9話 佐倉川さんが教授にならはったら
三十年ほど前に発売され、今でも一部の愛好家から根強い人気のあるツーシータの国産スポーツカーからは、史岐よりも先に、短い茶髪をウェーブさせた女子生徒が降りてきた。
「
匠が喧嘩を吹っ掛ける算段を始める前に、利玖が手短に紹介する。
日比谷遥は、赤いボストンバッグを担いで宿舎に入ってきた。
「ああ、もう、ほんまに降ってきよった……」
ひとり言を口にしながら上がり
「あー、利玖ちゃん!」
靴を脱ぎ、声をはずませて駆け寄ってくる。固有名詞にあたる利玖の名前ひとつとっても、声に出す際に独特のイントネーションが付くほど、日比谷遥の関西訛りは強烈である。
「もう着いとったんやね。ほんまに、今回は無理聞いてくれてありがとう」
それから匠を見て、ぴっと姿勢を正した。
代理コーチを引き受けてくれた事に対して幾重にも礼を述べる剣道部員と、やや居心地が悪そうにそれを受け取りつつ謙遜する匠という構図が、ここでも展開される。
その間に史岐も宿舎に入って来た。
荷物はコンパクトな黒のショルダーバッグだけで、利玖や遥と比べるとかなり身軽である。彼は、今夜のバーベキューが終わった後、宿泊せずに潟杜へ帰る予定だった。
「お疲れ、利玖ちゃん」
「お疲れ様です」
時節を問わず学生の間で用いられる挨拶を口にした後、史岐は窓の外に目をやった。
「こんな天気だけど、山に入って大丈夫なの?」
「いえ……、難しいですね」
利玖はため息をつく。
「仕方がないです。天候ばかりはどうにもなりません」
「だね」
「ところで、どうして遥さんが史岐さんの車に乗っていたのですか?」
「あ、それ、たまたまなんよ」
匠と話していた遥が、こちらの話を聞きつけて首を伸ばしてきた。
「元々来てくれはる予定やったコーチの人な、潟杜から部員も何人か乗せて行ってくれるはずやったんやけど、急に
「へえ……」
匠が視線を向けると、史岐は濡れ犬のようにぶんぶんと首を振った。
「いや、取ってる講義が被ってるから、顔は知ってたんですよ。遥さんの喋り方ってすごく記憶に残るから……。そりゃ、若い女性が一人でこんな山の中を歩いていたら、知っている人じゃなくたってぎょっとしますけど、見境なく相乗りを持ちかけたりはしません」
「訊かれてもいないのに、よく喋るね。君は」
勝手に言い合いを始めている匠達をよそに、遥は手招きして、こっそりと利玖を呼んだ。
「トーコ、大丈夫そうやった?」
「トーコ?」
「ほら、マネージャーの」
「ああ……」
合点がいって、利玖は頷く。「とうみ・しおこ」の頭と末尾の音を繋げて作ったニックネームなのだろう。それなら、さっきの会話に出てきた「カジ」は、「梶木」の略で、部長の梶木智宏を指していると思われる。
「お元気そうでしたよ」
「ほんまぁ? なら、ええんやけど……」
遥は口を閉じかけたが、思い直したのか、声をひそめて「内緒にしといてほしいんやけど」と切り出した。
「
「言い寄られてて、とは」
「俺の恋人になってくれー、って頼む事」
「ああ、はい」
利玖は、挨拶をしに来た二人の姿を思い出す。
汐子は智宏の緊張を見抜いて、先に食堂に戻るように促している。確かその時、彼の肩に手を触れていたはずだが、その動作は時間をかけて築かれた信頼関係が感じられるごく自然なもので、トラブルを抱えているようには見えなかった。
そう伝えると、遥は腕組みをして唸った。
「さよかぁ……。でもな、トーコ、最近ほんまおかしいねん。あんまりごはん食べてへんし、特にお肉なんか、ほんのちょびっとしか口に入れへん。夏バテでも起こしたんやろかって思ってたら、今度は、今まで全然興味持ってへんかった香水なんかつけるようになって……。ほんま、意味わからん」
