rising sun
「ねぇ」と私は浴室のほうを指さしながら、もう一度そこへ行こうとした。
「洗濯機、借りてもいい? これ、明日も着るから洗いたくて。洗濯機、ある? それと、今晩はここに泊めてもらいたいんだけど。部屋の隅っこでいいから」
「え?」
彼はそこで初めて動揺した。
もちろん、洗濯機を借りたいほうではなくて、ここに泊めてほしいというお願いのほうに対してだろう。口を小さくぽかんと開けて、目をしばたたく表情は、人間味があると言うか、殺し屋なのにそういう表情もできるんだなぁって、妙に感心してしまった。
「だって、うち、鍵閉められちゃってるから入れないもん。真冬に廊下で寝てたら、それこそ風邪引いちゃう」
それを聞くと彼は、今度はわかりやすくため息をついた。
「……洗濯機はないよ。いつも近所のコインランドリーで済ませているんだ」
「やっぱりそっか」
最小限の物しか持たない彼のことだから、その答えは予想がついていたけど、シャワーを借りた時には、洗濯機の有無にまで気が回らなかったのだ。
そうなると、着替えはどうしようか。明日、パパがいつも通り仕事に行ってくれれば、その隙に家に戻って別の服に着替えられるし、洗濯もできるけど、そうでなければ着る服に困ってしまう。借りたスウェットだって洗って返したいし、彼の分の汚れ物があるなら、早速一緒に片づけてしまいたい。
彼は何も言わずに立ち上がり、寝室へ向かった。間取りは我が家と同じだから、どの部屋が何の部屋なのかはすぐわかる。しばらくすると、毛布を抱えて戻ってきた。
「そのチェアを使うといいよ。暖房はかけたままでいてあげるから、毛布一枚でも寒くないでしょう」
彼は自分が座っていた、年季の入ったリラクシングチェアを指さした。つまり、この部屋に泊まっていいってことだ。
私は汚れ物をチェアの上に置いて、毛布を受け取った。
「ありがとう。でも、これを私が借りたら、あなたは大丈夫?」
彼が余分に毛布を持っているとは思えず、これを私が独り占めしたことで、彼に風邪を引かれるのも嫌だった。
「大丈夫。布団もあるし、コートを被ったっていい」
「そうなんだ。なら、よかった」
着替えのことは解決していないし、彼についてまだ訊きたいことはある。でも、今夜はもう遅く、彼は仕事した直後で疲れているはずだ。今日のところはとりあえず寝よう。
ふと、彼が小さく笑った。
「なに?」
「いや……ついさっきまで、泣きそうな顔していたのになって」
「ああ。切り替えは早いほうかも。まともじゃないんだ、私」
彼は小首をかしげて私を見る。
「何でもない。気にしないで……え?」
その時、彼の足元に、黒くて丸いものがあることに気がついた。黒猫だ。寝室にいたのかもしれない。
「あなたの猫? え、ここって、ペット禁止じゃなかった?」
猫は彼の足元にまとわりつくようにしながら、やがて床に腰を下ろした。暢気にあくびする。毛並みがツヤツヤで、金色の瞳が大きい。首輪はつけていない。
触れてみたいけれど、怖がって逃げてしまうかもしれない。
猫のしぐさを彼は目を細めて眺めながら、人差し指を唇に当てた。
「大家さんから、特別に許可を貰っている。他の住人には秘密だから、黙っていてほしい」
「特別に?」
毛布を服の上に重ならないように置くと、私はしゃがみ込んだ。猫の小さな鼻先に人差し指を向けてみる。猫は怖がることもなく、すんすんとにおいを嗅いできた。
「そう。鳴かないんだ、この子は」
「鳴かない?」
「正確には、鳴けない。暴力を振るわれていたんだ。声帯に傷がついたらしい」
「暴力……」
そうか。だから、隣の部屋なのに、猫がいることにまったく気がつかなかったんだ。
「部屋から出さないし、鳴き声で他の住人に迷惑をかけることもないから」
「そうなんだ……」
猫を見た。
小さな身体。腕も、足も、ほわほわと柔らかく、とても華奢だ。こちらを見上げる瞳は澄んでいて、邪気もなく光っている。
ただ生きているだけで、ただ息をしているだけで、それだけなのに、虐げられる命がある。
悪いことなんかしていない。それでもひどい目に遭わされるのは、私たちが前世とか、もっとはるか昔に、それを甘んじて受けるしかない、何か大きな罪を犯してしまったということなのだろうか。
もし本当にそうなのだとしたら、この時代のこの世界は、とても生きにくいね。私たちには。
「……名前、何て言うの?」
私はそう訊いてから、猫の狭い額にそっと指を這わせてみた。滑らかな毛並みの黒猫は目をつむり、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「……レイン。雨、の意味」
答えた彼を下から見上げて、私は笑みを浮かべる。その顎の下を指さした。
「こっちは?」
彼は一瞬面食らった顔をしたけれど、でも、すぐに困ったように、少しだけ悲しそうに、柔らかく目尻を垂らした。
「……
その名前は、とても彼に似合っていると思った。たぶん彼はその名前の通り、暖かい、柔らかい陽射しの朝に産まれたんじゃないだろうか。
彼のことは怖くない。
私の神経がおかしくなっているせいだっていい。むしろ、おかしくなっているせいなのなら、とても幸運だとさえ思った。
「私、
遠くで、パトカーのサイレンが鳴っていた。
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