14話 もし、史岐に今、恋人がいるとしたら?

 夕食を終え、部屋に戻った利玖と史岐がシャワーを浴びて早めに床に就き、翌朝の下船の準備を始めたのは、まだ夜も明けきらぬ三時前の事だった。

 途中で船内放送が入り、船は予定通り四時半に入港する事を告げる。利玖も史岐も、あくびをかみ殺しながら手を動かした。

 身支度を終えると、二人は美蕗達の部屋を訪ねた。時間が時間だけに、寝過ごす可能性も大いにあり得たので、先に起きた方がもう片方の部屋の様子を見に行って、万が一まだ眠っているようだったら起こして支度するように促そうと昨夜の内に打ち合わせてあったのだ。

 軽くノックをすると、すぐに扉が開いた。

「おはよう」

 開け放たれたテラスに立つ美蕗が、高らかに挨拶をする。

 彼女達の荷物はもうまとめてあって、入り口側のベッドの脇に寄せてあった。

 扉を開けた柊牙は、途中までふらふらと史岐の後をついてきたが、引き寄せられるようにベッドに倒れ込むと、そのまま布団もかけずにいびきをかき始めた。

「柊牙さん、朝、弱いんですか?」小声で利玖が訊く。

「さあ……」史岐も首をひねる。「一限の講義には来てるけどね。この時間なら誰でも弱くなるんじゃない?」

「なるほど」

 二人は眠りこける柊牙の横を通り過ぎる。

 テラスに出ると、美蕗が陸を指さした。

「もう見えるわ」

 所々緑が禿げて、岩肌が剥き出しになった岬の岩壁が間近に見えた。先端の灯台が、呼吸をするような早さで点滅をくり返している。着ぐるみのキャラクタが口を開けているようなぽかっと空いた洞穴が、岬を形成する地塊の中心近くに空いていた。

 船が進むにつれて、岬の後ろから小樽市の街並みが姿を現した。

 灯りのついている建物はまだ少ないが、少しずつ朝の光が満ち始め、港を臨むやますそに広がる家々は静謐な雰囲気をまとって浮かび上がっている。とはいえ、その光景を見ている三人は、北海道に来る事自体今回が初めてだし、唯一の道内出身者はベッドで熟睡しているので、確かにこれが小樽の街並みだ、と断言出来る者は誰もいなかった。

 風が強く、数分で部屋に戻る。

 暖かい室内に戻ると、息が震えているのがよくわかった。

 再び船内放送が入って、小樽市の現在の天気を伝えたが、昨日の潟杜市よりも二十度近く気温が低かった。十八時間もかけて北上したとはいえ、同じ日本国内でこうも気温が変わるものか、と利玖は驚く。昨日、史岐と二人でテラスに出た時は部屋着だけで何十分も外にいられたのに、今はしっかり着込んでいても身が縮みそうなほど寒かった。


 いったん別れ、それぞれの部屋に戻ってから、下船案内が始まるのを待って合流し、四人で車両甲板に降りた。下船の際は、運転手以外の乗客も甲板に停めた車に乗って、船から埠頭に下ろされたスロープを通って港に降りる事が出来る。

 長旅の間に、車内の空気は冷え切っていた。

 暖房を効かせてブランケットを体に巻きつけていてもガチガチと歯が鳴る。史岐は、車に積まれていたキャンプ道具をいくつかほどいて、暖を取るのに使えそうな物を皆に貸し与えてくれたが、筋金入りの寒がりである利玖にはそれでも足りず、真っ青になっているのを見かねた史岐が例の寝袋を広げて体にかけてくれた。

「あなた、この袋、船にも持ち込んでいなかったかしら?」

 美蕗が訊ねたが、史岐は無視した。

 やれ北海道までついて来い、移動の際の足になれ、船の中では恋人でもない女子大生と二人で過ごせ、下船した後は休む場所を良きに計らえという命令には逆らえなくても、黙秘権は認められているらしい。なかなか推し量りがたそうな関係性である。


 恋人ではない……。

 ふいに、その思いが、棘にふれたような痛みとともに胸を貫いた。

 そう。自分と史岐は、恋人同士ではないのだ。

 ツインルームに寝袋を持ち込むなんて真似をしたのは、年頃の娘である利玖に気を遣っての事だと思っていたが、まったく別の理由が考えられる事に、利玖は初めて気がついた。


 もし、史岐に今、恋人がいるとしたら?

