第035話・誰が食べても美味しいお肉


 ◇◇◇




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……。




 ちゅぱちゅぱ……、ちゅぱちゅぱちゅぱ……、……んん?


 あれ、ここは?


 いったいここはどこでしょう?


「あ、ナナシくん。目が覚めた?」


 僕は、寝ぼけた頭のまま、ゆっくりと目を開けます。


 最初に目に入ってきたのは、優しい顔で僕を見つめるジェニカさんのお顔でした。


へにははんジェニカさんはひがほーなって何がどうなって、……モゴあれ?」


 なんだか喋りづらいなと思って口の中で舌をぐにぐに動かすと、口の中に何かが入っていました。


 いえ、これはもしかして。

 僕は口の中の物を舌で押し出しました。


「ぷはっ、ひょっとして僕、ジェニカさんのお手々の指を吸ってました?」


 ジェニカさんは頷きながら、自分の右手を見せてくれました。

 人差し指と中指が、僕のヨダレでヌルヌルになっています。


「なんだかとっても口寂しそうだったから、入れてたの。もしかして嫌だった?」


 いえ、驚きましたけど嫌ではないです。

 ジェニカさんのお肌は美味しいので。


「お手々を吸うのはちょっとお行儀が悪いので普段はしないようにしているんですけど、たまには良いですね」


「そ、そうなんだ」


「あとこれもしかして、膝枕をしていただいていますか? とっても気持ち良いです。布越しに感じるジェニカさんのふとももの熱と柔らかさが、僕の心を引き留めて離れがたいです。もう少しだけこのままでいていいですか?」


「うん、良いよ。ナナシくんにはいつもお世話になっているから」


 僕は、至福のひとときを過ごしながら、ジェニカさんに尋ねます。


「ところで僕、どうしてジェニカさんに膝枕されてるんですっけ? なんだか記憶が飛んでるんですが」


「私も横になってたからよく分からないんだけど……、ハローチェさんが鼻血ボタボタで気絶してるナナシくんと、知らない女の人を連れてきたんだよ。それで、ハローチェさんはその女の人と話をするから、ナナシくんを見ててって言われて……」


 ほう、女の人。それは、どのようなお姿の?


「えーっと。真っ黒い髪で、肌が真っ白で、背が高くて、すごく美人な人だった」


 ……あー、思い出しました。


「僕、その人の生足をいきなり見て興奮しすぎて、気絶したんでした」


「興奮しすぎて気絶したの? そんなことある??」


 意外とあるんですよねぇ……。


 特に、僕の場合は。


 そうこう考えていると、結界小屋の玄関扉が開いてお嬢様が入ってきました。


「ナナシさん、具合はどう?」


 はい、お嬢様。

 ご心配をおかけしました。


 このナナシ、お嬢様を残して気絶をするなど、反省の極みです。


 今後はこのようなことがないように気をつけます。


「分かりました。以後、精進するように」


 はい。寛大なお言葉、まことにありがとうございます。


「さて、それなら。ナルさん、入ってらっしゃいな」


 お嬢様が声をかけると、真っ黒い髪を腰の辺りまで伸ばした女の人が、結界小屋に入ってきました。


「起きたか。アンタ、本当に大丈夫なのか?」


 今はきちんと服(たぶん干してたやつです)を着ています。

 僕は安心して身体を起こし、その人にも頭を下げました。


「突然のことで驚かせてしまい、まことにご迷惑をおかけしました。貴女のすべすべで美味しそうなお足を見て、つい興奮しすぎてしまいました」


 僕が土下座をして謝罪すると、黒髪の女の人は困ったように眉根をよせました。


「……ほんとに私の足に興奮して鼻血を出したのか。……難儀な奴だな」


 いやぁ、申し訳ない。

 よく言われます。


「まぁ、いいが。それなら、改めて自己紹介をしようか。先ほどハローチェが言っていたように、私の名前はナルだ。アンタがナナシで、そっちのアンタがジェニカだな」


「はい、僕がナナシです」


「私がジェニカです。……その、ナルさんと言いましたか。貴女はどうしてこの島に、というより、この海域に?」


 ジェニカさんからの言葉を、ハローチェお嬢様が止めます。


「まあ待ちなさいジェニカさん。そのあたりのことは私が一度聞いていますし、ナルさんも何度も同じ話をするのもたいへんだと思うから、きちんと説明の場をもうけます。……ナナシさん」


