ヴェノリュシオン ~ 違法研究所を摘発したら、実験体にされていた遺伝子組み換えされた子供を育てることになりました ~
廿楽 亜久
1話 ヴェノム研究所
01
薄っすらと霞がかる世界に旋律が響く。
子供の、声だろうか。
音か声かもわからないほど遠くに感じるそれは、集中すれば霞の如く消えるのだろう。
「牧野軍曹。もしかして、それ最近流行ってるやつです?」
部下の声に視線を上げれば、指を指されるのは、加えている煙草のようなそれ。
「その香り、”エンジェルポーション”でしょ」
どこかの国の生物兵器がばら撒かれたせいで、世界の生態系は崩れ去り、狂暴性を増した世界から逃げるように、人々は世界を隔てる壁を作った。
しかし、いつまでも引き籠るわけにはいかず、変わり果てた世界の調査、そして人間が暮らすことのできる場所を確保するために、数十年ぶりに行われた徴兵制度。
過去の記録は役に立たず、理解できていることなどなく、未知なる全て物質に警戒し続けなければならない状況は、兵士たちを疲弊させた。
「臭いでわかんのかよ。どんだけ吸ったんだ。お前」
煙草や酒、賭け事。合法的なものであればいい。
だが、壁の外に取り締まる目は少なく、違法薬物に手を出す兵士も少なくない。
「誤解です。確かに、香りの違いはありますが、軍曹のことだから勧められたのを、とりあえず吸っているのではないかと思っただけです」
「……」
牧野の上官は、黙認こそしているが、違法薬物だけは判断力の低下や体を壊すことから、あまり良く思っていない。
他に比べて対面して話す頻度の高い牧野は、小言を避けるために、どうしても控える必要がでてくる。
だが、こうして部下から勧められれば、仕方がないと言い訳をして、手を出しているのは事実だった。
「疲労回復。肩こり、腰痛改善。なんだったら怪我も治るなんて、胡散臭すぎる触れ込み、逆に気になるだろ」
「確かに。それで、感想は?」
「頭痛がしてきた」
「なんだ……やっぱ、パチモンかぁ……」
そう言いながら取り出した見たこともない巻紙の煙草に火をつける部下に、小さくため息をついた。
「こんだけおかしくなったんだから、本当にゲームみたいなポーションくらいできてもいいと思いません?」
「バーカ。現実だよ」
紫煙を吐き出す部下は、ふと胸ポケットのそれを取り出すと、牧野に渡してくる。
「これあげますよ」
「煙草、じゃねぇよな……」
「”エンジェルポーション”です。こっちの方が好みなんで」
「俺はゴミ箱じゃねぇっての……」
「吸えればなんでもいいでしょ? 正直、正規品の煙草なんて手に入らないですし」
実際、違法薬物を含め、煙草に似た口寂しい時に吸えるものは少ないし、高価だ。
手に入るのならばなんてもいいというのは、少なからずある。ちょうど、ストックも切らしてしまっているし、この申し出は助かるため、まぁいいかと随分と軽い箱を受け取った。
数十年前まで、コンクリートで埋められていたはずの地面は、突然変異した植物や動物によって、すっかり姿を現していた。
辛うじて残っている高速道路などの高架を使い、各シェルターに物資の運搬をするが、壁の整備やその高架の整備のために、定期的な見回りは必要だった。
しかし、高架とは違い、影響の出やすい地上付近は、歩くのすら一苦労な悪路だった。
「これでも、壁ができて少しはマシになったんだぞ」
「壁ができる前は、無法地帯がかわいく見えましたしね」
「そうだ。一卒。この程度でへばるなよ」
遠征に慣れない部下の面倒を見るのは任せ、地図でポイントを確認しておく。
高架の点検は終えた。後は、近くの駐屯地へ向かうだけだ。
「よし。周囲を警戒しつつ、帰還する――――」
