28・ハバネラ

 そう……なんとぼくは、とっくに出演講師が決められていたはずの講師演奏会に飛び入りで演奏することになってしまったのだ。知らぬ間に、それも、ヴァイオリン講師のぼくがピアノで。

 エリーズ嬢が帰国なさった翌々日のこと、CMV理事長からぼくの元に次のような入電があった。

『やあやあつくも君、見させてもらったよお、例のライブ配信! さすがピエールの愛弟子は伊達じゃないねえ。うーん、やっぱり来年度からピアノ科に移ってもらった方がいいのかなあ? 僕個人としては白君の繊細かつエレガントなヴァイオリンが大好きなんだけど……って、あー、今のは無し! あはは! でね、そうそう、昨日マルクの息子が僕のとこに来てさ、講師演奏会で一曲演ってくれるんだって? 僕のオファーにはけんもほろろだったのに、ちょっと傷ついちゃったなあ。どうしてもピアノだって言うしさあ。まあそこはいいや! もちろん手はずはしっかり整えといたから、当日はよろしくね! いやあ、白君の演奏をホールで聴くのは初めてだから、すっごく楽しみだなあ』

 ぼくは言ってやりたかった。そういい加減にぼくのようなコネ講師を担ぎ上げようとするから、学生から冗談でも枕などと噂されるのだ。覚えてろよ、誰かに訊かれたって、まともに否定してやらないからな!


 ともあれ、アンリはぼくの目の前にどうやっても避けられない底なしの落とし穴を仕掛けてくれたわけだ。

 飛び込んだらどうなる? 今からなら引き返せるのだろうか?

 盛大なため息とともに鍵盤の上に突っ伏した。獰猛な魔物の呻き声のような、聞くに堪えない不協和音がぼくの心境とシンクロする。今、研究室にはぼく一人。入れ替わりで出ていったアンリは何も言い置かなかったが、講義でも聴きに行ったか、いつものチョコレートの買い出しだろう。

 がちゃりとドアレバーが捻られる音がしたのは、不協和音が止んで少し経った頃だった。

「ああ……都さん。いらっしゃい」

 むくりと顔を上げたぼくはいつも通りの笑顔を向けたつもりだったが、そろそろと入ってきた彼女の表情はぼく以上に冴えない。

「……都さん?」

「こ……こんにちは……」

 ぼくはピアノ椅子から立ち上がって、やはりどこか浮かない様子の彼女を出迎えた。

 都さんがここに来るのは今日が最後だ。今後は西岡教授指導の元、国際コンクールに向けての準備に励むことが決まっている。エリーズ嬢が熱望した通り、二人は同年代のライバル同士になるのだ。

「課題のサン=サーンスはどうでしたか?」ぼくは彼女の様子が気になりつつも、いつもの調子で訊ねた。

「気に入りました……とても……」

「それは良かった。都さんにぴったりの曲だと思っていたので。課題と言いましたが、ぼくが最後にあなたとこの曲をしたかっただけ、だったりして……役得ってやつですかね?」

 都さんに笑ってもらおうと冗談めかして言ったつもりだったが、どうやら真に受けてしまったらしく、彼女は顔を赤らめたまま、反応に困っているようだった。まあ、冗談といっても二割ほどで残りは本気だ。ぼくはどうしても都さんのハバネラが聴きたかったし、伴奏者として彼女の音楽の一部になれるなら、いちピアノ弾きとして本望だと思っていた。

 最初は机に譜面を広げて生徒の演奏をじっくり聴かせてもらうのが通例だが、今日だけは特別だ。ピアノ椅子にすとんと腰を落とし「準備は良いですか?」と訊く。半開きだが屋根はすでに開かれている。

「あの、いきなり……ですか?」いっそう困惑する都さんにぼくは返した。

「これが最後ですから、思うがまま、好きに演奏しましょう。指導者と生徒としてではなく、奏者と奏者として。この場で形にするのは難しいかもしれませんが、時間の許す限り……ね?」


 サン=サーンス『ハバネラ 作品八三』穏やかで、優しくて、暖かい。しかし赤々と燃える焚き火がときに爆ぜるように、弾ける熱が垣間見える。作曲者であるサン=サーンスはヴァイオリニストの友人とキューバに旅行した際、滞在したホテルの暖炉にこの曲の着想を得たらしい。

