第63話 カルビの影の、その断片1


 足音を立てずにリビングに入ってきたカルビの声は、少し笑っていた。今のリビングの暗がりと静けさが、ふっと和らいだ気がした。


「えぇ。少し考え事をしていました」


 アッシュは振り返りながら答え、立ち上がろうとした。だが、それを「あぁ、座ってろよ」とカルビに手で制された。


「邪魔したなら悪かったな」と謝ってくれた彼女は、照明を絞ったままの薄暗いリビングを横切って、キッチンの方へと歩いていった。


「いえ、考え事なんて言っても、ぼんやりしていただけでしたから」


「……要するに、眠れないのか?」


 いつもとは少し違う声音でカルビは言いながら、食器棚からグラスを取り出していた。


「まぁ、そんな感じです」


 アッシュが曖昧に答えると、すぐに冷蔵器を空ける音がして、それから冷蔵器の隣にある冷凍器から氷を取り出す音がした。続いて、グラスの中に氷が放り込まれる、カランカランという涼しい響きがあった。


「気が合うな、アッシュ」


 グラスに酒を注ぎながら歩いてきたカルビは、アッシュの隣にどっかりと腰を下ろして、顔を覗き込んで来る。彼女が手に持っている酒瓶は琥珀色をしていて、下の方が丸み帯びて膨らむような形をしていた。迫力と高級感がある。高い酒なのかもしれない。


「アタシもだ」


 カルビは唇の端を吊り上げて見せてから、「なんか眠れねぇ」とグラスに口をつける。


 やはり、カルビは下着の上に女性用のシャツを着ただけの恰好だ。艶めかしくも健康的な彼女の脚が、そのシャツから投げ出されている。


 彼女の褐色の肌も、窓から入ってくる月明かりに照らされ、その瑞々しさが強調されていた。


「眠れないから、お酒を飲みに降りてこられたんですか?」


 アッシュが微苦笑と共に尋ねると、カルビは「あぁ。まぁな」とグラスから口を離して、陽気に頷いた。頷いたあとで、またグラスを傾ける。喉を通っていく酒の熱を逃すように、床に座ったカルビは後ろに手をついて、ゆっくりと息を吐きながら天井を仰いだ。


「酒はいいぞ。うざってぇことを考えてるときも酒が入るとな、何となく、どうにかなるんじゃねぇかって気分になる」


 リラックスしているからだろうか。そのカルビの声音は色っぽくて、情熱的で、狂暴そうで、誰に対する気遣いもない。


「お前も飲むか?」


 ずいっとアッシュの方へとお尻を寄せてきたカルビは、空けたグラスに酒を注ぎながら訊いてくる。


「よく眠れるぞ」


 薄く笑みを湛えたカルビは、そのグラスを揺すってみせた。琥珀色の液体が半分ほど注がれたグラスの中で、また氷がカランと軽やかに鳴った。アッシュは普段から酒をほとんど飲まない。


 だがどういうわけか、今は無性に飲んでみたくなった。


「えぇ、ありがとうございます」


 アッシュがそう答えたのが意外だったのか、カルビも「おぉっ」なんて、少しはしゃいだ声をだした。夕食後も彼女は酒を飲んでいたから、まだ酔いが残っているのだろう。月明かりの中にあるカルビの顔は、まだ少し赤く見える。


「じゃあ、僕もグラスを借りてきます」


 アッシュがそう言って立とうとしたら、「洗い物が増えるだろ。これでいいじゃねぇか」と、やけに楽しそうなカルビに、シャツの裾をグイグイと引っ張られて立ち上がれなかった。


「ほら。飲め飲め」


 座り直したアッシュに、グラスをずいっと差し出してきたカルビは無邪気に笑っている。本当に上機嫌な様子だった。寛いだカルビの声が、薄暗いリビングの空気を小さく震わせている。


 さっきまで一人だったアッシュを取り囲んでいた、あの厚みのある静寂が、ゆるやかに解けていくのを感じた。


「えぇと、じゃあ、これで頂きますね」


 アッシはグラスを受け取り、注がれていた酒を口に含んだ。アッシュは酒の名前を知らないし、その種類にも詳しくはない。だが、喉元を通っていく熱さと、その独特の香りを味わうことは出来た。


