12話 Blakiston Line
船は定刻通り、十二時に出港した。
史岐は仮眠を取って、運転で疲れた体を休める事にし、目を覚ました時には十六時を少し過ぎていた。
隣のベッドを見ると、利玖が膝を抱えて食い入るように壁掛けテレビを見つめている。史岐が起きた事に気がつくと、画面を指さして、
「見てください。面白いですよ」
と言った。
船が今どの辺りを航行しているのか、航路にマーカーをつけて示した映像が表示されている。
史岐は、部屋着にする為に持ってきたパーカーを羽織って、ベッドの縁に腰かけた。
「ずっと見てたの? それ……」
「いえ。わたしもしばらく昼寝をしました。それから天気がいいのでテラスに出ていて、さっき帰って来た所です」
利玖はベッドを降り、窓辺に行って振り返る。
「なかなか良い眺めですよ。史岐さんもいかがですか?」
二人は紙コップにコーヒーを淹れてテラスへ出た。
ほんのわずかとはいえ、船体が揺れているので、少な目に作って持ち方にも気をつけていたのだが、外に出た瞬間に突風に煽られて、史岐は自分の手に少しだけコーヒーをこぼしてしまった。
手を拭って、見上げた空は、成層圏の
様々な形の雲が、何層にも分かれて浮かんでいる。それを、高い所から順に辿っていくと、やがて、吸いつくように地表を覆う海面に行き当たる。海の色は、空に漂っていた粒子がゆっくりと時間を掛けて沈殿したような、深みのある紺碧だった。
視界を遮る物は何もない。
すべてがあまりにも無垢で、地球ではない、どこか別の海洋惑星に放り込まれたようだった。
テラスに出る前は、さぞかし潮のにおいがきついだろうと覚悟していたのだが、予想に反して大気はほとんど無臭だった。
船首が波頭に差し掛かると、体全体にぐっと下向きの力がかかり、遥か眼下の海面に白い飛沫が立つ。それから、押さえつけていた手を放したように、ふっと自分を地底に向かって引っ張る力が消え、船体もわずかに浮上する。船は、そのくり返しで少しずつ、しかし確実に北を目指していた。
「編み物みたいなリズムですね」
海面を見下ろして利玖が呟く。
「糸をくぐらせる時の
波間には時々、不透明なパネルのような物体や、異質な白さの何かの欠片が行きかった。同じ航路を使った船から、誰かが捨てていったのだろうか。
進行方向の右手には、雲の底が崩れたように
誰も見ていない所にだって雨は降るのだ、と史岐は当たり前の事を思う。
「そういえば、匠さんが言ってた何とかっていう線って」
「ブラキストン線ですね」
「あ、それ……」史岐は頷く。「初めて聞いたんだけど、何かの基準なの?」
「そうですね……、津軽海峡線と言った方がわかりやすいでしょうか」
利玖は船首の方に手を向けて、それを、すっと横に動かした。
「簡単に言うと、津軽海峡以北と以南では生息している野生動物のグループが異なるという考え方です。もともと、海で大陸と分断された島という地形は、固有の種や生態系を生み出しやすい環境ですが、北海道はその中でも特に広いですからね。かつては民族の境界でもあったわけですから、感覚的にも、動植物相の異なる地域であると受け入れられやすかったのでしょう。提唱者の名前をとって、ブラキストン線と呼ばれています」
「へえ……」
史岐はコーヒーに口をつけた。耐えられないほどの寒さは感じないが、コーヒーは、室内にいるよりもずっと早く冷めていくようだ。
(そういえば、美蕗も似たような事を言っていた)
ブラキストン氏がどの国の学者なのかは知らないが、わざわざ極東の小島に手を伸ばしてそんな線を引くだなんて、よっぽどの思い入れがあったのだろうか。
陸地から投げ渡した帯のように、空を横切っている雲の下を、船はなめらかに通り過ぎた。
室内に戻った後は、二人とも、それぞれが好きな事をして過ごした。
利玖はベッドに体半分だけ入って文庫本を読んでいる。これぐらいの揺れなら、文字を読んでも乗り物酔いはしないようだ。
史岐は窓際のデスクで、私物のノートパソコンから有料の映画配信サイトにログインし、ヘッドフォンを繋いで洋画を見ていたが、そのうちにネットワークへの接続が不安定になった。
「あれ……、おかしいな」
「電波、届かないんじゃないですか?」利玖がベッドから言った。「基地局って、海の上にはないでしょう。陸地に近づけば拾えるようになるかもしれませんが」
「あ、そうか……」
弓なりの日本列島に対して、航路は出発点と到着点をほぼ直線で結んでいる。だから、出港から時間が経てば、陸地との距離は開いていく。
少し考えれば分かる事だったが、たった二日の間に外泊の準備をして、史岐の場合は車の手配と経路の下調べもしなければいけなかったので、そんな事すら気づけなかった。
オフラインでも視聴出来るダウンロード作品を探していると、利玖が本を置いて、史岐に近いソファに移って来た。
「美蕗さんは、柊牙さんに用があって、同行したいとおっしゃったのでしょうね」
彼女の視線は背後の壁に向けられている。その向こうが、美蕗の手配したもう一つの部屋だった。
「そうだね。こっちの部屋の事なんて、全然気にしていないと思う」
「わたし達はともかく、柊牙さんは、ほぼ初対面の美蕗さんと二人部屋になってしまいましたが、大丈夫でしょうか?」
「あいつは……」史岐は、一瞬口をつぐむ。「見ての通り、自由気ままな奴だから、
利玖は、ほっと眉を開き、そうですか、と微笑んだ。
本当は、異性と同じ部屋で一晩を過ごすくらいの事で調子を狂わせるような初々しさなど、柊牙はとっくに手放しているのだが、友人としてそれは黙っておく事にした。
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