再会

 セルジュと別れた後、クリスティーヌは休憩がてら端の方で小さなサンドイッチを食べていた。王族の専属シェフが用意したものだ。

(素材を活かした繊細な味だわ。流石は王族の方々が口にするものね)

 クリスティーヌは満足気に舌鼓を打つ。少しだけリラックスモードに入っていた。しかし、近付いて来る人物に気が付き、再び気を引き締める。

 クリスティーヌはその人物を見て、淑女の笑みのままで内心ハッとする。

 アッシュブロンドの髪、ヘーゼルの目、そして誰もがうっとりしてしまうような甘いマスク。黒の燕尾服にエメラルドのような緑のタイを着けている。背丈はクリスティーヌよりも頭1つ分高い。

(ユーグ様だわ)

 昔、港街で悪漢に絡まれていたユーグ。クリスティーヌはその時、彼を助けて少しだけ会話をした。

 あれから2年が経過した。何の音沙汰もなかったが、クリスティーヌは近付いて来る人物がユーグだとすぐに気が付いた。

 心臓が、トクンと高鳴る。

(だけど、2年も前のことよ。ユーグ様はわたくしのことを忘れている可能性だってあるわ)

 クリスティーヌは淑女の笑みを絶やさず、カーテシーをした。

「お久し振りだね、クリスティーヌ嬢。私のことを覚えているかな?」

 頭の上から聞こえる優しげな声。クリスティーヌはその言葉を聞き、嬉しさが込み上げてくる。

「ええ、2年振りでございます。改めまして、クリスティーヌ・ジゼル・ド・タルドと申します。ユーグ様にまたお会い出来て光栄でございます」

 クリスティーヌはゆっくりと優雅に頭を上げた。

「こちらこそ、私のことを覚えていてくれて嬉しいよ。改めて、ユーグ・シルヴァン・ド・ヌムールだ」

 ユーグは優雅な笑みを浮かべた。その笑みに、どれだけの令嬢が虜になったであろうか。

「クリスティーヌ嬢、私は会場に入ってすぐに君に気付いていたんだよ」

「あら、ご冗談だとしても、嬉しいお言葉で恐縮でございますわ」

 クリスティーヌは淑女の笑みのまま、ふふっと笑う。

「冗談じゃないさ。クリスティーヌ嬢、君は2年前も所作が美しかったね。でも今はもっと洗練されて、優雅さが増しているよ」

「そう仰っていただけて光栄でございます」

 クリスティーヌは相変わらず品のある淑女の笑みだ。

「ところで、君をエスコートしていたのは……ひょっとしてご婚約者かな?」

 ユーグは優雅な笑みを浮かべているが、ほんの少し声が上ずっている。

「いいえ。わたくしにはまだ婚約者はおりませんわ。わたくしをエスコートしたのは2番目の兄、ベランジェでございます。兄は母親似、わたくしは父親似なので、顔はあまり似ておりませんが」

「なるほど、クリスティーヌ嬢の兄君だったのか。確かに、髪色や髪質、目の色はクリスティーヌ嬢と同じだったね」

 クリスティーヌの答えを聞き、ユーグはホッとしていた。声もいつものトーンだ。

「ええ。現在、王都の騎士団に所属しております。ちなみにではございますが、1番上の兄でタルド家次期当主のイポリートとわたくしは似ているとよく言われますわ」

「それは是非お会いしてみたいね」

「では、社交シーズン中にサロンや夜会などがございましたら紹介いたしますわ」

「楽しみにしているよ」

 ユーグは興味深そうにクスッと笑う。そして、ヘーゼルの目が真剣な眼差しになる。

「クリスティーヌ嬢、私と1曲踊っていただけますか?」

 とろけるような笑みで、優雅に手を差し出すユーグ。

 クリスティーヌは思わず手を取ってしまいそうになったが……。

「とても嬉しく光栄ではございますが、わたくしでは力不足でございますので、お断りいたします。公爵家の次期当主であるユーグ様が、わたくしのようなしがない男爵令嬢と長時間お過ごしになられますと、訝しまれますわ。それに、ユーグ様のご婚約者様にもあらぬ疑いを持たれてしまいますので」

 クリスティーヌは淑女の笑みで断った。

 婚約者同士でもない限り、下級貴族の男爵家や子爵家の者が、公爵家や侯爵家の者と踊ると悪目立ちしてしまう。過去にはそのせいで他の上級貴族から嫉妬されたり嫌がらせを受けた者もいる。嫌がらせの範囲が自分だけなら何とかなるが、家や領民にまで及ぶ場合もある。故に、下級貴族は伯爵家よりも上の家格の者からのダンスの誘いは断るのが基本である。下級貴族が共に踊れる上級貴族は伯爵家までだ。

 クリスティーヌはタルド家や領民を守る為に、ユーグからの誘いを断ったのだ。

「私に婚約者はいないさ」

 ユーグは一瞬悲しそうな表情になったが、またすぐに優雅な笑みに戻る。

「それに、私はまだ17歳だ。この歳で婚約者がいるのは大体4割程度だね」

「左様でございましたか」

 クリスティーヌは相変わらず淑女の笑みだが、内心ホッとしていた。

(ユーグ様にまだご婚約者様がいらっしゃらないことに、どうしてホッとしてしまったのかしら?)

