第19話
「――エミリアか?」
唐突に掛けられた声に振り向くと、そこには銀髪の美青年が立っていた。
ギルバード侯爵――私が住むここギルバード領の領主であり、私がメイドとして働く先の旦那様。
そして、更に言うならば、かつて世界を脅かした『魔王』と称される最強にして最悪の黒竜を討伐した世界的英雄。
誰もいない事をいい事に、まるで子供のように思いっきりはしゃいでいた今の私の姿は間違いなく、旦那様に見られていただろう。
かぁーっと、一気に顔が熱くなる。
いい年したおばさんが、何て恥ずかしい姿を見せてしまったのだろう……。
穴があったら入りたい、とはまさにこの事だ。
「居るなら居ると言ってください!」
「あ、あぁ……すまない」
思わず強い口調で言い放ち、真っ赤に染まった己の顔をすかさず両手で隠したところで、ようやく私はハッと我に返った。
言い放った相手は貴族爵位の最高位にあたる『侯爵』を得た人であり、世界的英雄。文字通り雲の上の存在だ。そんな人へ対して反射的だったとはいえ失礼にあたる態度を取ってしまった事に、先程までの羞恥心はたちまち焦燥感へ変わっていった。
手の隙間からチラリと視線だけで旦那様の顔を窺う。すると旦那様は困ったような表情でこめかみの辺りを人差し指でぽりぽりと掻いていた。
その表情は初めて会った日から今日までの中で私にとって初めて見る表情であり、彼の意外な一面を垣間見た気がした。
私は自分の手を顔から剥がして、すかさずメイドとして働く時みたいな正しい姿勢を取り、それから旦那様へ深々と頭を下げる。
「思わず、旦那様へ無礼な態度を取ってしまいました。誠に申し訳ございませんでした」
「いや、君の背後から忍び寄るように近づいた俺が悪い」
そう言いながらさっきまでの困った表情は、これまた初めて見る真剣な表情へと変わっていき、それは冷たいとも、優しいとも取れず、ただただ実直に見つめられ、私は堪らず視線を逸らす。そして同時に頬に更なる熱を感じる。
男にしておくにはもったいない程の美しい顔立ちに、思わず息を飲む程の深淵の輝きを放つエメラルドの瞳。細身でありながらも良質な筋肉を蓄えている事は服の上からでも窺える。
胸の辺りは薄っすらと隆起し、細く、それでいてがっちりとした手脚は逞しさを感じさせる。ジャケットの袖口から覗かせる手の平は大きく、そして力強さを感じさせ、その手で剣を握り締めて振るう彼の騎士団長時代の姿が自然とイメージされる。
そんな彼からの真剣な眼差しで……しかも年下の、それも住む世界の違う世界的英雄の彼に見つめられ、私の中の何かが、長く忘れかけていた何かが呼び覚まされるような、そんな感覚に思わず焦燥感を得る。
依然、視線を逸らしたままの私は緊張した口調で彼へ問い掛ける。
「それより旦那様。何故こんな所へ……?」
言葉を交わしながらも胸の奥は高鳴り、同時に自制心を働かせ、なんとかそれを抑え込もうとする。しかし、
「あぁ、少し思い悩む事があってな。気分転換にこの景色を眺めようとここまで歩いて来たところだ」
「そうでしたか……」
胸に響くその鼓動は抑えるどころかどんどん大きくなっていき、私は未だ彼の顔に視線を向けられていない。
もしも今、この胸の鼓動を抑えきれないまま彼の真っ直ぐな眼差しを受けてしまえば、私の全ては何かに奪われてしまいそうで、それが恐くて必死に抗うように、ただひたすらに視線を下へ逸らす。
しかし、そんな私へ旦那様は、
「……少し、話さないか?」
「え?」
たどだとしく気まずそうな声音で言った彼の言葉は意外過ぎるもので、私は思わず視線を上げてしまった。
今の彼の表情には何故か緊張の色が窺えるも、真剣な眼差しは変わらず私へ送られていた。そして、彼は私の返事をじっと、ただひたすらに待っているようにも見えた。
「え、えぇ。わ、私でよければ……」
彼のような偉大な人物が私みたいなど平民へ、対話を持ち掛ける事自体が違和感というか、何だかその相手が私なんかでは申し訳ない気がして、そんな思いからか変な返事を返してしまった。
すると彼は小さく頷き、辺りを軽く見渡してから、
「あそこでいいか?」
彼が指差す方、丘へ向かって緩やかに傾斜が始まる所、砂浜の上に丁度ふたり分、腰掛けられる程度の白い長椅子がポツンと置かれていた。
「……はい」
コクリと頷き、震える声で返事をする。彼もまた小さく頷くと椅子の方へと歩き出した。私もその後について行く。
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