 はい、お嬢様。


「小屋の外で、お茶の準備をしてくれる? しっかり腰を据えて話をしたいわ」




 ◇◇◇


「つまり貴女は、この海の向こうのワーフー諸島連合国の人間で、乗っていた船が大嵐で難破してしまい、気がつけばこの小島まで流されていたということなのですね」


「そういうことだ。アンタたちペルセウス共和国の人間も、この暗妖の大礁海のことは知っているだろう。ここに流れ着いて、ここがその大礁海だと気づいたときは、さすがの私も肝が冷えた……」


 ナルさんは、自分の湯呑みで森茶(極魔の大森林で摘んだ香りの良い葉から作ったお茶です)を飲みながら、その時のことを思い出して遠い目をしました。


「ともに船に乗っていた者たちとは散り散りになったが、おそらく他に誰も生きていないだろう。私は、たまたま運良くこの海域の化け物たちに食われずにここまで流れ着いたに過ぎない」


 お嬢様が、険しい顔で頷きます。


「先ほどナルさんから聞いたわけだけど、この海域には肉食性の凶暴な魚がウヨウヨいるそうよ。よほど強い嵐の最中で、魚たちも巣に篭っているような状況でもなければ、襲われずにいるほうが難しいって」


 まぁ、確かに。

 僕たちもここに来るまでの間も何度か空中で襲われましたものね。


 水中であれば、なおのことでしょう。


「海流の関係か、乗っていた船から流れた物や木の板がたまに流れ着くから今までなんとか生き延びてこれたが、それももう限界に近かった。正直に言うが、私はもうここで人知れず朽ち果てるのだと、そういうふうに思っていたところだった」


「そうでしたか。そうなる前にお会いできて、良かったです」


「……ところで、ナナシはさっきから何をしているんだ? いや、とても良い匂いがしてくるから、気が散ってしまって仕方がないんだが……」


 これですか?

 お嬢様に言われてティラノ君のお肉を焼いています。


 脂がパチパチと爆ぜて、周りに肉汁の匂いを散らしていますね。


「……肉、か」


 ナルさんが、ゴクリとノドを鳴らしました。

 本人は気づいていないようですが、口の端から少しヨダレが垂れています。


「ナルさん。私たちは先にお昼を食べてしまっているのだけど、貴女はまだなんじゃない?」


「……お昼どころか、昨日から何も食べていない」


 なんと。

 それはたいへんです。


「そう。それならナナシさん、もっとたくさん焼いてあげなさい」


 分かりました。

 ひとまず一人前焼けましたので、熱いうちにどうぞ。


 ナルさんの前にティラノステーキを置くと、ナルさんは先ほどより目が輝き、ソワソワと落ち着きをなくしました。


「な、なぁ。これは、さっきの話を受ければ、この肉を食べてもいいということか」


「というより、先ほどの話は抜きにして、まずは気が済むまで食べてもらおうかと。空腹の弱みにつけこんで交渉を行うような真似を、するつもりはないし」


 ふむ、どうやら僕が気を失っている間に、お嬢様とナルさんの間でいくらかの話し合いが行われているようですね。


 それなら気兼ねなく。

 お腹いっぱいになってもらいましょうか。


 僕は追加のお肉を焼き、干し肉と干し芋とミルクとニンジンを使ってシチューを作り始め(結界鍋に圧力をかけて時短調理します)、焼いておいたパンを厚切りにして表面をカリッと焼き上げていきます。


 僕の調理を横目に、ナルさんがおそるおそるティラノステーキをフォークで突き刺し、ガブリと端からかじりつきました。


「…………っ!?」


 すると、驚きで大きく目を見開き、さらに大きく口を開けて先ほどより多めにお肉を口に入れると、ガジリと噛みちぎってからモグモグと咀嚼します。


 無言のまま、噛む時間すら惜しいとばかりにお肉を飲み込むと、さらにかじりついてはお肉を食べ、よく噛まずに飲み込んでいきました。


「おかわり!」


 僕は次のお肉をナルさんのお皿に盛ります。

 ナルさんは次のお肉も一分もかからずに食べ終え、さらに次のお肉をお皿に盛ります。


「うまい……、うまい……!」


 ナルさんは、焼き加減はどれぐらいが良いですか?

 レア? ミディアム? ウェルダン?


「どれぐらいでもいい! もっと食わせてくれ!!」


 それならレアで焼いてどんどんお出ししましょうか。

 その間にシチューも出来上がりますし。



 そうして僕はしばらくの間、漂流生活でお腹を空かせていたナルさんに、お腹いっぱいになるまでお料理を出し続けたのでした。

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