 床に胡坐をかいたカルビは、膝の上に肘杖をついた姿勢で、アッシュがグラスを空けるのを眺めて居る。


「何だよアッシュ、お前、結構いけるクチじゃねぇか」


 アッシュは彼女が弾んだ声を出すのを聞きながら、アルコールで胸の中がじんわりと火照ってくるのを感じていた。


「御馳走さまでした。美味しかったです」


 アッシュがグラスを返すと、カルビは「だろ~?」と満足そうに頷いた。それから、またすぐにグラス酒を注いで、一口で飲み干した。


「あの……、そんなふうにゴクゴクと飲んで、大丈夫ですか? 頂いたから何となく分かるんですが、それ、結構キツいお酒なんじゃ……」


「大丈夫に決まってるだろ。アタシの家だしな」


 いや、ここってローザさんのお家ですよね……? とアッシュは控えめに指摘すると、眉を下げたカルビが唇を尖らせた。


「おいおいアッシュ。そうやってな、あんまり細かいことばっかり言いやがると、アタシは脱ぐぞ? いいのか?」


「なんで脅し口調なんですか……」


 アッシュが呆れながらツッコむと、目を細めたカルビは「しししっ」と肩を揺らして子供みたいに笑った。アッシュも苦笑で付き合う。そういえば、こんな風にカルビと2人きりで話をすることは、あまり無かったような気がする。


 暗がりのリビングに流れる時間は、アッシュが1人で月を見上げていた時よりも、ゆったりとしたものになっていた。


 だが不意に、カルビが表情を薄めて眉間を絞り、窓の外を見上げた。


 どうしたのだろうと思いカルビの視線の先を追うと、彼女も月を見上げているようだった。少しの沈黙があってから、カルビがまたグラスに酒を注いで飲み干し、すぐにまた半分ほど次いで、アッシュに渡してくれた。


 いただきますと言って、アッシュもグラスを空ける。喉と頬に、アルコールの熱が灯るのを感じた。グラスを返そうとしてカルビの方を見たが、カルビは薄暗がりの中で黙ったまま、夜空を睨むようにして見上げていた。


 何かを考えているふうでもあるし、頭の中で言葉を探している様子でもあり、重要な話題を切り出そうとしている雰囲気だった。


 今のカルビは、アッシュに何かを伝えようと決心しているようであり、そして、その決心そのものが、カルビを追い詰めているふうでもあった。


 アッシュは、カルビが何かを話し出すのを待つべきだと思い、彼女と並んで月を見上げていた。そのうち沈黙に耐えかねたように、ぐしゃぐしゃっと自身の金髪をかき回したカルビは、静かに深呼吸をしてから、アッシュを横目で見た。


「……なぁアッシュ。マジで今更なことかもしれねぇが、ちょっと訊いていいか? いや、確かめたいって言った方がいいのかもしれねぇが」


 笑みを消したカルビは、自分の躊躇を振り払うように、また髪をぐしゃぐしゃっと掻き混ぜた。


「……お前の身体って、ちゃんと酔えるのか?」


 そのカルビの問いかけは、まるで鋭く間合いを詰めてくるようだった。


 妙な含みのない訊き方だったし、カルビの声音も真面目なものだった。ただ、その問いの意図までは掴み切れなかったアッシュは、カルビの顔を数秒だけ見詰めてしまう。


「悪い……、変なこと訊いてるよな。……でもよ、こういう時にしかできない話ってモンもあるだろ。お前の身体のこととか、お前が感じてるモンとかな」


 カルビは頬を掻いて、少しだけ眉を下げた。


 その申し訳なさそうな表情は、この話題がアッシュの過去に触れることを告げていた。アッシュの目の中を覗き込んでくる彼女の琥珀色の瞳は、何かを確かめようとしているようだった。


「こうやって一緒に酒を飲んでも、アタシだけ気分よく酔っぱらって、お前が酔えもしねぇんだったら、こう、何つーか……。今まで……、いや、今日の晩飯の時も、今のこの瞬間もな……、お前に気を遣わせてるんじゃねぇかって、気になってたんだよ」


 言いながらカルビは、バツが悪そうに口をへの字に曲げながら、一瞬だけアッシュから視線を逸らした。だが、すぐにまたアッシュの目を覗き込んでくる。


「ローザやネージュも、エミリアもな、ずっと気にはなってたみたいだけどよ。なかなか、切り出せるモンじゃねぇだろ? こういう話は。こんなことを面と向かって訊くのは、タイミングとか空気っつーか、そういうのも必要だ」


 カルビは言ってから、「まぁ、だから、アレだ、何が言いたいのかっつーとだな」と言葉と視線を彷徨わせながら、また後頭部をガシガシと掻いた。


「アタシ達は、もっとお前のことを知っておくべきだよな、っつー話だ」


 カルビの声は切迫していて、何かを訴えるような必死さがあって、いつもとは違う種類の力が籠っていた。胸が押されたような感覚があって、アッシュは何も言えなくなったが、少なくとも今は、アッシュが何かを喋る番ではなかった。


