11話 今は、誰とも

 温泉同好会の屋台に史岐を連れて行くと、客を呼び込むでもなく商品を宣伝するでもなく、ただ大鍋から立つ小豆臭のする湯気をのほほんと浴びて立っていた編森吾朗ら数人の男子部員が、ぽけっと口を開けた。

「熊野史岐さんです」口を開けるばかりで誰も話し始めないので利玖が紹介する。「ビラ配りに多大な貢献をしていただいたので、皆さんにもご紹介をと」

「ちょ、ちょっと……、ちょっと佐倉川さん」

 編森吾朗が進み出て、利玖を屋台の影に引っ張り込むと、鬼気迫る表情で「本物連れて来てどうするの!」と詰め寄った。

「偽者を連れて来たって仕方がないでしょう」

「そんな話をしているんじゃなくてね」

 言い合っている所に横から「やあ」と声がかかったので、全員が一斉にそちらを振り向く。

「珍しい御仁ごじんがいるね」

 興味深そうに少し離れた所から史岐を眺めていたのは、人文学部哲学科の学部三年生、坂城さかき清史きよふみだった。

 現在の温泉同好会の長である。

 苔むした大岩のような厳粛げんしゅくさと、天から遥か下界の子らを見守るような慈愛を兼ね備えた風格に、一同が安堵の息をついた次の瞬間、彼は、

「最近はたいらさんの所に会いに来ているのも見かけないから、ずいぶん久しぶりだ」

と発言して周囲を凍り付かせた。

 利玖との事はともかく、双方幼い頃から尋常ならざる縁で結びついている梓葉と史岐の関係は、県内出身の学生にとっては周知の事実だったし、県外から来た学生も、入学式の日にくぐった桜並木が光るような青葉に変わる頃には、ひなびたキャンパスに一服の清涼剤として機能している美貌の男女の組み合わせを記憶に刻む事になる。例に漏れるのは、構内を歩いていて、すれ違う人間の顔よりも並木の姿の移り変わりに心惹かれる利玖くらいのものである。

 どうやらその関係も終わりになったらしい、という噂も、心ゆくまで湯に浸かるのを至上の喜びとする温泉同好会ではいまいち浸透力が弱く、ただ全員が何となく「あまり触れんでおいた方が良い」と結論づけていた所に、よりにもよって会長の坂城清史が大手を振って切り込んでいったので、誰も止める事が出来なかった。

 固唾を呑んでいる面々を見渡して、史岐は「えっと……」と呟く。

 そして、一瞬だけ利玖を見た。


 目が合った時、何か特別な反応をしていたら彼の答えは変わっていたのかもしれない。

 後々思い返してみて、利玖はそう考えた事がある。

 だけど結局、その時の自分は、編森吾朗らと同じように史岐の心証をおもんばかって黙っている事しか出来なかった。


 史岐は、物怖じしない瞳を坂城清史を向けた。

「彼女とは春に別れた。今は、誰とも付き合っていないよ」

「そうか」

 坂城清史はごく簡単に頷いた。

 そして、編森吾朗から受け取ったエプロンとバンダナを身につけると、鍋の向こうに回って史岐に微笑みかけた。

「ここは大学だからね。そういう事も、きっとあるだろうね」



 売り子として出て行った後、茉莉花は一度も屋台に戻っていないようだった。店番を交代する為にやって来た坂城清史も、道中で彼女の姿は見かけなかったと証言する。

 茉莉花を捜して、利玖と史岐は再び構内に繰り出した。

 少しずつ日が傾いて、浮き足立つようなたっぷりとした蜂蜜色の日射しが降り注いでいる。なんだか、大学全体がお腹いっぱいになってまどろんでいるみたいで、利玖もあくびが出そうになるのを何度も我慢した。

 史岐は、前を歩いているけれど、何も言わない。

 腕を引っ張ると振り向いて笑ってくれるので、怒っているようには見えないが、どれだけ顔を覗き込んでも、彼がほんとうの表情を浮かべているようには見えなかった。


 いつもの事だが、匠の愛想のない対応で気分を害さなかったか。

 温泉同好会の部員達の反応が礼を欠いてはいなかったか。

 坂城会長の発言があまりに率直すぎて、結果的に、初対面の学生を相手にあんな宣言をさせられる羽目になって、嫌な思いをしなかったか。

 夜に大事なライブがあるのに、なぜ、バンドサークルのメンバではなく、自分と一緒に行動してくれるのか。


 訊きたい事は、たくさんあるように思えて、本当はこうやって近くにいるだけで満ち足りているように思えた。


 上の空で歩いているうちに史岐が突然立ち止まり、それに気づかず進み続けたので顔面から彼の背中にぶつかった。

「ぶ」

「うわっ」史岐が驚いて振り返る。「ごめん、大丈夫?」

「ふぁい」

 鼻を押さえている利玖を心配そうに見つめながら、史岐は前を指さした。

「ここ、阿智さんが寄っていったって」

「えっ」利玖は鼻から手を離す。「本当ですか?」

「茉莉花ちゃんでしょ? うんうん、見たよ。バイト先が同じだからね、お酒も買っていってくれたし」

 喋っているのは、髪を茶色に染めて、だらしなくパイプ椅子にもたれかかっている男子生徒だった。

 顔がいやな赤さをしている。彼が持っているビニルのコップは青色の液体で満たされていたが、かき氷のシロップではないだろう。

 利玖は軒先に出されたメニューを一瞥する。どこの居酒屋でも見る、カクテルやリキュールの名前が書き連ねられていた。何のサークルかは不明だが、酒に敬意を抱く者達の集まりではない事は確かである。

