6話 月阜堂のバウムクーヘン

 史岐からもらったバウムクーヘンを開封した時の事を、利玖は、今でもよく覚えている。

『五十六番』の騒動について両家の間で落とし所を探る為の話し合い──といっても、利玖はずっと書庫にいたので、おそらくそういう話がされたのだろう、という推測であるが──が行われた数日後、史岐からメールが送られて来た。本文には、利玖に対する詫びの文章に続いて、渡したい物があるので近々学内のどこかで会えないか、と書かれていた。

 そうして利玖は、生協の食堂で、史岐から紙袋入りの上品な箱を受け取った。

 箱の色は白く、透けるように美しい和紙が巻いてあって、その上から紅白の水引が結んであった。熨斗のし袋を立方体に作り直したらこんな風だろうか、と利玖は思った。

 中身はバウムクーヘンだという。一人では食べ切れそうになかったので、匠の所に持って行って、分ける事にした。

 箱をひと目見て、匠は「うわあ」と声を上げた。

『すごいな。月阜堂つきおかどうの物じゃないか』

『有名なお店なのですか?』

『うん。老舗しにせで、かなりの高級品だよ。丸々一本だと、そうだね……』

 匠が口にした金額を聞いて、利玖はたぶん、顔が真っ白になったと思う。

 お腹に入ったら消化されてしまう物に、一体どうやったらそんな値段を付けられるのか。利玖は、てんで理解出来なかった。

 それに、考えてみれば、利玖だって自分の好奇心を優先して、それなりに迷惑をかけたのである。臼内岳の散策に付き合ってもらって、その後は秘境の温泉に連れて行ってもらった。埋め合わせなんて物があるとすれば、それで十分だと思っていた所に、こんな高価な品を受け取ってしまっては寝覚めが悪い事この上なく、利玖は後日、匠には内緒で史岐に返礼品を持っていった。

 史岐は慌てて、それでいて頑として「必要ない」と言い張ったが、中身が日持ちのしないケーキだと知ると、丁重に礼を述べて受け取ってくれた。一見、軽薄そうに見えて、こういう部分はきっちりとしている人物なのだという事が、利玖はだんだんわかり始めていた。

 そして、話はそこで終わらなかった。

 史岐は翌週、別の洋菓子店のマドレーヌを持って、利玖に会いに来たのである。

 その際、駅前の蕎麦屋を待ち合わせ場所に使って、ついでに食事を取った時の会合が、今日まで呼び出す側と呼び出される側を交互に入れ換えて続いている。

 相手からの返礼が過剰であると思うのなら、言葉で伝えて済ませればいいのだが、不思議な事に、どちらからも言い出さなかった。


 使う店は不定である。煙草が吸えて、少々の長居を許してくれる所ならばどこでもいい。

 今日は、駅前の路地裏にある、懐古的な銅メッキのカップで飲み物が出てくる喫茶店だった。

「どうですか?」

 史岐がノートパソコンの画面から目を上げる。それは、利玖が普段使っているノートパソコンである。先日行われた生理学実習の結果を、史岐に見てもらっている所だった。

 実習で使用した測定機器は、専用のケーブルでパソコンと接続すれば、測定結果を表形式にしてパソコンに転送してくれるという高性能な代物だったが、レポートを書く為には、数値の羅列でしかないそのデータから規則性や傾向を見出し、考察に導かなければならない。解析自体はそれほど複雑な作業ではないが、何せデータの数が何千行とあるので、単純な計算一つとっても、全てのデータに対して実行するには膨大な時間がかかる。

 独学でプログラミングをかじっている他の班の学生が、その方面の知識を利用して時間短縮を図ると言っていたのを聞いて、利玖も、情報工学科の史岐の力を借りる事を思いついたのだった。

 史岐は指の間に挟んでいた煙草を口に持っていき、煙を吸った。

「うん……。機械がやっているだけあって、データの書き出しがちゃんと統一されているから、スクリプトを書けばすぐに結果が出ると思うけど」

 そこでいったん言葉を切り、利玖を見る。

「でも、それは嫌なんだよね?」

「はい。自分で再現出来ない方法には頼りたくありません」

 史岐は「堅いな……」と言って皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「こんなの、ただ、やり方を知っているか知らないかの違いだよ」言葉とともに、ふわ、ふわっと煙を吐きながら史岐は言う。「ネットで調べれば、いくらでも同じ内容を書いた記事が出てくるし。お金を払わなきゃ得られない知識でもない」

「楽をするのが気が引けると言っているわけではありません。確かに、史岐さんが作ったプログラムを配布すれば、今苦しんでいる三十名弱の学生が果てしない単純作業のくり返しから開放されるでしょう。個々人が自由に使える時間が増えるのは良い事です。まあ、教授には良い顔をされないかもしれませんが……」

