波間に揺れる恋心 ⑤
「嫁になれ!」
「お断りっ!」
その台詞と共に派手な水しぶきが上がってポセイドンの全身をぬらした。
激しく打ちかかる海水の先制攻撃から顔をかばって振り上げた腕で、海水を払ってようやく視線を向けたときには、すでにアムピトリーテはイルカの背にまたがり、群れと共に波のうねる海上を逃げ去っていくところだった。
逃がすか――ポセイドンもすぐさま手綱を引くと、白馬に引かせた戦車を急発進させて追う。
海面を蹴立てて駆ける戦車はたちまちイルカの群れに追いついた。
アムピトリーテのほっそりとした後ろ姿に向かってポセイドンは叫ぶ。
「アムピトリーテ!」
「気安く呼ぶんじゃないわよ、バーカ!」
「なっ……馬鹿って言うな! 俺はただ話を――」
「こっちは話すことなんてないんだから!」
「お前になくても俺にはあるっつーの!
いいからちょっと止まれって――」
「あんたが追いかけるのやめたら止まってあげてもいいけど」
「本当か!?」
「うそに決まってんでしょ!」
「この……っ! 馬鹿にすんのもいい加減しろよ!」
「あんたこそいい加減にしなさいっての!
この馬鹿! クズ! 変態! 単細胞! 脳みそ筋肉!
海の害毒! 馬鹿! バーカ!」
あらん限りの罵倒を投げつけるアムピトリーテを背に乗せて、イルカの群れは速度を上げた。
白く水しぶきを上げて逃げ去っていくイルカの群れを、静止した戦車の上からポセイドンは呆然と見送る。
手綱を操る気力をなくして、ポセイドンは馭者台の上にしゃがみ込んでうめいた。
「……害毒って……そこまで言うか……」
また心に傷を負ってしまった。
したたかに浴びせられた海水が、今更目にしみてきて涙が出る。
電光石火の一目惚れから早十日目である。
ポセイドンは宣言通り、不屈の闘争心を燃え立たせてアムピトリーテを全力で口説き落としにかかっていた。
眷属たちを引き連れて海を暴れ回ることもやめ、ポセイドンは一筋にアムピトリーテを追いかけ続けた。
エーゲ海中その姿を探して回り、見つければすかさず声をかけ、逃げ去る後を追いかけて、求婚の言葉を投げ続ける。
アムピトリーテからつれなく拒否されようと、海水と罵倒を浴びせられようともめげることなく、ひたすら押しの一手で連日この追いかけっこをくり広げて、今日で十日目。
この十日間、同じ展開をくり返し続けている二人の間に、何の進歩も発展も訪れていなかった。
ただ、アムピトリーテの容赦ない罵倒でポセイドンの心が負う傷が増え、比例するようにその闘争心もふくれあがっていく以外は。
「いやー、今日も見事な逃げられっぷりだったねー」
頭上から聞こえる脳天気な声に、ポセイドンは立ち上がると同時に振り向きざま、鋭く拳をたたきつけた――つもりだったが、拳は空を切り、勢い余ってポセイドンはたたらを踏む。
「暴力反対」
悠々と鉄拳をかわし、雲の小舟に乗ったゼウスがおどけた調子で言うのを、ポセイドンは苛立ちもあらわな目つきでにらみつけて怒鳴った。
「いつから見てた!?」
「兄上さまがあの子に、嫁になれーって言ってるとこから」
「最初からじゃねーか!」
「毎度毎度、芸のない会話と代わり映えのしない追いかけっこ、楽しそうでいいねぇ。
ところで、今日で何連敗中?」
「本日、十日目でございますれば、これで十戦十敗の連敗記録更新でございますなぁ」
「お前もいたのか!?」
水面にぽっかりと顔をのぞかせたプロテウスがのんびりとゼウスに答えるのに、ポセイドンはぎょっとして目をむく。
当のプロテウスはしれっとした顔つきで、
「爺は坊ちゃまの爺でありますから。
常にお側に控えてお役に立つのがお勤め」
「余計なお世話だっつーの!
てか、そもそもお前役に立ってねーし! つきまとってるだけだし!」
「あっはっはっは、全くその通りだよね、プロテウスってば」
「笑ってんじゃねえよ、お前もだ、ゼウス!」
牙をむいてがなり立てるポセイドンに、ゼウスは、おや、とわざとらしく首をかしげてみせながら言った。
「ということは、とうとう降参して私に助言を求める気になった、と?」
その台詞にポセイドンはぐっと言葉を詰まらせた。ゼウスの目が笑っている。
その人を馬鹿にしたような、余裕たっぷりの顔つきにまた腹が立って、ポセイドンは顔を真っ赤にして弟をにらみつけた。
アムピトリーテに猛烈な攻勢を仕掛けはじめてから毎日、ゼウスはプロテウスと連れだっていちいち戦況を確認しにやって来る。
そして、毎日飽きもせずこりもせず敗北を重ねるポセイドンに、しつこく助力を申し出てくる。
ゼウスの助けなど借りないと最初に突っぱねた手前、意地になって弟のお節介を無視し続けてきた十日間。
ここまで進展のない状況に、さしもの海の王者もその力強い自信に迷いが生まれているのを認めざるを得なかった。
ひたすら続く決着のつかない追いかけっこに、いい加減疲れてきたのも正直なところだ。
「……何かいい手があるのかよ」
ふてくされた顔でポセイドンが言う。
すると、ゼウスは慈父の如き微笑みを浮かべて言った。
「それが人にものを頼む態度なの?」
瞬間、ポセイドンの血が沸騰して逆流する。
「足元見やがって弟のくせにぃっ!」
「何をおっしゃる。
人に頼み事をするときはさ、それ相応の態度がありますよねってだけの話でしょ、兄上さま。
それが社会の常識、基本的な対人関係の心がけっていうか」
「馬鹿にすんなコラァ!」
「してないってば。
別に頭を下げろとは言わないけど?