言いかけたその時、空から降ってきた何かが、隊員の一人を叩き潰した。
「――は?」
べちゃりと粘度のある音を立てて、隊員の胸のあたりを叩き潰すと、頭を持ち上げ、細い舌のようなものを刺して中身を吸っている。
「ぅ、ぅわぁあああああっ!!!」
傍にいた一人が、慌てて構えた銃を発砲すれば、その変異種は驚いたように首を横に大きく振ると、異様に長く伸びた尻尾を地面に突き立て、回転するようにこちらを逃げてきた。
発砲している隊員の銃口も、自然とこちらを向き始めるわけで、変異種から逃げているのか、味方から逃げているのか、とにかく身を低く飛び退く。
「バカッ!! 味方撃つ気か!!」
「軍曹! 高架が近すぎます!! 流れ弾が当たったら――」
「バカヤロ! それで死んだら元も子もねーだろ!!」
本当に、高架に当たって物流が破壊されたのなら、それはこの部隊だけでは責任を取れない問題になるが、だからと言ってこのまま大人しく餌になるなど真っ平ごめんだ。
もし、高架が壊れたなら、全てこの変異種に責任を負わせてやると、銃を構える。
モモンガのような見た目に、後ろ足はなく、代わりに特徴的な長い尻尾。
この尻尾を地面に突き立て、バク転でもするかのように移動する。特に危険なのは、その尻尾であり、素早い動きの癖に、あの変異種の体の中で、最も力のある部分だ。
叩きつけられたのなら、人間が簡単に引きちぎれる。
「クッソッ!!」
動きを予想して銃を撃っても、飛膜でタイミングをズラされる。
尻尾に吹き飛ばされる隊員たちに、徐々に減る弾幕に、変異種も動きをより複雑化させ、気が付けば間近に迫っていたそいつと目が合った。
「牧野軍曹!!」
横腹に感じた衝撃と共に、木に叩きつけられた。
息を吸うことすら痛みを感じる。しかし、生きてはいる。
歪む視界ですらわかるほどの、赤く濡れた地面。
もういい、逃げろと命令しようにも、痛んだ肺はろくな声も出せず、痛みに呻くしかなかった。
「このクソネズミ!!」
尻尾に掴まれた部下が地面に叩きつけられる直前、持っていた手榴弾のピンを抜いた。
そして、自分とその尻尾で挟み込むように手榴弾を抱きかかえた。
直後、爆風は部下の肉体と尻尾を吹き飛ばした。
「ギギャッ……!!」
尻尾を吹き飛ばされた変異種は、地面に転がるが、前足で必死に地面を掻くと逃げ出そうと体を引きずる。
すかさず、変異種に大量の銃弾を撃ち込む隊員たちは、振動が来なくなった銃の引き金をしばらく引き続けた。
原型がわからない血濡れのそれは、ようやく動きを止め、生き残った隊員たちの慌てだす声が遠くに聞こえた。
「軍曹! 今、車を回します!」
こちらに駆け寄る部下を手ぶりで追い払う。
「俺はいい……肺もやられてるし、他も多分、ダメだ」
彼らの応急処置ができる範疇を越えている。自分のことは諦めろと、声を絞り出せば、苦しげな表情と共に部下は立ち上がった。
自分の鼓動だけがうるさいと思ったのは、初めてかもしれない。
痛みすら鈍く、息を吸うことすら億劫だった。
だが、それでも胸ポケットに手を伸ばし、触れた箱を取り出した。
「…………ほとんど残ってねぇじゃねぇか」
手の触れたのは、貰ったエンジェルポーションだったらしい。
この際、なんでもいいと箱を開ければ、残っているのは2本だけ。
普段なら小言の一言でも言うところだが、最後に吸える1本があるなら構わない。
この地獄のような光景に怯えながら死ぬのだけはお断りだ。
ひとつ吸えば、やけに響いていた鼓動が静まっていく。
「あぁ……」
紫煙が空に掛かる。
「――――」
掠れる意識の中、遠くに誰かの歌が聞こえた気がした。
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