 最後の一言は余計だった、と思いながら利玖はミルクティーのカップを手に取る。

 基本的に、利玖はどの店でもホットのブラックコーヒーは頼まない。苦いのが嫌だという訳ではなく、むしろ、味も匂いも大変に好みなのだが、一気に飲むと鼓動がばくばくと速くなって、しばらく息苦しさが続いてしまう。自分は体が小さいから、他人よりもカフェインの効きが強いのかもしれない、と考えている。

「ですが、プログラミングの講義が必修ではないわたし達の学科では、そのプログラムからどうやって結果が導き出されたのか、大半の学生が理解出来ないでしょう。残念ながら、理解しようとすらしない輩も一定数存在すると思います。わたしは、それは不正であると感じます」

「不正、ね」

 史岐は利玖の言葉をくり返して、唇の端を持ち上げる。まっすぐな彼女の物言いが、史岐は案外と嫌いではない。

「じゃあ、ちょっと手間は増えるけど、ソフトの基本操作だけで近い処理をさせる手順を書いておくね」

「ありがとうございます」

 史岐は片手を上げ、キーボードを打つ作業に集中し始めた。

 利玖にとって、この会合は、史岐からパソコンやソフトの使い方を教えてもらえるという利点がある。得た知識は、自分だけの物にしておく理由もないので、最初に習った何かの設定の変更方法を茉莉花にも教えたのだが、その際、

『こんな事、どこで知ったの?』

と訊かれたので、熊野史岐と定期的に食事を共にしている事を伝えた所、

『……あなた、それは、世間一般でデートと呼ばれる事もあるのよ』

と鬼気迫る表情で言われたので、それ以来、むやみに口外しないようにしている。

 世間の常識を持ち出したのは、茉莉花自身の経験が少ないからだろうか……。

 そんな風に考えた自分に、利玖は少しだけ驚いた。もしかしたら、それは史岐との会合がもたらした些細な変化と言えるのかもしれない。

 一方、史岐の側にどういう得があるのかは今もって不明である。

 最初のうちこそ、実家の書庫に関わる情報を引き出す気なのかもしれないと警戒していたが、一向にその気配はなかった。利玖が質問を用意していなければ、互いに会っていなかった数日の間に遭遇した出来事や、本や映画の感想などを言い合って終わる日もあった。

 手順書の作成を終えた史岐は、ノートパソコンを利玖に返すと、新しい煙草に火を点けた。

「時に、史岐さん」

「はい」

「高原バーベキューに興味はありませんか?」

「え?」

 史岐が顔を上げる。

「そりゃ、あるけど。何か、珍しいね。利玖ちゃんが自分からそういう事を言うの」

「では行きましょう」利玖は、早口に言いながらノートパソコンをリュックサックに押し込む。「場所は、縞狩高原にある潟杜大の宿舎で、開催日は八月二日です。わたしは兄の車で行きますから、史岐さんはお昼前に着くように、ご自分の車でいらして下さい」

「…………」

 史岐は両目を細め、しばらく黙って利玖を見つめた。

 それから、煙草を叩いて灰を落とすと、身を乗り出して「利玖ちゃん」と低く言った。

「本当の事、言ってくれる?」

 利玖が答えずにいると、史岐はスマートフォンを取り出して何事か調べ始めた。

 そして、数分も経たないうちに画面を見せてくる。縞狩高原観光協会が作成したホームページが表示され、葦賦岳の特異な生態系について、視認性の良いフォントで解説されていた。

「これ、宿舎のすぐ後ろにあるみたいだけど」

 利玖は観念して、ため息をついた。

「バーベキューは夜です」うつむき、ゆっくりとリュックサックのジッパーを閉じる。「……すみません。一人で散策すると言ったら、猛反対に遭いまして」

「やっぱり」史岐は呆れ顔で背もたれに寄りかかった。「最初からそう言ってよ。というか、匠さんは? 用事があってついて来られないの?」

「剣道部の代理コーチです」

「え?」

「あ、それと、バーベキューの主催も剣道部です。昼間、彼らが稽古をしている間に、葦賦岳を見てこようかと思います」

「待って、待って」史岐は慌てて手を振った。「全然訳が分からないんだけど」

 利玖は、剣道部の学部三年生に、温泉同好会にも籍を置いている女子部員がいる事。今回のコーチ欠席を受けて、利玖に剣道経験者の兄がいて、しかも彼が同大学の博士課程に在籍しているという事を聞いた彼女に泣きつかれた事を話した。

「へえ、そう……。匠さん、剣道も出来るのか……」

 史岐にとって、一番憂鬱だったのはなぜかその点らしい。

「まあ、いいよ。大学も夏休みに入って暇だし、ここの所ずっと暑くて参ってたからね」

「ありがとうございます。では、史岐さんのお仕事も用意していただけるように、マネージャーの方に頼んでおきます」

「いや、それは別に」

 利玖は史岐の声を無視して、にこにことしながら、ノートパソコンの重量でずっしりと垂れ下がったリュックサックを膝に乗せた。

「ひと仕事終えた後に食べるお肉の方が美味しいに決まっていますからね」

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