 クリスティーヌは自分の感情に戸惑っていた。

「君と踊れないのは非常に残念だよ。でも、ヌムール領に薬学を学びには来てくれるよね?」

「ええ。お許しいただけるのなら、是非学びに参ります」

「よかった。社交シーズンが終わった後、私の名前でヌムール家への招待状を送るよ」

 ユーグは破顔する。クリスティーヌはその表情に惹きつけられていた。

 しかし、誰かが近付いて来ることに気が付き、クリスティーヌは体をその方向に向けた。

 アッシュブロンドのまとめられた長い髪に、ヘーゼルの目の令嬢だ。

 クリスティーヌはカーテシーをする。

「あ……その……」

 令嬢は糸よりも細い声で、少し戸惑った様子だ。

「彼女はタルド男爵家のご令嬢だよ。君から声を掛けないと」

 ユーグは苦笑し、令嬢にそう言う。

「はい……」

 令嬢は少しオドオドした様子で頷いた。

「あの……初めまして」

「お初にお目にかかります。クリスティーヌ・ジゼル・ド・タルドと申します。タルド男爵家の次女でございます」

 クリスティーヌはゆっくりと優雅に頭を上げた。

「……マリアンヌ・キトリー・ド・ヌムールと申します」

 令嬢、マリアンヌは少し声が震えていた。

「クリスティーヌ嬢、マリアンヌは私の妹なんだ。彼女も今年成人デビュタントでね」

「左様でございましたか。確かに、お2人共お顔が似ていらっしゃいますね」

 クリスティーヌはユーグとマリアンヌの顔を見比べ、ふふっと品よく笑う。

 ユーグの妹ということもあり、マリアンヌも美形だ。

 マリアンヌはカアッと顔を赤くして俯く。

「申し訳ございません。マリアンヌ様、何かお気に触れるようなことをいたしましたでしょうか?」

 クリスティーヌはマリアンヌの表情を見て青ざめた。

「い、いえ。そういうわけではございませんわ」

 マリアンヌは声が小さかったが、少し強めに否定した。

「……兄は、身内贔屓で見ても容姿が優れております。ですので、クリスティーヌ様に兄とわたくしが似ていると仰っていただけて……社交辞令だとしても、嬉しく存じます」

 マリアンヌの口角が微かに上がった。

(笑ってくださったわ)

 クリスティーヌはマリアンヌの表情を見て、ホッとして嬉しくなった。

「クリスティーヌ嬢、もう分かるとは思うけど、マリアンヌは人見知りなんだ」

 ユーグは苦笑した。

「お兄様、こんなに人が大勢いらして……緊張するのですももの」

 マリアンヌはムッとした表情になり、小声でユーグに反論した。

「確かに、大勢の方々がいらしておりますわね。わたくしも緊張しておりますわ」

 クリスティーヌはマリアンヌに優しげな笑みを向ける。

「クリスティーヌ様もでございますか?」

 マリアンヌはクリスティーヌを見て目をパチパチと瞬きする。

「ええ。立ち居振る舞いなどを失敗してしまったらと思うと、居ても立っても居られませんわ」

 クリスティーヌはふふっと笑う。

「全くそのようには見えません。クリスティーヌ様の所作は完璧でございます。最初、クリスティーヌ様が男爵令嬢と知り、とても驚きました。あ……決して身分を馬鹿にしているわけではございませんよ」

 マリアンヌは最後、慌て気味だった。それでも公爵令嬢らしい所作だ。

「マリアンヌ様、勿体ないお言葉、恐縮でございます。良き家庭教師に恵まれ、わたくしは幸運でございます」

 クリスティーヌは微笑んだ。いつもの品のある笑みだが、エメラルドの目の輝きから嬉しい様子が分かる。

 ユーグの視線はクリスティーヌに釘付けになっていた。

 クリスティーヌはユーグからの視線に気付く。

「ユーグ様、どうかなさいましたか?」

「ああ、いや、何でもないよ」

 ユーグはハッとし、また優雅な笑み浮かべる。

「クリスティーヌ嬢には、マリアンヌと仲のいい友人になってもらえたらと思っているよ。貴族としての建前ではなく、お互い本音で話せる友人にね」

「本音で話せる友人……」

 クリスティーヌは黙って考え込む。

(今まで考えたことがなかったわ。今までタルド家や領地のことだけを考えていたから……)

