第16話 夏休み前
「あぁ、もうすぐ夏休みか」
担任として3年生を担当している俺は、机の上のカレンダーを眺めながらため息をついた。夏が近づくにつれて、生徒たちのテンションは上がっていく。でも俺は、どうしてもその雰囲気に乗れない。まだまだやるべきことはあるはずなのに、夏休みに向けてのワクワク感にすら疲れを感じている。そんな自分が嫌になる。でも、こんなことを言っても仕方がない。生徒たちが夏休みを楽しみにしているのは当然のことだ。
「橋本先生、大丈夫ですか?」
背後から気配を感じ、振り返ると数学担当の佐藤が微笑んでいた。彼女は常に明るく、周りを和ませる存在だ。
「ああ、大丈夫だ。ただ、夏休みが近づいていくのを感じて、なんだか悲しい気分になってさ」
「安心してください。生徒たちと会えなくても私がいますので」
「いや結構だ」
「そんなこと言わずに。それで、先生には夏休みの計画はあるんですか?」
「特にないな。そういうお前はどうなんだ?」
「私は友達と沖縄に旅行に行く予定です」
「お前は予定あんのな。いいな。俺も行きたい。でも、そんな時間もないし、お金もないしな」
「先輩も沖縄来ます?」
「何でだよ、行かねえよ」
「あ、生徒たち戻ってきたみたいですよ。私も戻りますね」
話しているうちに、生徒たちが体育の授業から教室に戻ってきた。気持ちを切り替えて、授業を開始する。夏休み前の授業は特別な感じがある。生徒たちも集中して聞いている。でも、授業が終わると、彼らはもう夏休みのことしか考えられないようだ。
「橋本先生、夏休みはどう過ごしたらいいですか?」
と、生徒たちからの相談が来た。
「そんなの好きに過ごしたらいい」
「でも俺ら受験生っすよ」
「それなら、焦らずに冷静になれ。あと半年、まだ十分に時間がある。そんなに焦ることはない」
と、俺は生徒たちに笑いかけた。
「でも、そろそろ勉強に集中しないといけないし、どうやったら集中できますか?」
と、また生徒たちからの問いかけが飛んできた。
「まずは、自分がどうやって集中できるかを考えてみろ。それぞれの人に合った方法がきっとあるはずだ。例えば、音楽を聴いたり、定期的に休憩をとったり、集中力の高い時間帯を意識したりするのも一つの手だ」
と、俺はアドバイスをした。生徒たちが安心したようにうなずくと、俺はさらに言葉を続けた。
「そして、大切なのは自分の目標をしっかりと持つことだ。受験に合格するためには何をすべきか、その目標を意識して行動してみるといい。その上で、自分が集中できる環境を整えて、最後まで諦めずに頑張る。俺はそうやってきた」
生徒たちは俺の言葉に励まされたように、やる気を取り戻していた。俺は彼らの背中を押すように、
「あと2週間、頑張れ!」
と励ました。
「ちなみにお前らは、何か夏休みの計画はあるか?」
教室を見回すと、みんながわくわくした表情を浮かべていた。
「私は海に行く予定です!」
「俺はバイトして、お金を貯める予定です!」
「私は友達と映画を見に行く予定です!」
生徒たちの楽しそうな声を聞きながら、俺は予定がないから何も言えなかった。受験生だからといって、ずっと勉強することが必ずしもいい方向に繋がるとは限らないからな。ある程度学力に自信がある生徒はそんなに追い込むことはないだろう。でも、一人だけ夏休みに何もする予定のない(俺と同じ)生徒がいた。
「橋本先生、私は……」
俺がお世話になっている本屋のバイトをしている、渡辺優菜だった。小柄であまり目立たない存在の彼女は、遠慮がちに口を開いた。
「ん、どうした?俺と同じで夏休みの予定はないのか?」
「え、先生も予定ないんですか。私は特に夏休みの予定は何も。親が厳しくて勉強するだけです……。」
彼女の言葉を聞いて、何か気がかりな気持ちが胸に沈んでいく。彼女の不安そうな表情を見て、俺は慰めるように彼女の手を握りしめた。
「受験のことなら心配すんな、心強い先生方がいるから」
と優しく声をかける。遠慮がちに”一応俺もいるし”と付け加えた。
「特に小林先生にいろいろ聞いておくといい。小林先生は受験のことはもちろんのこと、英語が専門だがそれ以外の教科もばっちり教えられるすごい先生だ。俺とは大違いだな」
彼女は俯いて小さく頷くと、再び俺に微笑んだ。それでも、彼女の表情からはまだ不安が消えていないのが分かる。そんな彼女を見ていると、俺は思い出す。俺自身が、高校生だった頃の夏休みを。
あの頃、俺は生徒たちと同じように、夏休みの楽しみを胸に踊らせていた。でも、同時に、受験も意識していた。
俺は成績が良くなかったため、夏休みも勉強漬けだった。そんな中、唯一の息抜きは、後輩の佐藤との時間だった。
佐藤はいつも、俺の悩みを聞いてくれた。そして、優しく励ましてくれた。彼女がいなかったら、きっと俺は高校を卒業できなかったかもしれない。
そんな思い出を胸に抱えて、俺は彼女に寄り添った。彼女が抱える不安を一緒に解決していこうと決意する。
「一緒に、何か楽しいことでもするか?」
と、俺は生徒たちに提案する。
すると一瞬だけ教室内が静まった。俺が普段言わないようなことを言ったからだろか。生徒たちはぽかんとしていた。俺の発した言葉の意味を理解したとたんに生徒たちは喜びのあまり声を大きくしていた。帰る前のホームルーム中だったので慌てて生徒たちを静かにさせる。他のクラスに迷惑をかけさせてはいけないからな。まあ時すでに遅しというやつだが。
彼女は驚いたように口を開いたが、すぐに嬉しそうに頷いた。
「夏休み前の、思い出作りってやつだ。思いっきり遊でるところを卒業アルバムの写真にしてもらえ」
「「「おおおおおおおおおお」」」
「だからうるさいってお前ら」
「そうだね。何か、いいアイデアないかな」
と、彼女は笑った。
「夏休み前の思い出作りに何をするかは明日決める。今日決めたい気持ちはわかるが、帰る時間だからな」
俺が突発的に思いついたことがここまで反響があるとは思わなかった。生徒たちはざわざわし始める。
「ねぇ、何したい?」 「皆が楽しめるものってのは必須条件だよね」
生徒たちは興奮したように各々口にしていた。だから今は決めないって言ってるだろ。まあそれくらい嬉しいことなのだろう。生徒たちにいい思い出を作って卒業してほしいのは俺だけじゃない。他の先生方もそう思っていることに違いない。
俺たちは一緒に、夏休み前の思い出作りを始めた。それが、俺と生徒たちの関係をより深めるきっかけにもなった。
夏休みが近づくにつれて、俺たちはますます楽しみを膨らませていった。そして、あの夏は、俺たちにとって忘れられない思い出となった。
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