第2話 世界を変える人
「大丈夫。毒なんて塗っていないよ。なんなら私が一口食べて、それを証明してあげよう。そうすれば、お嬢さんも安心できるだろうさ」
「まあお婆さん、そこまでしていただいて本当に申し訳ないわ。心無い事を言ってごめんなさい。だけど、心配してくれる小人さん達の心も、私は裏切ることが出来ないの。本当にごめんなさい」
心底申し訳ない、といった顔の白雪姫が、小さな窓枠の向こう側で潤んだ瞳の下にある眉尻を下げる。
……いい子なのだ、白雪姫は。
まさしくお話の通りに。
だからこそ、私は心苦しかった。
例えこの後王子の口付けで生き返るのだとしても、一人の少女を私は殺す。
これを何度も何度も繰り返してきた。
この後自分がどうなるのか、勿論彼女は知っている。数えきれない程繰り返してきたのだから。けれど、それでもこの絵本の中、今この場で彼女は私の事を、私の扮する老女の事を『信じて』いるのだ。
人間が生という運命から逃れられない様に、私達もまた絵本の物語という生からは逃れられない。
先にどんな悪い結果が待ち受けているとしても、それが物語であれば変える事は許されない。私を信じる白雪姫も、彼女を毒林檎で殺す私も。
小人の言いつけを破れないと謝る白雪姫に、私は手にした毒林檎の赤い肌にナイフを入れ、半分に切り割る。毒林檎と言っても、その毒は片側にしか塗られていない。
私は毒の塗られていないほうの果肉を食べて見せ、再び白雪姫に林檎を勧める。
「ほら、大丈夫。素晴らしく甘くて美味しい林檎だよ。さあ、お嬢さんもぜひ食べておくれ」
そう言って、小さな窓枠に林檎を差し向けると、可愛らしい顔を綻ばせた白雪姫がその白い手を伸ばし半分になった林檎を手にした。
彼女は今、内心どう思っているのだろう。……私を、憎んでいるだろうか。何度も何度も、自分を殺す私を。
「ありがとう。おばあさん」
嬉しそうに微笑んで、彼女は毒の果実を口にする。
表情を変えずに、卑しい笑みを浮かべる老女の姿で、私は内心悲鳴を上げた。
シャリ、と、齧る音がしてからほんの数秒だった。窓枠から見えていた白雪姫の身体が、まるで崩れ落ちるようにゆっくりと傾いていく。
やがて室内にどさりと彼女が倒れる音が響く。窓枠から部屋を覗き込むと、床に倒れた白雪姫が見え、その顔は先ほどより一層白さを増していて、緩やかな曲線を描く身体は、呼吸の動きを止めていた。
「……今度こそ、死んだようだね」
私は一度だけ瞼を落とし、次に瞳を開いたときにはお妃様の台詞を口にした。
……私は何度、貴女を殺せばいいのだろう。
……私は何度、こんな想いをしてきたのだろう。
……貴女は一体、私をどう思っているのだろう。
心の中にある感情とは違う表情を浮かべながら、私は高い笑い声を上げ、小人と白雪姫の住む家を後にした。
―――ごめんなさい。本当にごめんなさい。
もう暫くの辛抱だから。今に貴女の王子様が現れて、貴女を幸せにしてくれるから。
だから―――貴女を殺して、ごめんなさい。
◇◆◇
「お妃様……大丈夫?」
鏡の心配そうな声も、今の私には届かない。両の手の平で顔を覆い、何も見えなくして、私は瞳から流れ出るものを止められずに嗚咽を漏らす。
崩れ落ちた彼女の身体。青ざめていく肌。止まった呼吸。生ある者が息絶える瞬間。
あんな惨い事をして。信じてくれたのに。信じてくれたのに裏切って。
私はまた、彼女を殺してしまった―――。
後悔と、罪悪感と。
仄暗い湖底へと落ちていくような、痛くて冷たい感覚。
何度、毒を塗った林檎を投げ捨てたいと思ったことだろう。
何度、毒の無い方の林檎を彼女に渡そうとしただろう。
だけど、それは許されなかった。
『絵本の意思』は揺らがない。物語に反する行動を起こそうとすればたちまち強制力が働いてしまう。
どんなにやりたく無いと願っても、どんなに拒否しても、身体は勝手に動き、唇は思ってもいない言葉を口にする。
例え胸に短剣を突き立て命絶ったとしても、登場すべきシーンが来れば、生き返る。
『白雪姫』の物語の中で、私はこれからもずっと彼女を殺し続ける。
絶望が心を覆っていく。臓腑の底から冷え渡る感覚に、自分で自分を抱きしめた。
―――その時だった。
「お妃様っ!? お妃様おられますかっ!?」
ドンドンと、鏡の部屋を乱暴に叩く音がした。
普段なら、出番ではない私のところに誰かがやってくる事は絶対に無い。
なのに、どうして。
流していた涙をどうにか押し止め、私は何事かと部屋のドアへと歩み寄る。
「どうしたのですか?」
「大変なんですっ! とにかくすぐに出てください! すぐにっ!」
扉を開けると、城の兵士である青年がとても焦った表情をして私を急かした。
え、と戸惑う私にかまわずに、彼は私の腕を引き、『舞台』である城の謁見室へと急ぎ出す。
ど、どういう事? 何が起こってるの? どうして私が連れて行かれてるの?
だって私の出番はもう、最後のシーンまで無いはずなのに―――
舞台である城の謁見室まで連れて来られた私は、配役のお妃様指定の場所―――玉座へと腰を下ろした。
そしてその上座より一段下にある謁見者が控える場所には、一人の青年が膝を折り、頭を垂れている。
「何事ですか」
『物語』には無い台詞。『物語』には無いシーン。
本来ならばある筈の無いシーンだけれど、私は『お妃様』として台詞を口にした。
すると、頭を垂れていた青年が、ゆっくりとその面を上げる。それを見て、私は両目を大きく見開いた。
「『本当の僕』としては初めましてだね。お妃様」
「貴方は……」
美しく煌く金の髪、空の色よりも透き通った青い瞳、さながら騎士の如き出で立ちの、美麗な青年。
彼は―――
「王子、様……どうして」
なぜ。どうして彼がここへ。
本当ならば彼は今頃、毒林檎で倒れた白雪姫の元へと駆けつけ、そしてその口付けでもって彼女を目覚めさせる役割のはず。
でなければ、彼女は一生目覚める事は無く、そして物語も、筋通りの幸せな結末へと繋がらない。絵本であるこの世界では、お話を変える事はしてはならない。いえ、『できない』。
なのに、今、この状況は――――
驚愕に目を見開いている私に、金色の王子がふわりと微笑む。
この世界で向けられたことの無い優しい笑みに、私の心がどきりと跳ねた。
綺麗な人だなとは思っていた。
男性には失礼かもしれないけれど、白雪姫と彼との結婚式を、私は影から何度も眺めていたから。美男美女の幸せそうな光景は、ほんの少しだけ私の心を慰めてくれた。白雪姫を殺めた私の罪悪感を、薄めてくれていたのだ。
「驚いた顔も素敵ですね。貴女のそんな顔を見るのが、ずっと僕の夢だった」
青い瞳を緩く細めた王子が、一歩一歩、私の方へ歩み寄りながらそんな事を口にする。
私の周りに控える『城の兵士』や『家臣』や『従者達』が、皆そろって息を飲んだ気配がした。
「お妃様。僕は、貴女の『世界』を変えにきました」
『絵本の意思』を無視し。
『強制力』も無視し。
金色の髪をした黄金の青年が、私の足元でそう言った。
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