「お前の身体がギギネリエスに造られたモンだろうと何だろうと、そんなモンは関係ねぇ。アタシ達は、その身体の中に居るのが“お前”だから同行依頼を続けてるし、この家に住むよう声を掛けたんだからな」


 眉間に皺を寄せたカルビは、自分の言葉を大事に扱うように、話す速度を少しだけ落とした。


「……でもよ、“お前”と、その“お前の身体”を完全に切り分けるのは、現実的には無理だろ? “お前”は、“お前の身体”の中にいるんだからな。だから、アレだ……、“お前”が、メシを食っても美味くも感じねぇし、酒を飲んでも酔えねぇのなら、正直に教えてくれ」


 アッシュに視線を戻したカルビの声音は真っ直ぐで、懇願とも懺悔ともつかない色がついていた。


「晩飯の時に、明日は美食街にも行こうって話をアタシ達はしただろ? アレも実はな、お前の反応を探ってた部分もある」


 彼女の話を聴いているうちに、夕食のときのローザ達の賑やかさや、明日は脳裏を過る。


 あの華やいだ空気の裏には、彼女達の深い優しさと、アッシュへの親身な気遣いがあったのだ。ローザ達は、アッシュと同じくらい真剣に、アッシュ自身の存在と向き合おうとしてくれているのだと分かった。


 時間をかけて互いの距離感を修正し、其々に背負っているものや境遇などを話し合えるタイミングを待とうとしてくれていたのだ。


 だが、そんな風に少しずつ親密になっていくことに、カルビはじれったいものを感じていたのかもしれない。


 偶然ではあるが、リビングでアッシュと2人きりになったカルビは独断で、こうして遠慮なく本音をぶつけることを選んだのだ。それは勇気のある行動だと思ったし、そのカルビの勇気は、アッシュのために使われたに違いなかった。


「あぁ、それとな」


 これは強調しておくぞ、という感じで、カルビは真剣な顔でアッシュに向き直った。


「別に、造られたお前の身体が気味悪いとか、お前の過去が悲惨で可哀そうとか、そういうことを今は言いたいんじゃねえし、そんな話をするつもりも、これっぽっちもねぇからな」


 その無遠慮で飾り気のない、ともすれば無思慮とも感じられるような正直過ぎる言い方も、いかにもカルビらしいと思った。その彼女らしさが信頼できることは、もうアッシュは知っている。


「えぇ、……ありがとうございます」


 アッシュがまた微苦笑を返して小さく頷くと、カルビは鼻を鳴らしてから「あと、ついでに言っとくがな」と言葉を継いで、腕を組んだ。


「アタシはな、お前と出会った時から、その身体が普通じゃねぇことぐらいは見抜いてたんだぜ?」


 得意げなカルビは胸を反らしてみせる。彼女の言葉遣いは少し乱暴だが、声音そのものには柔らかさがあった。


「……そういえば、トロールをのシャーマンを倒したあとで、僕の腕や背中の傷を癒してくれたのは、カルビさんでしたね」


 あのとき、破れたボディスーツの隙間からは、アッシュの身体に刻まれた紋様が覗いていた筈だ。それを気付いていてもカルビは何も言わずに、まずはアッシュの傷を癒すことに専念してくれていたのを思い出す。


 そんなに昔のことではないはずなのに、彼女達の出会いを懐かしく思う。アッシュは頷いてから、手にしていたグラスを返した。


 アッシュの手からカルビの手へとグラスが渡るとき、その中で溶け始めた氷が動いて、またカランと鳴った。水気のある響きは、リビングの薄暗さと月明かりに溶け込んでいく。


「僕は……、ちゃんと酔うこともできますし、何かを味わうことも、夢を見ることもできます。この身体の機能自体は、ギギネリエスの言った通り……、たぶん、普通の人と変わらないと思います」


 アッシュは、できるだけ明るい口調でカルビに話したかった。カルビはしばらくの間、ドラゴンが餌食を見るような目でアッシュを睨んでいた。アッシュが何かを取り繕って誤魔化す気配があれば、即座に飛び掛かってくるような迫力だ。


 だが、微苦笑のままアッシュは、自分の言葉は嘘ではないと証明する思いで、カルビから目を逸らさなかった。アッシュとカルビが黙り込み、リビングには遠慮深い静けさが拡がっていく。