「どちらに行きました?」

「えっとねえ……」

 茶髪の学生が答える前に、彼の後ろから、酒瓶とビニルのコップをぶら下げた癖毛の男子生徒が割り込んできた。

「これ飲んでくれたら、教えてあげる」

 どっぽどっぽと無色の酒を注ぎながら、呂律ろれつの回らぬ声で癖毛の学生が言った。利玖は、断ろうとしたが、屋台に詰めていた他の学生が「ひゅう!」と声を立てたのに驚いて言いそびれてしまった。

「攻めるねえ」「お前、着物の子がタイプなの?」「さっきそう言って茉莉花ちゃんにも飲ませてたじゃん」

 好き勝手な事を言い合う男達の間から、癖毛の学生が下卑た笑みとともにコップを差し出す。

 きついアルコールの匂いが鼻を刺した。

「お前ら……」

 史岐が止めようとしたのを見るや、癖毛の学生はさっと利玖にコップを押しつけ、後ろのギャラリーに向かって「ほい!」と叫んだ。

 それを合図に、屋台の学生達が、一斉に品のない御囃子おはやしのような大声を立て始めた。

 彼らの声量と、手を打ち鳴らす音が物質的なエネルギィを有しているように、利玖はじりじりとコップを口元に近づけていく。

 唇が触れる、と思った瞬間、目の前に伸びてきた手がコップをかすめ取った。

「──

 一息に酒を飲み干した史岐は、利玖が聞いた事もないような低い声で言い捨てると、空になったコップを握りつぶしてくず入れに放った。

 そして、

「行こう」

と言って、立ち尽くしている利玖の手を掴んだ。



 史岐に手を引かれて人混みの中を歩いた。

 初めは怪訝そうに振り返る人達の視線が気になったが、だんだん顔が熱くなってきて、途中からは足下だけを見て、史岐に引っ張られるに任せた。

 西門通りの端まで行って、学生支援センターの横も通り過ぎて、東門に続く鬱蒼うっそうと路傍の木々が生い茂る小道に入っても、史岐はひと言も喋らなかった。

 この辺りには学生が出入りするような施設はなく、職員用の駐車場の他には、旧日本軍がのこした物と言い伝えられる煉瓦倉庫が木々に埋もれるように建っているだけだ。同じ敷地で祭りをやっているとは思えないもの寂しい雰囲気が漂っている。

「史岐さん、あの」利玖は、息を切らしながら声をかけた。「すみません、少し止まって頂けませんか。浴衣が着崩れてきて……」

 史岐が、はっと足を止めて振り向いた。

「あ……、ごめん」

「いえ」ベンチコートを引き寄せて襟元を隠しながら、利玖は周りを見回した。「……物陰で帯を締め直してきます。こんな所には誰も来ないと思いますが、念の為、見張りをお願い出来ますか?」

 史岐が頷くと、利玖は植え込みの切れ目から煉瓦倉庫の陰に身を隠した。

「浅はかな事をして、申し訳ありませんでした」

 衣擦れの音に混じって、利玖がぽつんと言うのが聞こえると、史岐はささくれ立っている気分を鎮めようと目をつむって、ひんやりとした風が行き渡る空に顔を向けた。

「僕の方こそ、怖い思いをさせてごめん。……でも、温泉同好会には、きっとそんな事をする人はいないんだろうけど、たちの悪いサークルでは手っ取り早く相手を酔わせる為に、度数の高い酒を何種類も混ぜて飲ませるような所がある。学園祭の間も、あちこちにそういう奴らがいると思う。だから利玖ちゃんも、知らない相手から注がれた酒は飲んでほしくない」

「史岐さん……」

「いや──、ごめん、わかってるよ。僕はそんな事を言えるような立場じゃない。初めて会った時には、利玖ちゃんを脅して本家へ連れて行こうとしたし、さっきだって、温泉同好会の人達が大勢いる前で、これ見よがしに『誰とも付き合っていない』だなんて……、でも、何が入っているかもわからない酒を利玖ちゃんが飲まされる所を黙って見ているのは……」

「史岐さん」

 今度は少し強い語調で、利玖が呼んだ。

 喋るのを止めたが、続きは聞こえてこない。

 おそるおそる振り向くと、利玖は植え込みの間から戸惑ったような顔を覗かせていた。

「すみません。お話は後で伺いますから、ちょっとこちらに来ていただけませんか」

 植え込みに入っていくと、利玖は手のひらをお椀のような形に丸めて胸元に揃えていた。


 利玖が開いてみせた、その手の中を見た瞬間、とっさに、酒にやはり悪いものが入っていて目がやられたのか、と思った。

 しかし、利玖の表情から、どうやら自分だけが異常をきたした訳ではないらしいと察する。


「……わたし、飲んでしまったのかもしれません」

 こわばった面持ちで呟く利玖の手には、面をつけ、和装をした、二人の小さな人間が鎮座していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る