十八、蚊取り線香
目を覚ました時、光理の意識は濁ってぼんやりとしていた。徐々に視界からの情報が入り、清潔を証明するような独特の香りも情報源として嗅ぎ取られる。
身を起こそうとすると、首の後ろで鈍痛が
簡易ベッド、と言うには簡素すぎる横長の台から身を起こし、天井とほとんど変わらず寒々しい床へ目を走らせる。照明に白々と照らし出された空間は殺風景で、視線の終点に立ちはだかる鉄格子と、防弾ガラスの窓を嵌め込んだシャッターが物々しさを加えていた。どこからどう見ても牢屋だ。しかも、研究所にある異物用の
通常なら、異物を閉じ込める檻で身柄を拘束されていることに憤りつつ、建物の役目に含まれている物事を推測するところだが、今の光理にそこまでの元気はなかった。猛暑の屋外から帰って来た時のように全身が気怠く、逃げ続けなければならなかった緊張が徒労に変わって、意気まで根こそぎぐったりと
千衣に助けを求めることが決まった際、新が言及した逆探知の危険性には、新に搭載されたプログラムの主導権を奪われる可能性も含まれていた。今までずっと侵入を阻み続けてきた鉄壁の
そうなる提案を採択して、
頭を動かしている間、室内あるいは室外のどこかに埋め込まれている監視カメラが、とっくに起床を捉えているだろうと予測も浮かんでいる。裏付けになるドアの開閉音と足音が、間もなく牢屋へ向かってきた。
嵌め込まれた窓に現れたのは、今となっては珍しい外国の血筋が色濃い男。色素の薄い目を光理に合わせた男は、窓の下で何かを操作する素振りを見せた。直後、厳重な扉と格子が天井や床に格納されていく。
光理の方へ歩いてきた白肌の男は、ダークブラウンの髪と髭を綺麗に整えていた。「取引をしよう」というハンドサインをした後、男は両手を上げて敵意が無いことを示す。
「初めまして、改道光理さん。第三研究所、異物掃討支援機器開発科の
立ち上がった光理が了承のハンドサインを示した後、レイモンドは流暢に挨拶をした。白衣とシャツとスラックスのシンプルな三点セットには
「初めまして。ここは研究所の施設ですか」
「半分はそう言えるでしょう。しかし、第三都市の施設ではありません。旧第二都市圏近郊の地下に作られた、研究所管轄だった施設です」
淡々とした質疑応答に、緊迫はない。光理は自身以外の武器を一つも持っていないし、レイモンドと名乗った男にも戦意は無い。取引を提案した外国ルーツの研究員と、それに応じた若い女傭兵は、ただの確認を行っているに過ぎなかった。
「現在、ここは特定危険犯罪組織〈グリード〉の支配下に置かれています。第三研究所からここへ来るように脅迫された我々、異物掃討後方支援アンドロイド研究開発チーム〈アルゴ〉は、彼らに監禁される予定でしたが、一部区画を占拠して立て籠もっています。軍部との通信は、まだ回復まで至っていません」
「わたしに協力できることは?」
「……うちのアンドロイドに関して、何か疑問に思うことはありませんか」
すぐに本題へ入った光理に、レイモンドは少し眉を顰めながら問い返す。怪訝そうな顔には戸惑いも混じっていたが、光理の表情は揺るぎない。
逃亡劇は既に終わった。今は一人の傭兵として、提示された取引に応じるだけ。
「草加新が研究所へ戻った場合、必要なデータチップは摘出され、不要になった体は分解されると聞いていました。そうなったのではないのですか」
「いえ、まだそこまでには至っていません。それも後ほど、詳しくお話しします。行きましょう」
たったの数秒で話が纏まる。光理はレイモンドの後に続き、開け放たれた牢屋を後にした。
持ちかけられた取引に応じるのが早すぎるのは、光理が安住レイモンドという名前を知っていたからでもあった。こうして対面することは初めてだが、新を製作した研究チーム〈アルゴ〉については、新自身から聞かされている。計画はもちろん、関わっている研究員の名前も。その中では最も印象に残りやすい名前だ。だからこそ、交渉役として出てきたのだろう。完全にそうと決まったわけではないが。
「この施設……旧第二研究所外部施設は地下五階の深さがあるとされていますが、実際には六階までの深さがあります。このフロアがまさに六階ですね。用途は見ての通りです」
「異物を捕獲しておいて、実験体にする、と」
「はい。中には人間もいたようですが」
コツコツと進む二つ分の足音は、事務的な会話と同等に冷淡。その程度は特に珍しくもない話だ。粗末でも人を寝かせる簡易ベッドが置かれていた時点で、光理も察している。
還元祓魔術によって未知の生命体を数多の資源に変え、その果てに食べることさえ可能にした人間たちは、異物から薬を作ることも考えた。異物の中には病原体を持つ種類もおり、それらに対抗できるのもまた、異物が持っていた物質。異物出現前より確認されていた難病への特効薬も作られたが、どちらも人間の犠牲なくしては生まれなかった。
旧第二都市の研究所であれば、そういった研究も盛んに行われていただろう。今も引き継がれ、どこかで研究が進められている。被験体を廃棄市街から仕入れているのも、そこを起点に生じるビジネスの多くも変わっていない。
「グリードの連中は、廃棄市街から研究所への実験体補充という名目での人身売買を筆頭に、現在は異物由来の麻薬を密売してもいます。第六研究所にはグリードの息が掛かった職員がいて、我々アルゴは彼らに脅迫されたのち、ここへ来るよう誘導されて応じました」