 暫くしてからだった。

 アッシュの言葉を信じてくれたのだろう。


「……ん。そうか。なら、いいんだ」


 カルビは安堵したように微かに鼻を鳴らしてから、またグラスに酒を注いだ。それを飲み干し、また注いで、「飲めよ」とアッシュへと手渡してくれる。水滴に濡れたカルビの手が、アッシュの手と触れ合って、すぐに離れた。


「なぁ。ローザ達にも、このことを教えてやってもいいだろ?」


「えぇ。……すみません。気を遣って頂いて」


「こんなモン、気遣いのうちに入るかよ」


 またカルビが膝の上に肘杖をついて、笑ったままで鼻を鳴らした。


「まぁしかし……、もしもお前が、実は酒にも酔えねぇ、メシを食っても味も分からねぇって答えてたら、アタシは金輪際、お前の前では酒もメシも口にしないつもりだったぜ」


「それは申し訳ないですよ……」


「なら、お前がそんな居心地の悪さを感じないで済むよう、お前の身体の感覚を取り戻す方法を探そうって、アタシはローザ達にも提案しただろうな」


 くつくつと笑うカルビは、酔いが進むに任せて、今までの深刻な空気を冗談に紛らわせようとしている。そんな風に見えた。それは不真面目さではなく、アッシュに気を遣わせないための、カルビなりの気遣いに違いなかった。その不器用な優しさが、またカルビらしいと思った。


「美味いモンとか楽しいこととかを、もっとお前と共有したいからよ」


 カルビの“お前”という言葉の響きは、アッシュの身体を素通りして、アッシュの内部に遠慮なく飛び込んでくる。酒の熱さとは違うものが、グラスを空けたアッシュの胸を温めてくれる。


 そこにアルコールの熱が広がり、アッシュの中の感情の水位が、みるみる上がってくる感覚があった。鼻の奥がツンとしてくる。だが、それを今は堪える。

 

 ……彼女達と一緒に居て、僕は泣き虫になってしまった。アッシュは自分の涙を、目の奥に押し戻すつもりで、きつく瞬きをした。

 

「……優しいんですね。カルビさんは」


 グラスを返しながら、アッシュは眉を下げる。「だろ~?」とカルビは機嫌良さそうに言いながら、受け取ったグラスに酒を注いで、唇の端を吊り上げた。


「カルビお姉ちゃんはな、優しいんだよ。おまけに美人で、セクシーだろ?」


「ちょっと言葉遣いが乱暴で、たまに怖いですけどね」


「お、なんだ、ネージュの悪口か?」


 惚けたような口振りのカルビが、アッシュの隣で小さく笑い声を立てた。


 グビグビと喉を鳴らしたカルビが、またグラスを空ける。高級な酒を一気飲みするのは品が無いというのは聞いたこともあるが、あれがカルビの味わい方なのだろう。


 カルビはすぐに酒を半分ほどグラスに注いで、またアッシュに渡してくれる。氷が溶けてきて、小さくなってきている所為か。受け取ったグラスに口をつけると、酒の味が変わった気がした。


「……僕も、カルビさんに訊いてみたいことがあります」


「ん? カルビお姉ちゃんのスリーサイズか?」


「違いますよ……」


「じゃあ、何だ? アタシのパンツの色か?」


 胡坐をかいているカルビが言いながら、シャツの裾を無造作に捲り上げた。


 やけに小さくて薄い赤色の下着と一緒に、すらりとしたカルビの太腿が丸出しになる。いや、それどころか、しなやかな彼女の腹筋や脇腹の筋肉までが丸見えだ。その大胆さは、美しく鍛えてある下半身を見せつけるかのようだった。


 アッシュは「違いますよ!?」と言って、慌てて顔を逸らした。そのアッシュの慌てぶりが楽しかったのか、カルビが喉を鳴らして笑う。


「おいおい、こんな夜更けに大声を出すのは感心しねぇぞ?」


「誰の所為なんですかね……」


 思わずアッシュは半目になってしまったが、気を取り直すようにしてグラスの中の酒を飲み干した。アッシュ自身も酔ってきている自覚はあったが、ワケが分からなくなるほどではなかった。まだ落ち着いている。


「僕が訊きたいのは、カルビさん自身のことです」


 だから、冗談を言い合う今の雰囲気に背中を押されなければ、そう言い切ることはできなかっただろうと思った。


「カルビさんが生きてきた時間とか、どうして冒険者をしているのかとか……。勿論、カルビさんが話したくなかったり、話す必要がないと思うのでしたら、無理に訊きたいとは思いません。……でも、カルビさんのことを知りたいというのは、僕の本心です」