「クリスティーヌ嬢?」

 ユーグは心配そうにクリスティーヌを見つめる。

「その、本音で話せる友人というものを、今まで考えたことがございませんでした。ですので、それがどういうものなのかあまり想像が出来なくて……。それに、わたくしのような者がマリアンヌ様の友人だなんて、畏れ多いことでございます」

 クリスティーヌは困ったように微笑んだ。

「私わたくしは、クリスティーヌ様とお友達になりたいと存じます。今の言葉から、クリスティーヌ様はとても真面目な方だとお見受けいたしました。わたくしは、クリスティーヌ様ともっとお話ししたいですわ」

 マリアンヌは真っ直ぐクリスティーヌを見ていた。

「マリアンヌ様」

 クリスティーヌもマリアンヌを見つめる。マリアンヌは少し不安げにクリスティーヌを見ている。差し出された手は、少し震えていた。クリスティーヌはマリアンヌの震える手をそっと握る。

「勿体ないお言葉、恐縮でございます。わたくしは今日社交界デビューしたばかりで、同世代の方とお話ししたことがございません。ですので、友人というものはまだよく分かりません。ただ、わたくしはマリアンヌ様のことをもっとよく知りたいと存じました」

 これはクリスティーヌの嘘偽りのない言葉だ。エメラルドの目は真っ直ぐマリアンヌを見ている。

 マリアンヌはパアッと明るい笑みになる。

「嬉しく存じます。クリスティーヌ様、どうぞよろしくお願いします」

 マリアンヌの手はもう震えていなかった。

 それから、3人で少し話をした。しかし、マリアンヌはこれまでの極度の緊張による疲れで一旦休憩室へ行くことになった。クリスティーヌとユーグはマリアンヌに付き添い休憩室まで行こうとするが、その途中でマリアンヌの護衛が来たので会場に戻ることになった。

「マリアンヌは、昔はよく人前で笑う子だったんだよ。だけど、10歳の時にある令嬢からきつい言葉で趣味を馬鹿にされてショックを受けてしまってね。それ以来、家族の前以外では笑わず無口になってしまったんだ。人見知りは元々なんだけどね」

「左様でございましたか」

 会場に戻る途中、2人は会話をしていた。

 丁度バルコニーに差し掛かったところだ。

「だけど、今日クリスティーヌ嬢と話していたマリアンヌはちゃんと笑っていた。だから安心したんだよ。本当にありがとう、クリスティーヌ嬢」

 ユーグはとろけるような甘い笑みを向けた。

 クリスティーヌの心臓がトクンと跳ねる。

「そんな、恐縮でございます」

 クリスティーヌはユーグを見つめて微笑んだ。バルコニーから見える満月の光により、エメラルドの目はキラキラとしている。

 ユーグはクリスティーヌをじっと見つめる。

 ヘーゼルの目は真剣そうに見えた。

「クリスティーヌ嬢、2年前はまだ子供らしいあどけなさや可愛らしさがあった。でも今の君は……とても綺麗だ。そのエメラルドみたいな目も、何もかも」

 クリスティーヌの心臓が更に跳ねる。

「……ユーグ様はご冗談がお上手ですこと」

 一瞬戸惑ったが、クリスティーヌはすぐに淑女の笑みを浮かべる。

「冗談ではないよ」

 ユーグはとろけるような甘い笑みだが、真剣さがうかがえる。

 月の光に照らされながら、2人は見つめ合っていた。

(ユーグ様は……何故そのようなことを仰るの?心臓に悪いわ。だけど、思い上がっては駄目よ。フェリパ様のように破滅の道を辿ってしまうわ)

 クリスティーヌはニサップ王国の婚約破棄事件の顛末を思い出した。

「ユーグ様、早く会場に戻りましょう。わたくし、他の方々ともお話をしたいのでございます」

 クリスティーヌは品のある淑女の笑みを浮かべた。

「そっか。私としては、クリスティーヌ嬢ともっと話をしたかったけど、仕方がないね」

 ユーグは残念そうに微笑んだ。

 こうして、2人は会場に戻る。

 その後、クリスティーヌは他の貴族令息や令嬢と話をした。しかし、ユーグのことが頭から離れなかった。

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