15話 「本当に鹿ですか?」
締め付けのない服に着替えて、柔らかい布団に入った途端、あっという間に意識が遠のいた。
目が覚めてから、利玖は自分がすっかり眠り込んでいた事に気づき、慌てて辺りを見回したが、幸い、窓の外はまだ夜の暗さを保っていた。
「起きたかい」
広縁との境に置かれた
「今、何時ですか」
「悪かったね。おまえの部屋に行くには、他の女子部員の部屋の前を通らないといけなかったから、ここに連れて来るしかなかった」
「出かけます」
起き上がって、クローゼットから上着を取り出そうとすると、匠が大股で歩み寄って来てその手を押さえた。
「待ちなさい」
「約束しました。ちゃんと聞くと……、だから……」
「汐子さんが抱えている問題の事なら、もう訊いた」
利玖は、
「どうして……」
「昼間のあれを見たら、誰だって気づくさ」
「そんな話をしているんじゃありません!」
利玖は兄の手を振り払って、叫んだ。
「気づいていたのなら、なおさら、どうしてわたしや史岐さんに何も言ってくれなかったんですか。兄さんは、いつもそうやって……、何もかも、先取りして……、相手がどう思うかなんて、考えもせずに……」
「おまえらしくもない事を言うね」匠は緩慢な動きでクローゼットの戸を開き、利玖の上着を取り出す。「部屋に戻って、もう寝なさい」
利玖は唇を歪めた。
(おまえらしくもない、だって……?)
今の自分が、普段と様子が違っているというのなら、兄は完全におかしくなっている。
「汐子さんは、何を話したのですか」
「利玖」
「
匠の動きが止まった。
利玖の上着を掴んだまま、長いことクローゼットの中を見つめていたが、やがて、上着を寄越しながらきっぱりとした声で言った。
「どちらか一つだ。選びなさい」
「…………」
「まあ、いずれにせよ長い話になる」匠は指で眼鏡を押し上げ、クローゼットを閉めた。「茶を
利玖は、何も言えぬまま、やり場のない怒りをぶつけるように両手で上着を握りしめた。
いつの間にか、きつく歯を食いしばっていた。
腹が煮えて仕方がなかった。自分がどちらを選ぶかわかっていて、そんな提案をしてくる兄にも、それをわかっていながら兄の思惑通りになるしかない自分にも……。
深呼吸をして、利玖は、手の力を抜いた。
今さら、それが何だと言うのだ。兄に対してこの程度の事でいちいち腹を立てていたらきりがない。どうやら今の自分は、本当に平常心を欠いているらしかった。
上着に袖を通しながら、利玖は、匠の前に座った。
「約束を優先します。汐子さんの話を聞かせてください」
「うん。わかったよ」
匠は二人分の茶を湯呑みに注ぐと、東御汐子の身に起きた一連の現象について語り始めた。
事の発端は、一か月ほど前、東御汐子と梶木智宏が下見の為にこの縞狩高原を訪れた日にある。それは、汐子が神保研究室を訪れるよりも前の出来事だった。
二人は汐子の所有する車で縞狩高原を訪れ、帰り道の運転も汐子が行っていた。暗い山道を走っているのは、汐子の車一台だけだった。
スピードは、ほぼ法定速度だったが、曲がりくねった道にぼうぼうと夏草がはみ出して、見通しが良くなかった。
あるカーブを曲がった時、汐子は、草むらから飛び出してきた影を避けるのが間に合わなかった。
「まさか、人ですか?」
「いや。汐子さんが言うには、鹿のような獣だったそうだ」
匠は茶をすすった。
「それとなく梶木君にも話を聞いてみたんだけど、彼はぶつかった瞬間を見ていない。昼間、運動場の草むしりをした疲れで、助手席で眠っていたそうだ。急ブレーキに驚いて目を覚まし、隣を見ると、汐子さんが青ざめた顔でハンドルを握りしめて固まっていた。二人で道路に降りて、何か残っていないか確認したけど、見つかったのは数滴の血痕と、割れたヘッドライトの破片だけだった」
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
汐子はそれ以降、
友人達の反応から、汐子は、その臭いが自分にだけ感じ取れる物だと気づく。
慣れない香水をつけて鼻を誤魔化していたが、やがて、臭いだけではなく、特に一人でいる時に、背後に何者かが忍び寄る気配や足音を感じるようになった。
「……その極めつけに、昼間の騒ぎだ。一人で抱え込むには限界が近かっただろう。おまえは、いいタイミングで声をかけたよ」
利玖は黙っていた。
考え事をする時の癖で、手近にあるちょうどいい柔らかさの物体を両手で掴み、握っては、少し指の力を抜くという動きをくり返している。今日は、彼女がさっきまで頭をあずけていた枕が手中にあった。
「罪悪感から、幻聴や幻嗅を起こした……、と考えるのが、最も妥当なのでしょうね」
利玖は、ぽつりと言った。
「すると、今日の僕らは集団ヒステリーを起こした事になるかな」
「ええ。……ですが、それ以上に、何か
利玖は枕に鼻先を押しつけて目をつむった。
「山道で車を走らせている途中に野生動物と接触するという事例は、特別珍しい事ではありません。むしろ、県内出身者の学生なら、車に
「自分が車をぶつけたせいで死なせてしまった、となれば、話は別なんじゃない?」
「死体を見ていないのでしょう? 二人とも……」
利玖はそこで「あっ」と目を開いた。
「……兄さん」
「何?」
「本当に鹿ですか?」
「記憶に残りやすい外見の特徴は、ほぼ一致する」
匠は茶を煮出す為に、急須の蓋を取ってポットの下に置いた。
「ただ、首の先に、老人の顔がついていたそうだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます