深海の囚人

古村あきら

第1話

 淡いピンク色をした婚姻届の用紙には薔薇ばらの花が描かれていた。幼稚園の、ばら組さんの飾りを思い出す。夫になる人「豊川彰人とよかわあきと」妻になる人「高橋志乃たかはしゆきの」。読み方の欄には平仮名で「とよかわ あきと」「たかはし ゆきの」。幼稚園のとき結婚の約束をした。二十年後に再開するなんて思いも寄らなかった。

 志乃が大学を一年休学した為、会社に入った時に先輩社員として現れたのが同い年の彰人だった。「ゆきのちゃん?」そう呼びかけられるまで気付かなかった。幼い初恋の人は大人になっていた。

 役所に婚姻届を提出して外に出ると、六時前だというのに外は薄暗くなっていた。冬の日が暮れるのは早い。結婚式は来週だが、今夜は職場の仲間が前祝として小さなパーティーを開いてくれる。開始は七時からなので、電車には乗らずに歩いて向かうことにした。暗くなるにつれて気温が下がり、時折吹く風が頬を刺す。どちらからともなくつないだ手は暖かい。あきとくん、ゆきのちゃん、お互いを呼び合う名前は平仮名のままだ。志乃ゆきのという字は普通に読むと「しの」と読めてしまうため、家族も友人も皆「しーちゃん」と呼ぶ。「ゆきの」と呼ぶのは彰人だけ。特別な合言葉のようだ。


 

 幹事の岸本太郎は志乃の同期で、彰人のグループの後輩である。実は重役の息子なのだが、気のいい弄られキャラで皆に愛されている。彼の呼びかけで二十人ほどが集まってくれたらしい。指定された小さなバーに入ると、テーブルの横の壁には折り紙の飾りと「結婚おめでとう」の文字。彰人と志乃は拍手で迎え入れられた。

 そこは素敵な空間だった。船室をしたものだろうか、円形の窓が外の暗闇を映し、色付きフィルムで覆われた天井のライトが店内に青い光を落としている。

 海の中にいるみたいだ。

 そう思った途端、志乃は胸が締め付けられるような感覚を味わった。寂しそうな微笑と、愛おし気に呼びかける声。かつて、もう一人、「しーちゃん」ではなくユキノと呼ぶ人がいた。こんな風に青い光が降り注ぐ深い海の底で。

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