 こんな風に、カルビの内面や過去にも触れる話題を切り出せたのは、やはり2人きりで酒を飲んでいるからこそだと実感した。


「ふぅぅん……? んんふふふぅ~~ん?」


 にんまりと嬉しそうな笑みを浮かべたカルビが、酒瓶を手にしたままでアッシュと肩を組んでくる。酒のせいで体温があがっているのか、アッシュに絡みついてきたカルビの身体は熱いくらいだった。


「何だよアッシュぅ~、カルビお姉ちゃんに興味津々か? もしかして、アタシのことを口説こうとしてんのかぁ~?」


 肩を組んだカルビが、そのまま頬ずりでもしてきそうな程に顔を近づけてくるので、アッシュは「いえ、違いますよ?」と即答しておいた。


「ンだよ、つまんねぇ……」


 しゅんとなったカルビは唇を尖らせて、不満そうに鼻を鳴らした。そのカルビの手の中で、グラスの氷が転がる。水気が増したカランカランという音は、さっきまでよりも軽やかになっている気がした。


 アッシュは肩を組んでくるカルビの手から酒瓶の方を受け取る。それから、「まだ飲みますか?」と瓶の口を傾けて、酌をするようなポーズを作った。


「……悪いな。注いでくれ。これで最後にする」


 アッシュがグラスに酒を注ぐと、カルビは肩を組んで来ていた腕を解いた。


「アタシも、色々と訊いちまったしな」呟くように言ってから、グラスの中身を半分だけ飲んだ。それから少し遠い目になって、グラスの中の氷に視線を落とした。


「アタシのことを真剣に訊かれて、それで答えねぇってのは、ちょっと不公平だよな」


 そこまで言って顔を上げたカルビが、ニッと笑う。


「アタシの話をすると、7時間ぐらいかかるぞ? 笑いあり涙ありの大スペクタクルだ」


「ぜひ、聴かせて下さい」


 アッシュが姿勢を正して頷くと、カルビが困った顔になった。


「おいアッシュ、真面目なのはいいがな、こういう時はツッコめよ。7時間もかかるわけねぇだろ。そもそも、そんなに細かく話すことなんざ、アタシの人生には無ぇよ」


 ……いや、正確には、アタシがお前らに出会う前はな。

 そう付け足して肩を竦めたカルビは、月を睨むように見上げた。


 そしてすぐに、またグラスの中に視線を注いだ。溶けだして小さくなっていく氷の表面には月明かりが滲んでいて、琥珀色に揺れる酒の中に反射している。


「まぁ、……覚えてることだけ、テキトーに話すぜ?」


 グラスを見詰めたまま、記憶を辿るような目にあったカルビは、これから水の中に深く潜っていく準備をするように、ゆっくりと呼吸をした。


 それから、自分の人生を振り返るような数秒の間を置いた。アッシュは、その沈黙を見守りながら、カルビが語り始めるのを待った。


「ガキの頃の話だけどな。アタシは、もともと神官だったんだよ。……いや、神官モドキっつった方がいいな」


 話し始めたカルビの声音には、懐かしさと忌々しさが入り混じっていた。


「ちょっと昔の大陸になら、どこにでもあるような寒村つーか、貧しい集落の、神殿とも呼べねぇようなボロっちい小屋でな。治癒魔法を使って、同じ集落の人間の、傷やら病気やらを治してたんだよ。アタシは」


 自嘲気味に言うカルビは、アッシュの方を見ようとしない。その話す速さは、普段のカルビの者と比べて、明らかにゆっくりとしたものだった。自身のことを誰かに話すことに、カルビは慣れていないのだろうと思った。


 そのぎこちなさを晒してくれることは、カルビがアッシュのことを信頼してくれている証なのだと感じた。アッシュは相槌を打つかわりに、じっとカルビを見詰めて話を聴いた。


「アタシの他にも神官モドキは居た。……つっても、アタシを含めた全員が、王都から認められた正式な神官じゃないからな」


 ついでのように言いながら笑って、カルビは唇を濡らすようにグラスを少し傾けた。


「ただ治癒魔法を使う素質があるってだけで、集落の年寄りどもから治癒魔法の基礎を教わったに過ぎねぇ、ド素人の集まりだった」


 また遠い目つきになったカルビの声は、そこで少しだけ低くなった。彼女の視線も床に落ちていく。


「そんな、ちっぽけな寒村とも言えないような、ちっぽけな集落だったがな……。ありきたりな悲劇っつーのは、アタシ達にも用意されてたワケだ」


 月明かりによって、薄ぼんやりと滲んだ自らの影。それを見下ろすカルビが、滔々と語り始める。





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今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!









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