京で獄医をしております。


「なら気を付けなよ。今は不逞浪士だけじゃなくて、志士たちも捕まっているんだから」


 どういうことでしょうか?

 その私の疑問に答えたのは龍馬だった。


「思想に取り込まれてしもうたら、抜け出されなくなるちゅうことじゃ」


 いまいちぴんと来ないが、勝麟太郎は「ま、あまり気になさんな」と前言を翻した。


「今はお前さんの務めを必死に頑張んなさい。それが一番いい」

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