12・悲愴
ラ
ゆっくり、一音一音、間違えないように鍵盤を押す。仮にも斎藤さんに音感がなければそれまでだったが、さすがに杞憂だったようで、ほとんど間を開けずに音が返ってきた。
――こんにちわ。
ぼくは「わっ!」と声を上げ、ピアノ椅子から飛び上がった。こちらから声を……ちがう、えーと、とにかく、何かいわないと!
変に焦ってしまって言葉がひとつも浮かばない。鍵盤の上に指を浮かせてあたふたしていると、ありがたいことに斎藤さんの方から音を投げかけてくれた。
――だれ。
誰。そうだ、ぼくは相手が斎藤さんと知っているが、斎藤さんはぼくの存在すら知らないのだ。
――は、の、ん。
間違えないよう慎重に答えると、流れるようなドミファソラソファミが返ってきた。ピアノ弾きなら誰もが通る『ハノン』一番冒頭である。
故シャルル=ルイ・アノン並びに世界中のハノンさん、あとハノンくんという方がもしいらしたら本当に申し訳ないが、ぼくは自分の名前があまり好きではない。
母は子供のぼくからみてもどが付く天然だった。
ぼくは脳裏に浮かんだ母をぶんぶんと首を左右に振ってかき消し、斎藤さんに改めて伝え直した。
――ぼくのなまえ つくも はのん。
――つくも せんせい おなじ。
――おやこ だから。
――いつも うえで ぴあの ひいてる。
――そう。
――よく きいてる。
「ええっ!」驚きのあまり、鍵盤から指を離してバンザイしていた。
確かにピアノは四六時中弾いているが、彼女が教室に来ているときだけは聴く方に専念している。逆のタイミングがあったとしたら、レッスンの前後しか考えられない。じゃあどこで? うちの外からだろうか。それとも、ぼくの背後にあるあの……ドアの向こうで……?
今更緊張したって仕方がないのに、心臓がバクバクいい始める。
――りすと ききたい。
「リスト……?」
――どうして。
――よく きいてる。
確かに……リストはよく弾いているが、誰かが聴いていると意識して弾いたことは一度もない。
――いま ひくの。
ぼくは恐る恐る訊ねる。返答には少し間があった。
――きょう さいご だから。
さいご? さいごって、どういうことだろう。今日のレッスンが最後で、ここにはもう来ないということ?
他に何があるというのか。何かあるはずだと、ぼくは必死に頭をひねる。
――もう せんせい くる。
ぼくははっとして壁の時計を見やった。レッスンが始まる時間まではあと五分ほどしかない。最後の意味についてはいったん脇に追いやり、ぼくのレパートリーの中から五分で弾けそうなリストの曲を探すことにする。
しかしだ。誰かに演奏を披露するのはいつ振りだろう。もうずっとずっと前、この部屋に無断で上がってきてはモーツァルトやらラヴェルやらをせがんでくる幼なじみがいたが、彼女のリクエストが最後だとして、かれこれ四年ぶりになる。人生のほとんど半分。ぼくがあの大失敗をしてからは初めてのことだ。だからといって、今はいちいち怖じ気づいている猶予がない。
このときのぼくがリストのどの曲に思い至り、弾いたのか、二五歳のぼくは当然忘れていない。けれどここでは伏せたいと思う。当時は気にも留めなかったが、今思い出すと恥ずかしい、黒歴史というやつなので。
曲を終えて時計を見やると、二時を少し過ぎていた。レッスンはすでに始まっているだろうから、斎藤さんにぼくの恥ずかしい演奏をどこまで聴いて貰えたかは分からない。実はレッスンが早めに始まっていて、最初の数小節だけだったかもしれないと思うと少し寂しい。
レッスンの終わりに通しで演奏されたのは、見事に完成されたベートーヴェンのソナタだった。最後の一音が消えるまでずっと床にへばりつき、下階の音をピアニッシッシッシモまで余すことなく拾っていた。
標題に深い悲しみを
ぼくは自分の都合のいいように解釈することにして、目を閉じ、ベッドに横になった。そうして目から流れ出ようとするぼくの悲愴を押し留めようとしたが――駄目だった。ぼくは、言葉で、音楽で、もっともっと彼女と語り合いたかった。この『悲愴』が最後になるのだと思うと、胸が引き裂かれるかのように痛んだ。
斎藤さんのレッスンが終わり、居ても立ってもいられなくなったぼくは、濡れた目を袖で擦りながら部屋を出た。階段の上から降りた先の玄関を覗き込み、斎藤さんの見送りに出ていた母を見て尻込みする。はやくあっちへ行って! 懸命に念じ、教室の方へ戻っていくのを待ってから慌てて階段を降りた。
玄関のドアを飛び出すと、ピアノと同じ色艶の高そうな車が家の前に横付けされていて、若い大人の女性が手前を向いている助手席のドアを開けようとしているところだった。
真っ赤な口紅、腰まで艶が行き届いたストレートヘア、抜群のスタイルが際立つシックなワンピース――想像もしていなかった彼女の華やかな佇まいはぼくの度肝をぶち抜いたが、腹なら部屋を出るときに括っている。
「さっ……斎藤さん!」
ドアレバーに手を掛けたまま振り向いた彼女は「ああ、ここの子ね、リストの」と宝石を転がしたような涼やかな声で言った。ぼくは大慌てで用意していた問いを投げかける。
「また、会えますか――?」
斎藤さんは一瞬だけ車の方を見やり「さあ、どうかしら」と言った。「同じ道を進んでいれば、いずればったり会うこともあるんじゃない?」
今でもときおり思うのだ。もしこの言葉がなかったら、ぼくはどこかでピアノに別れを告げていたであろうと。
あのとき父の伴奏に挑戦する勇気を持てたから、ピエール
そして今度は、アンリとの出会いがぼくと斎藤さんを再び繋げようとしている。
ぼくはやっぱりもう一度、斎藤さんに会いたい。
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