03

 目の前に広がる、ひびの入った染みだらけの見覚えのある天井に、牧野はしばらく自分が今どこにいるのか理解できないでいた。


「!! 気が付いたのか!? 牧野軍曹!?」


 慌てて駆け寄ってきた軍医は、幽霊でも見たかのように牧野を見つめる。


「自分か誰かはわかるか?」

「セーフ区画確立部隊第三小隊所属、牧野薫軍曹であります」

「気を失う前のことは?」


 気を失う前、居住区同士を繋ぐ高架の安全確認後、帰還しようとしたところで変異種に襲われ、助からない大怪我を負った。


「そうだ。傷……」


 あの傷では生き残れないと判断したはずだ。だが、勢いに任せて起き上がっても、体に痛みはない。

 服を捲っても、そこには死に繋がりそうな大きな傷はない。


「こりゃ一体……」

「報告は聞いた。君は確かに、大きな傷を負っていたはずだ。その証拠に、これが見えるか?」


 軍医が指すのは、腕の一部。皮膚が薄いのか、うっすらと赤い部分があった。


「報告と服の損傷から、おそらくここから出血があったはずだ」

「つま、り、治ってる……?」


 傷が治る。それは何もおかしくない。

 だが、それは健康だった場合の話で、明らかに内臓が損傷した状況で、次に目を覚ましたらほとんど治っていましたなど、おかしすぎる。


「自分は、何日眠っていたのですか?」

「5時間だ」

「ごっ……時間!? そんなわけ」

「本当だ」


 見せられた携帯の画面は、確かに5時間と少ししか経っていない。

 ありえない。

 そんな短時間で治る傷ではなかった。


「とにかく、今はゆっくり休みなさい。精密検査の用意ができたら、また呼ぶから」


 そうして残された牧野は、混乱する頭を整理するように、深呼吸をする。

 ゆっくりと気持ちを落ち着かせ、記憶を探れば、ふと脳裏に過った死神と赤い獣の姿。


「……いやいやいや、アレはただの夢。うん。夢だ」


 どこか自分の感覚が信じられないが、それでも無理に納得しようとしていると、カーテンの向こうから声をかけられた。


 煙草の形をしたそれに鼻を近づけ、まるでテイスティングでもするかのように、大きく吸い込んだ上官は、こちらへそっと目を向けた。


「私は、こういった薬は控えるように伝えたはずだがね」


 箱に残っていた1本だ。

 ストレスのかかる兵士たちに、暗黙の了解として黙認されている違法薬物ではあるが、無論嫌う人間もいる。

 目の前に立つ久留米少尉も、好んでいない側の上官だった。


「”エンジェルポーション”だな? ここ最近、随分と広まったものだ。確か、疲労回復、肩こり、腰痛改善、それから、怪我も治る、だったかな?」


 こちらをじっと見る久留米の言葉に、牧野も自分の体を見下ろしてしまう。

 嘘のように治った自分の体を思い出しては、少しゾッとした。

 本当に、煙を吸うだけで、人間が死にかけるような傷を回復させてしまうような物体が存在するというのか。そこまで、世界は変わってしまったのか。


「まさか、そんな……」

「私もここまで目に見えた効果は初めて見た。だが、確かに妙な報告は存在していたのは事実だ」


 負傷した兵士の回復が少しだけ早かったり、奇跡的に一命を取り留めているなど、些細なものではあった。

 牧野のように、はっきりと異様な回復を見せはしなかったが、久留米も疑いをかけている薬物であった。


「まさか、本当にゲームに出てくるポーションとでも?」

「その可能性も否定はできないな。だが、この世界にはもっと容易な方法が存在するだろう?」


 薬を飲んだ人間をたちまち回復させてしまう摩訶不思議な薬ではなく、もっと容易な方法。

 つい先ほど、念入りに行われた精密検査が頭に過る。


「自分が、変異種になっていると……?」


 至った答えに、久留米は少し目を細めた。

 その反応に、血液に氷の針が差し込まれたかのような錯覚に陥る。


 生態系を壊した凶悪なウイルスの被害者に、もちろん人間も存在した。ここ数年で開発されたワクチンのおかげで、被害は激減しているが、同時にこんな意見も存在した。


『人間の遺伝を組み替えることで、この世界に対応した新人類を作り出すことができるのではないか』


 生きた生物を変異させるウイルスが存在するのだ。あとは、その力を制御するだけ。

 そう考える研究者たちは後を絶たなかった。結果、法律によって、人間に対する遺伝子組み換え研究を行うことが禁止されたが、非合法に研究を続ける機関は後を絶たない。


「そのための精密検査だ。今の貴官は、明らかに”異常”だからな」


 もし、エンジェルポーションが人を変異種に変える薬であったなら、自分はどうなる。