 いくら不可抗力とはいえ、後輩の女子大生と同室で一夜を過ごすという状況をどう思うだろう。決していい気はしないはずだ。

 無理を言って、ベッドで眠るように強いるなんて事をしない方が良かっただろうか……。


「着いたよ」

 穏やかな史岐の声で、利玖は、はっと目を開けた。

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。後ろの席で、同じように史岐に起こされた柊牙が、ねぐらから出てきた獣みたいな声を上げて体を伸ばしている。

 美蕗はずっと起きていたようだ。自らドアを開けて、車を降りていく所だった。

 利玖は頭を振って、目の前のコンビニエンスストアに気持ちを切り替える。

 慣れない種類の問答に決着をつけるよりも、まずは一刻も早く精のつく食事をとって、内側から体を温めたい利玖であった。



 コンビニエンスストアで朝食を買い、港近くの臨海公園に移動した。

 電波が入るようになってから、史岐がパソコンをインターネットに繋いで、自分達のように時間を持て余した旅客が休憩をするのによく使われている場所があると見つけたのだ。

 美蕗は、膝の上で巻き寿司のパッケージを開けて、一切れずつ箸で取って口に運んだが、男性陣は早々にシートを倒して眠り始めた。

 利玖はというと、生姜入りの甘酒を一本飲んだだけで満腹になってしまったが、それでは体に良くないと思い、やっとの事でおにぎりを一つ腹に収めた。それから、貸してもらった毛布にくるまって、顔に触れている生地の柔らかさにため息をつきながら、目をつむった。



 一時間ほど眠っただろうか。

 物音に気づいて、利玖がうっすらと目を開けると、美蕗が後部座席から身を乗り出して史岐に何か話しかけているのが見えた。どうやら、外を歩いてきたいので車の鍵を貸してくれ、と頼んでいるらしい。

 史岐は顔をしかめて「いや、借り物だから」と言葉を濁しているが、美蕗は一向に引き下がろうとしなかった。

「帰ってきて、あなたが眠っていたら、どうしろと言うの」

「窓でも叩いて起こせばいいだろ」

「こんなに硬い物を叩いたらあざになってしまうわ」

「なるかよ、そんな事で……」

「あの」利玖は見かねて、つい口を挟んだ。「わたしが起きていますから、どうぞ行って来てください。ここから手を伸ばして運転席のロックを外せば、外からもドアを開けられますよね?」

 史岐がそれに答える前に、後ろでのっそりと柊牙が起き上がり、目をこすりながらあくびをした。

「んじゃ、俺も行ってくっかな。いい加減体を伸ばしてえし、お嬢一人じゃ危なっかしいわ」

「あら、皆起きたわね」美蕗が車内を見回して微笑む。「この際だから四人で出かけましょうか?」

「僕、パス」と史岐。

 利玖も便乗して首を振る。まだまだ外は寒そうだった。

 車を降りた柊牙と美蕗は、駐車場を横切って、海のよく見える芝生の方へ歩いて行った。朝日に近づいていく二人の輪郭は、瞬く間に強い光に覆われてあやふやになる。

「煙草、吸っていい?」

 かすれた声で史岐が訊き、利玖は頷いた。

 史岐はセルモーターを回して車内に電力を供給し、運転席側の窓を少しだけ下げて再びエンジンを切った。

 冷たく澄みわたった北の空気は、音までもよく通すのだろうか。

 彼が普段乗り回しているライトウェイト・スポーツカーよりも、はるかに運転席との距離は離れているのに、フリント式ライターのやすりをかける音も、煙草の先に火が点く音も、驚くほど鮮明に聞こえた。