「あの……、それと部長さんが、どう関係があるのでしょうか」
遥は、待っていましたとばかりに顔の前で人差し指を立てた。
「この合宿な、先月、トーコとカジが二人で下見に来てんねん。トーコの様子がおかしくなったんはその後や。大学におっても、明らかに、前より二人でおる時間が
「実際に交際を開始されたのでは?」
「あっはは。それはない、ない」
遥は、からからと手を振って笑った。
「カジもトーコも素直な奴やさかいな。幸せな事があったら、すぐ顔に出るねん。うちは付き合いも長いし、そんなんなってたら、一発でわかるわ」
満足する所まで話し終えたのか、遥は落語でも締めるように手を打つと、しゃんと背筋を伸ばした。
「ま、何にせよ、うちが変に気
「わかりました」
利玖が頷くのと同時に、匠がこちらを振り向き、遥に声をかけた。
「ちょっといいかな。車の事なんだけど」
「あ、はい。何でしょ」
「レンタカーには何人で乗って来たの?」
「そらもう、満載ですよ」遥は両手を広げた。「防具だって乗せますからね。四人乗りがぎゅうぎゅう詰めです」
「四人か……」
匠は、考え事をする時の癖で、人差し指と中指の先で耳の後ろを叩きながら、
「じゃあ、その四人は、帰りは僕の車で送っていくよ」
と言った。
「えっ……、ほんまですか?」
「うん。いったん返却して節約したとはいっても、レンタカー代は痛い出費だろう? それに帰りは皆、稽古終わりで疲れているだろうし、そんな状態で山道を運転するのは危険だよ。ここは年上に任せなさい」
「うわあ! それ、めっちゃ助かります」
遥は心から感激した様子で手を組み合わせたが、すぐに顔を曇らせる。
「あ、でも、四人も乗ったら佐倉川さんの車が……」
「大丈夫だよ。僕の車は五人乗りだし、パワーもある」
「いやいや、無理です」遥は指を折りながら、真剣な顔で計算している。「部員が四人でしょ。あと佐倉川さんと、利玖ちゃんが乗って……、ほらやっぱり、一席足りひんやないですか」
すると匠は、表情を変えずに史岐を指さした。
「彼の助手席が空いている」
「えっ」
唐突に指名されて、史岐が素っ頓狂な声を上げる。
「あの、僕、日帰りなんですけど」
「空き部屋はたくさんあると汐子さんが言っていたよ。いいじゃないか、泊まっていけば。アルコールだって気にせずに飲める」
「それは……、えっと……」
どうにかして断りたい理由でもあるのか、必死な顔で考えをめぐらしていた史岐が、ふと、光明を見つけたように目を見開いた。
そろそろと匠に近づき、女性陣に聞こえないよう、手で口元を隠して匠に耳打ちする。
「あの、匠さんならわかってくれると思うんですけど」
「うん」
「煙草があと一本しかないんです」
「…………」
匠は、ゆっくりと史岐に顔を向け、それからしみじみと首を横に振った。
「史岐君……。君にはがっかりしたよ」
「うわっ、待ってください、たぶん言いたい事がちゃんと伝わってないです」
匠は史岐の言葉を無視して、芝居がかった仕草で腕時計に目をやった。
「ああ、そろそろ準備をしないと。じゃあね、利玖。おまえからも史岐君によろしく言っておくんだよ」
こうなったら、兄には何を言っても無駄だとわかっているので、利玖は「はい……」と頷いた。
ロビーを去る匠を、日比谷遥だけが、うっとりとした表情で見送った。
「うち、卒業するまでに佐倉川さんが教授にならはったら、絶対講義受けに行きたいわあ」
「そうですか」
利玖はいったん言葉を切った後、小さな声で付け加えた。
「やめておいた方がいいと思いますけど……」
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