【番外編・その1】その後の二人

第12話 あと少しだけ

 オリビエ・エバンス伯爵は忙しい。


 かねてより進めてきた線形動物の研究に関しては、論文をまとめて一区切りとするつもりだという。「名残惜しいけど、これであの子たちとの蜜月も終わりかな。今後は事業に集中したい」と澄み切ったウォーター青石・サファイアの瞳で遠くを見つめながら呟いていた。


 ※線形動物……主に回虫・鞭虫等の寄生虫など。


(蜜月を送ってらしたんですね……)


 自宅の談話室にオリビエを迎え入れ、いそいそとお茶をいれていたシルヴィアは感心しながら耳を傾けていた。

 かつて「失恋伯爵」の名をほしいままにし、恋愛強者にして一家言ありそうなイメージであったオリビエだが、実際のところは「女性とお付き合いすらしたことがない」というまっさらな青年である。

 それでいて、それなりに社交してきているせいか、嗜み程度の諧謔かいぎゃくを口にすることはある。「蜜月」などという甘い単語、恋人関係にあるシルヴィアとの間でほのめかされたこともないが、線形動物には惜しみなく使うらしい。


(どれほどこの方と密なひとときを過ごされていたのでしょう。線形動物さんたちがうらやましいです)


「お茶をどうぞ」

「ありがとう! シルヴィアのお茶はとても美味しい。いつも楽しみにして来ているんだ。お菓子も」


 テーブルを挟んで向かいあうソファに腰を下ろし、シルヴィアはオリビエの笑顔に惚れ惚れと見入ってしまった。

 柔らかそうな赤毛に彩られた細面は繊細で見目麗しく、視線に気づいてにこりと微笑まれたりするといまでも顔から火が出そうになる。


「アップルパイもジンジャークッキーもバクラヴァもロクムもたくさんありますから、どうぞ」

「もう……最高。生き返る」

「もっと普段から何か召し上がってください。いつも倒れそうになっていて、心配です」


 今日のオリビエは、大学の帰りに顔を出したは良いが、玄関ホールで倒れかけた。理由は空腹。お茶の前に「何かありあわせでいいので、すぐに用意できるものを」とシルヴィアが厨房に駆け込み、パンやシチューをあるだけ盛って食べさせていたところ。

 ようやくお腹が少し落ち着いた、というので部屋を移してお茶をする運びになった次第。

 いかに空腹でも、がつがつとせず優雅に食べるところは貴族らしいのだが、金銭的には困っていないはずなのに常にお腹をすかせているのは、まったくもって貴族らしくない。

 シルヴィアが控えめにそう言うと、オリビエは、はにかみながら言うのだ。


「シルヴィアの作ったもの以外あまり食べる気がしなくて……」

「そういうわけにもいきませんでしょう。私がお店を始めるまではまだ間があるんです。いつも食べるためには、もう我が家に暮らして頂くしかなくなりますわ」


 言い終えて、お茶を一口。

 視線を感じてちらりと見ると、オリビエが珍しくお菓子に手を伸ばしてもおらず、シルヴィアを真摯な瞳で見つめていた。


「どうなさいました?」

「心配をかけてしまっていることに関しては申し訳ない。子どものようなわがままを言っているのもわかる。ただ本当に、食事の時間を削ってでも用事をすませて君に会いに来ようとすると……」

「私の顔を見た瞬間、『まず食事』になるわけですね」

「抑え込んでいたすべての欲求がいきなり思い出されて、人間に戻ると言うか」


 言い終えて、オリビエはそっと視線を外した。


(まるで私と顔を合わせていないときは、人間ではないかのような口ぶりですが。こういうとき、世の女性はどうするのでしょう。「自分にだけ気を許してくださっている」と喜ぶ場面でしょうか)


 シルヴィアは男性を避けてきた期間が長い上に、一時期同性の友達とも疎遠になっていたせいで、何かと疎い。男女間でのあり得るべき会話など、なかなか思いつかない。うまいことを言わねばと焦れば焦るほど、思考が停止してしまう。

 しまいに、そんな自分と一緒にいてオリビエは楽しいのだろうか、と落ち込んでしまったりもする。


「線形動物か、ミジンコになりたいです……」

「どうして?」

「その方が、あなたにとって有益な話題を提供できる気がして」


 目を瞬いて見返してきたオリビエは、緊張した面持ちで言った。


「シルヴィアがミジンコになったら、俺もミジンコになります」 

「なんのために」

「同じ生き物のほうが結ばれるには都合が良いのではないかと」


 言い終えて、さっと立ち上がり、テーブルを迂回してきてシルヴィアの横に立つ。「隣に座ってもよろしいでしょうか」と言われ、シルヴィアは腰を浮かせて横に移動した。

 オリビエが空いた場所に腰を下ろすと、座面がその分沈み込む。

 近い。

 距離を意識した瞬間に、全身が緊張で強ばる。

 そのシルヴィアの様子を注意深く見つめながら、オリビエが微笑みを浮かべて言った。


「シルヴィアに抱いている思いは、線形動物やミジンコとは比べ物にならないのですが。不慣れな俺の愛の言葉でも、聞いていただけますか?」


(愛……っ。愛……っ!!)


 動悸息切れでうまく返事ができない。


「たぶんシルヴィアが想像している分の千倍は頭の中で試行を繰り返しているんです。あとは言うだけなんですけど、正直自分のような人間が何をどう言っても、思っていることが伝わらない気がして」

「オリビエさまでもそんなに自信が無いことあるんですか」

「あります、普通にあります。でも、俺の気の所為でなければ、シルヴィアもさきほど少し自信を無くしていたでしょう? 二人でいて、自信がなくなるだけの関係なんて良くない。そういうのはここで終わりにしましょう。不格好だとは思いますが、聞いてください」

「はい」


(オリビエさまの愛……「焼き菓子と同じくらい好き」とか「顔を見るとお腹が空く」ですか?)


 緊張しきりで、目を伏せながら様子をうかがうと、膝の上の手に手を重ねられた。乾いていて、シルヴィアより一回り以上大きな骨ばった手。

 思わず顔を上げると、澄んだ瞳に見つめられる。


「店の準備もあってお忙しいとは思いますが、結婚についてもそろそろ進めたいと考えています」

「結婚」

「シルヴィアのことが好きです。呪いをありがたく思ったことはないけれど、あなたとの出会いは最高の形で果たせました。この先も二人で歩んでいきたい」


 目をそらせない。


「私も……同じ考えです。夢みたいですが」

「夢ではないか確かめるために、触れても?」


 頷いて、シルヴィアは目を閉ざした。

 オリビエの手が肩に触れ、唇に唇を重ねられる。


 やがて目を開けると、間近な位置にこの世で一番好きなひとの笑顔。

 片目をつむって、愛しげな口調で言われる。


 通いの恋人でいられる期間はあと少しですが、これからの長い生活の前に、この貴重な時間も楽しみましょう、と。



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