「あの」息を吸い込んで、利玖は切り出した。「史岐さんは、新しい恋人をつくるご予定はないのですか」

 一拍の間を置いて、史岐が視線だけを利玖に向ける。

「いいの?」

 一瞬、恋人をつくる事自体の可否を問われたのかと思って身構えたが、違った。

「それだと断然、僕の有利だけど」

「はい?」

「勝てない勝負はしない主義だ、って前に言ってたから」

 利玖は、唇を半開きにして「ああ……」と呟いた。もっと控えめな表現だったと記憶しているが、確かに去る五月、彼を相手にそんな事を口走った気もする。

「失礼しました。それではシミュレーションという事で、ひとつお付き合い頂けないでしょうか」

「うん」まだ、寝ぼけているような声の史岐。

「恋人をつくりたいと思っている場合は、何とお答えになるのです?」

「しばらくは一人でいたい」

「あの……」違和感を指摘しようとして、利玖は、それを思いとどまる。自分が言い間違えたか、そうでなければ史岐が聞き間違えたのだろうと思った。「いえ、すみません、何でもないです。……では、逆の場合は?」

「しばらく恋愛はしたくない」

「…………」

 むっすりと眉間に皺を寄せている利玖に気づくと、史岐は咥えていた煙草を手に持って煙を吐いた。

「ちゃんと聞いてるし、ちゃんと考えて答えてるよ」

「その二つは、何か違うのですか?」

「相手によってはね」史岐はセンターコンソールから、備え付けの灰皿を引き出す。「今は誰のものでもないけれど、いつかは自分のものになるかもしれない。……そう思ったら、会うのもいっそう楽しくならない?」

「わかりません」

「うん。だから、僕の有利だって言った」

 利玖は腕を組み、シートに深々と身体を埋めた。

 今までそういった場面に遭遇した事はないし、これから先も、遭遇するとは思えない。しかし、妙に説得力はある。


 歌を聴かされているみたいだ、と思った。

 思うだけにしておいた。


「以上、シミュレート終わり」

 史岐は煙草を捨てると、ブランケットを体に巻き付けて窓に頭をあずけ、再び眠り始めた。

 煙の残り香だろうか。つかの間、薄荷のようにすうっと鼻腔の奥に抜ける爽やかな匂いを感じたが、窓から吹きこむ磯風が強く、すぐに辿れなくなった。

 史岐の寝息を聞きながら、もう一度さっきの言葉について考えてみる。

 やっぱり、よくわからなかった。

 慣れない事ばかり考えて知恵熱でも出しているのかもしれない。

 しかし、頭のどこが麻痺しているのかもわからなかった。


 史岐は、いつそんな事を覚えたのだろう。

 たいら梓葉あずはと幼馴染みで、その関係の延長で許嫁になったのなら、色事の場数を踏んで駆け引きを身につける機会などなかったはずだ。


 そんなに、綺麗な話ではないのか……。

 いや、もしかすると、彼女との婚約が破談になった後。

 つまり、五月に、自分と出会ってから……。


 利玖は体を跳ね起こした。

 足元に置いてあったバッグを開き、着替えやら化粧品のポーチやらをかき分けて、洗い立てのタオルを引っ張り出すと、それを鼻先を押しつけるようにしてむちゃくちゃに顔を拭った。

 しばらく、そのままうつむいていた。

 それからゆっくりと息を吸い、顔を上げる。


 太陽が昇るにつれて、海からは夜空の上澄みをすくったような青が引いてゆき、それに代わって、はっきりと力を有した光が現れる。その光が、町を築いて暮らしている人々を眠りから目覚めさせ、システムとしての都市を起動させる。

 地上のどこよりも早く、一心にその恩恵を受けられる事を誇るかのような波間に漂う煌めきが、いささか騒々しく感じられた。

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