「そこからよく立て籠もれましたね。草加新とわたしを自陣にも引き入れて」
「危険なことは承知でしたが、相手の武装レベルがそこまで高くなかったことと、こちらが電子機器の扱いでは少し上だったことが幸いしました。籠城が完了した後、軍用トラックをそのまま突っ込んでしまえばグリードの連中は手出し不可能でしたし、四階で降車した草加新は、改道さんを連れて速やかに籠城区域内へ入りました。その後、草加新に搭載していた人工知能を、ハッキングし返しておいたデバイスに繋げてしまえば、制御権はこちらのものというわけです。四階から六階までではありますが」
景色は変わらず、二人分の足音と話し声しか響かない廊下。六階から五階へ上がるまでの階段と無機質な道は、白々と照らし出されている。旧第二都市に脅威物が出現する前に撤退していたのか、汚れも損傷も見当たらない。……綺麗に撤退したわけではなく、定期的にやって来る人物がいたのかもしれないが。
セキュリティの管制室は各階ごとにあったが、光理は四階の管制室へ案内された。広々とした部屋に入った途端、監視カメラの映像をまとめて複数映し出す巨大モニターが目に飛び込んでくる。その前にはパソコンを並べた列が三つほど整然と並んでおり、レイモンドの同僚たちがまばらに席を埋めていた。
ドアは開けっぱなしだったが、レイモンドの足音が転がると、十人前後の男女が一斉に此方を向いた。年配若輩、男女問わず、白衣を纏った研究者たち。中にはレイモンドと同じく、外国の血筋が入っているのだろう顔も見受けられる。
「五階管制室と六階管制室の機能は、四階管制室に一時統合しています。メインとなる壁面モニターと、向かって前列、中列のデスクトップモニターには、一階から四階までの監視カメラ映像が。後列のデスクトップモニターには、五階と六階の監視カメラ映像が出ています」
レイモンドが説明する間、アルゴの研究職員たちは、部屋の中央へ集まり出していた。光理も促されて距離を詰めていく。多くが顔を強張らせた研究員たちと、既に腹を決めている若い傭兵は、生身で向かい合った。各モニターに映し出された映像、一階から三階で、銃器を手に動き回っている男たちに背を向けて。
「事前の説明が長くなってしまいましたが、本題に入らせていただいてもよろしいですか、改道光理さん」
「軍部がこの施設を発見し、突入してくるまで、わたしが皆さんの用心棒になる。という内容を予想しているのですが、合っていますか?」
「はい。もし、武力行使による危険状態に陥った場合、我々は戦う手段をほとんど持ちえません。一応の訓練は受けていますが、こうして籠城するのが精いっぱいです」
幸運の要素もあったのだろうが、それだけでも大したものだと、光理は内心で拍手を送っていた。この研究チームも何か企んでいるのではという疑いも、ほとんど晴れてきている。
「皆さんの依頼内容は把握しました。では、そのために何を差し出すか、聞かせていただけますか」
状況が状況なため、正直なところ光理は代償を求める気分にならなかったが、取引である以上そこを疎かにはできない。が、一応、金銭に限らない抜け道は残しておいた。使い道次第で金銭に匹敵する価値のあるものはいくらでもある。
「……改道光理さん。あなたはグリードを引きずり出すための作戦に参加していた、そうですね?」
ところが、レイモンドの返答は予想の斜め上かつ、含みを持たせたもの。思わず光理は目を丸くしたが、初めて口元に笑みを浮かべたレイモンドの表情を見て、腑に落ちた。仮に光理が渋ったとしても、これを切り札として取っておいたのだと。
「我々が開発したアンドロイド、データ収集用疑似人格名称・草加新を強奪したのは、高性能機器も狙うグリードを誘き出す一環だった。我々の身にも危険が及ぶ賭けではありましたが、相手は広範囲に根を張る裏社会組織。多少計画に無茶があっても、大多数を捕獲可能な可能性を高めておきたい。その理念に賛同して、あなたは作戦に参加した」
「……ええ。その通りです」
口頭では肯定しながら、光理は首を横に振った。今度はレイモンドが目を丸くし、別の研究員へ目配せをする。視線を受けた研究員の男は、ポケット内で手を動かしていた。ボイスレコーダーを止めたのだろう。
「ごめんなさい、自分の中での話ですので、皆さんには関係ありません。……報酬内容、確かに把握いたしました。これより、第三研究所所属の研究者チーム〈アルゴ〉の皆さんの警護に当たらせていただきます」
深々と頭を下げた光理に、研究者たちは一様に胸を撫で下ろしたり、明らかな安堵の表情を浮かべたりしていた。だが、それも束の間。光理が「一つ提案をしても?」と問いかければ、先ほどよりも
「この施設を軍部が素早く見つけられるよう、
「何らかの信号を発信する、ということですか」
交渉が終わったからか、レイモンド以外の研究員から声が上がる。光理は頷きつつ、肩ポケットに突っ込まれっぱなしだったトランシーバー……ではなく、その下に押し込められた紙切れを取り出した。
「この宛先に、施設の位置情報とメッセージを送ってください。『ここで待っている。改道光理』とシンプルなもので。そうしたら、派手な煙を上げてくれる子が来ます。それを足掛かりに、軍部へ施設の位置を知らせましょう」
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