 処分は免れないだろう。いやその程度、易いものだ。

 モルモットだってありえる。


「そういえば、牧野軍曹。貴官には、極秘に頼んでいたことがあったな」

「は……? いったいなんの……」


 急に話題を変える久留米に、なにかと眉を潜めれば、先程以上に久留米の目が弧を描いていた。


「兵士たちに流通する出所の怪しい薬物の調査を頼んでいたところで、まさかそれに縋らねばならない事態になるとはな。実に不運だったな」


 まるで部下を労う上官のように、微笑む久留米に、牧野は小さく目を伏せると、頷いた。

 すると、引き出しからひとつの資料を取り出すと、こちらへ差し出す。


「金銭の巡りから当たっていた者から、例のエンジェルポーションの出所について怪しい情報が出てきた。調査に行ってくれるな?」


 拒否権など、最初からありはしなかった。


 徹底的に管理されている居住区内で、危険な研究などできるはずもなく、それらの研究機関は決まって居住区の外、外の中でも変異種の侵入を防ぐ防壁の内側であるセーフ区画に、違法な研究機関は存在することが多い。

 今回も、例に漏れず、セーフ区画内の奥深い森の中に建てられているらしい。


「ヴェノム研究機関……」


 久留米の予想通り、エンジェルポーションの出所は、遺伝子研究を行っている研究機関のようだ。

 裏には、大学や製薬企業までついているようだが、もし研究機関が摘発されれば、それらの企業はすぐに研究機関を見捨てることだろう。

 むしろ、既に手を切られているのかもしれない。でなければ、エンジェルポーションなどという、金策を考えなくていいのだから。


「軍曹、お体は平気なんですか?」

「それはどっちの意味でだ?」

「……どっちもです」


 隣で車を運転している部下が、時折こちらに目をやりながら尋ねる。

 作戦の内容を伝える時に、既におおよその牧野の体についても知っているため、気になるのだろう。

 エンジェルポーションは、兵士たちの中では相当流通していたおかげで、彼らの中にも既に使用した者もいるのかもしれない。


「すこぶる体調がいいな。ダルさも疲労感もない。10代に戻った気分だ」


 精密検査の結果はまだ出ていない。

 だが、外傷などに関しては、ほぼ完治といって相違なかった。


「まぁ、もし危険だと判断したら、即座に俺を撃て」


 他の変異種同様に、自我を失い、体が変異していくならば、牧野を撃つ許可は出ている。

 運転をしながら、微かに目を大きくする部下の様子を見ないように、資料に目を落とした。


「この資料によると、研究所には人間の変異種がわんさかいる可能性がある。人間の形をしていたとしても、躊躇うなよ」


 彼らの研究は、この世界に対応できる次世代の新人類を作り出すこと。

 そのために必要な能力を発現させるために、遺伝子の研究を行っているらしい。


「はぁ~~……この資料、読めば読むほど、頭が痛くなってくる……」

「我々は詳しく聞いていませんが、それほどなのですか?」

「子供が書いたスーパーマンの設定を読んでる気分」

「それを大真面目にやるのが、研究者ですから」


 研究所の制圧は、そう難しいことではない。

 訓練されていない研究員がほとんどだろうし、仮に傭兵を雇っていれば、手間はかかるだろうが、彼らも事態が不利だと見れば、自分たちの命を優先する。

 施設の設備に関しても、隠れて研究所を作る手前、資源は少なく、外敵に対する設備は、あったとしても変異種に対しての自衛程度の物。大した障害にはならない。

 もし、不確定要素があるとするなら、研究が行われているという実験体だ。


「…………」


 研究所が行っている研究は、大きく分けて5つ。

 G型(口顎改良型)、O型(視覚改良型)、S型(聴覚改良型)、T型(嗅覚改良型)、P型(大脳改良型)に分けられる。

 実際の研究が、どの程度進んでいるのかなどの詳細についてはわからないが、得ている情報から、彼らがどういったものを研究しているかは想像がつく。


「なるほど。やけに、停止ポイントが研究所から離れていると思いましたが、そのO型、S型対策ってわけですか」

「一応な。人間じゃないにしろ、警報装置として機能されたら面倒だ」


 止まった車に、牧野は大きく息を吐き、資料を閉じた。



 風に乗って、鼻についた匂いに、木の枝の上で寝そべっていた少年は、森の奥へ目をやった。


「どうした?」

「…………ん~~人間がいるなぁ」


 獲物を見つけたヘビのように、細まる目で森の奥へ目をやる少年に、もうひとりの少年も森の奥へ目をやった。

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