そうだなぁ……せめて、お知恵をお貸しくださいゼウスさま、とか言ってみない?」
言いながら、こらえきれずににやにやと崩れたゼウスの顔をにらみつけてポセイドンは怒鳴る。
「誰が言うか! 三叉の戟で串刺しにするぞボケ!」
「ひどーい。かわいい弟に向かって何という暴言……」
「かわいくない。お前は全くかわいくない。
つーか、無駄な時間取らせんな!
手を貸す気があるのかないのか、どっちなんだよお前は」
「あるよ、もちろん。
恋愛は自分でするのが一番だけど、他人のにちょっかい出すのもなかなか楽しいからね」
「迷惑……」
ゼウスの全く悪びれない発言に、ポセイドンはげんなりとしてつぶやいた。
その非難がましいつぶやきと視線をゼウスはさらりと受け流して、
「まあ、このままポセイドンが考えなしの力押しを続けたら、さすがに彼女がかわいそうだし。
本気で彼女に嫌われる前に、今回は特別に無償で、私めが少しばかりの助言をさしあげましょう」
「前置きはいいから、さっさと言えよ」
前のめりになって食らいついてくるポセイドンを微笑みで押さえて、ゼウスはもったいぶった態度で話し始めた。
「そもそもこれも基本的なことなんだけど、何事にも手順ってものがあるのですよ、兄上」
「手順?」
「そう。
この十日間、あの子を口説き落とすって息巻いてるけど、兄上はまずそのとっかかりがつかめてないって気づいてる?」
「それは……だって、アムピトリーテが逃げるから」
「それは、ポセイドンが追いかけるからでしょ、恐い顔して。
魔物相手のケンカや狩りじゃないんだからさ、やたらと追いかけ回してものになるとでも思ってた?」
「ならないか?」
「ならないでしょう……」
「ないでしょうなぁ……」
ゼウスばかりか、今まで大人しく控えていたプロテウスにまで嘆息と共にそう言われて、ポセイドンはむっつりと押し黙る。
「ポセイドンって、ハデスとはまた違った意味で不器用だよねぇ。
我が兄たちときたら、全く……」
「余計なことはいいから、どうすりゃいいのか教えろよ」
「はいはい。
つまり、女性を口説くにはまず、話ができる状況を作らなければはじまらない。
そのきっかけを用意するのが女性とおつきあいする手順ってこと。
出会っていきなり、好きだの嫁になれだの言ってくる男の話を聞いてくれる奇特な女性はいませんよ?」
「きっかけ……」
そういうものだろうか。
ポセイドンにはゼウスの言うようなことが、どうにも回りくどく思えてぴんとこない。
ゼウスの言う手順が本当に重要なのなら、そもそも自分は出だしから失敗していることになるが――ポセイドンは釈然としない気分を呑み込んで、眉間にしわを寄せつつゼウスに尋ねる。
「で、そのきっかけってのはどうやって作るんだ」
「一般的なとこだと、人当たりのいい笑顔と社交的なあいさつ、そこから相手の気を惹くような話題を振る、とか」
「はあ……」
ポセイドンの呑み込みの悪い様子にゼウスは苦笑して、
「あとは、贈り物もいいのではないかな。
手ぶらで乗り込むよりずっといい。話のとっかかりにもなるしね」
「贈り物って、何を持って行けばいいんだ?」
「そりゃあ、彼女の好きなものでしょう、当然」
「あの子の好きなものって何だ?」
「さすがにそれくらいは自分で考えてほしいなぁ。
一から十まで私が教えてたんではしょうがないでしょう」
「何だよ、ここまで偉そうにしゃべっておいて」
「自分の頭も使わないと、彼女に馬鹿にされて終わっちゃうよ?
今までずっと彼女のことを見てきただろう?
その彼女の様子、言動から想像するんだ。
彼女の好きなもの、興味を持つものは何か、何をしたら喜ぶかってね」
「そんなの考えてわかるもんか……?」
「わからなかったらここまで、だね。
あ、そろそろ時間だから行かないと」
「はあ?」
唐突に話を切り上げようとするゼウスを、ポセイドンは口を開けて見返す。
青い双眸を意味深にきらめかせてゼウスは笑った。
「ふふっ、これからオケアノスの娘とデートなのさ」
「は!? 俺は放置かよ!
てか、お前、この間はネレイスたちとお近づきがどうとかって……」
「それはそれ、これはこれ」
「無責任だぞ、ゼウス!」
「文句言うヒマがあったら考えて。
想像力を使って、頭を働かせるんだよ。
アムピトリーテのことを思い出しながら連想するんだ。
じゃ、がんばって~」
言うだけ言って、ゼウスは海風に小舟を走らせて去って行ってしまった。
その勝手な後ろ姿を憎々しげにポセイドンはにらみつける。
想像力を使って頭を働かせる――偉そうにもっともらしいことを言いやがって。
内心、そう毒づきながらも、ポセイドンは考えた。
かつてなく真剣に、頭を使って考えていた。
アムピトリーテから連想することは何だ――輝く金の髪、華奢な体。
そのほっそりした体で踊る姿、白波に乗って、軽やかな風のように。
踊り、歌に合わせて踊る。
歌、イルカの歌。
イルカ、いつもそばについているイルカの群れ。
イルカ、動物――。
ふと、ポセイドンの視線が何か思いついたように波間に向いた。
静かに波打つ海面にぽっかりと浮かんだプロテウスの、くりっとした真っ黒い目と視線が合う。
「……プロテウス」
「はい、何でしょう、坊ちゃま」
「ちょっとツラ貸せ」
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