 ぼくのミューズは実に彼女らしいハバネラを披露してくれた。出だしももちろん素晴らしく、ぼくが彼女に教えられることは本当にもうないのだなと改めて実感を得ながら、それはそれは心地の良い時間を過ごした。レッスンの時間が終わる頃になると、人前で披露しても恥ずかしくない出来になっていた――と、個人的には思えたのだが、どうだろう。こんなときに限ってアンリがいないのが悔やまれる。

「先生、短い間でしたが、ありがとうございました」

「お礼を言わなければならないのはぼくの方です。至らない点も多々あったかと思いますが、都さんと音楽を学べたことは、なんだか申し訳なく思ってしまうくらい、ぼくにとっては良いこと尽くしでした。本当に、ありがとうございました」

 ぼくが頭を下げると、都さんは黙りこくり、握り込んだ拳を真っ白にした。彼女も少しくらいは名残惜しく思ってくれているのだろうか。ぼくはつい、ふわりとした彼女の小さな頭に手を乗せてしまう。

 よしよしと三秒くらい堪能してから手を離すと、都さんは俯いたまま、深く息を吸い直した。かと思えば、ばっと勢いよく顔を上げた。

「あ、あのっ、わたしっ、先生……に、ふっ、ふたつ、お願いしたいことがありますっ!」

「お願い、ですか? はい。ぜひおっしゃってください」

 恩を返せる機会を恵んでくれるとは、ぼくとしては渡りに船である。微笑みながら頷くと、都さんはバスケットボール一個分くらい高いところにあるぼくの目をそろりと見上げて言った。

「またここに、おっ、お邪魔したい……です。っか、構わないでしょうか……?」

 ぼくはぱちぱちと目を瞬いた。それから、ふっと吹き出して笑った。

「ええ、ええ、願ってもありません。いつでもいらしてください。そのときはまたデュオをしましょう。今度はぼくもヴァイオリンで、バルトークを一番から順に攻略するのもいいですね」

 彼女はこくこくと頷いて、四四番まで全クリする宣言をした。技術的な難易度は都さんの腕なら根を詰めなければいけないほどではないが、ぼくは念のため「では、おう先生に見つからないように、譜読みはこっそりですよ?」と念を押した。ぼくが干されるくらいで済めばいいが、都さんが教授の反感を買うようなことは絶対にあってはならない。そもそも今後の彼女にそのような戯れに割く時間があるとはあまり思えないのだが……言うだけタダというやつだ。

「それで、もももっ、もう一つなんですが……!」「はい」「ああああのっ、そのっ」「はい」

 都さんはここに通い始めた当初のように顔を真っ赤にした。お願いはこっちがメインなのだろうか? いつもに増して気負った様子で「ひっ……」と声を引きつらせた彼女に、ぼくはまた首を傾げる。

「弾いてほしい、曲が、あります……せっ、先生に……」

「曲? ええ、もちろん構いませんが……どの曲ですか?」

「りっ、リストのっ……あああっ、『愛の夢』……を……」

 ぼくは思わず息を飲んだ。つい、目を伏せて訊き返してしまう。

「ヴァイオリンでは、いけませんか……?」

 勇気を出してリクエストしてくれた都さんが固まる。どうやらぼくが『愛の夢』を弾けないという発想はなかったようだ。そしてぼく自身、疑問に思うべきだろう。師匠せんせいや、アンリの前ではもう何度もピアノを弾いている。いまさら都さんに聴かせることに尻込みする必要があるのかと。

「いえ……『愛の夢』ですね」

 ぼくはピアノ椅子に座り、困惑している都さんを尻目に鍵盤の蓋を開く。

 母は、ぼくのピアノは人を駄目にすると言った。そんな不合理なこと、あるわけはない。大人のぼくなら分かるのに、心が嫌だと叫んでいる。そこにまだ、六歳のぼくがうずくまっているのだ。

 ぼくはきっと、彼女のリクエストに応えなければならない。彼女のというより、ぼく自身のために。

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