煙みたいに残る Smoldering

梅室しば

1話 匠の記憶

 十七歳の夏だった。

 匠は高校の制服を着て、町民ホールに併設された剣道場にいた。広くはないが、気持ちの安らぐ居心地の良い所で、開け放たれた窓からは、青葉越しの涼しい風が入ってくる。匠は、入り口脇に作られた座敷に座って、稽古の様子を眺めていた。

 まだ顔も知らない婚約者の父親から道場に呼び出された時には、手合わせでも申し込まれるのかと覚悟して、防具一式を持参したのだが、着いてみると道場に淺井あざい家当主の姿はなく、肝心の稽古もほとんど終わった後だった。入り口の周りに、顔の火照ほてりが引かない幼い門下生が、スズメのひなのように押し合いへし合い、口を半開きにして匠を見上げている。

「淺井さんはどこかな」

と訊ねると、子ども達はちょっとの間、無言で顔を見合わせた後、やがて一人が「瑠璃先生の事じゃない?」と口にしたのを皮切りに、ぱらぱらと手を上げて道場の中央を指さした。

 まだ面を着けている門下生が試合形式の稽古を行っている。匠と同じくらい背が高いから、高校生か成人だろう。

 発声の違いで、打ち合っている二人の門下生の片方が女性だとわかる。彼女のたれには「淺井」の名札があった。

 道場を見渡したが、手空きの大人は見当たらない。挨拶もしていないのに、腰を下ろして待っているのも気が引けた。

 どうしたものか……、と突っ立って思案していると、奥にある用具入れの引き戸が開いて中学生くらいの少女が出てきた。さっぱりとしたショートヘアで、眼鏡をかけており、通気性の良さそうなスポーツウェアを着ている。

 彼女は、匠が事情を説明すると、父兄用に作られた入り口脇の座敷に通してくれた。座敷といっても、道場の床より一段高い所に畳を敷いただけの空間だったので、匠が自分の防具と竹刀袋を持ち込むとぎゅうぎゅうになってしまった。

「……ヤァーッ」

 しゃんと気勢を発して「淺井」の垂の門下生が大きく踏みこんだ。

 手首のわずかな動きで竹刀が跳ね上がる。その先端が、相手の籠手をとらえたが、当たった角度が良くなかったのか、審判の旗は上がらなかった。

 古今東西、美しい体躯と強靱な脚を兼ね備えた馬は、力の象徴としてときの権力者の垂涎の的となる。時には戦の火種にさえなり得る彼らの執着心を、匠はその時、少しだけ理解出来た気がした。

 乗馬の経験はなく、競馬場に足を運んだ事もなかったが、何度打たれても、体勢を崩されても、果敢に相手に向かっていく彼女の姿は、青々とした野をまっすぐに駆けていく駿馬のようなみずみずしさとまぶしさに満ちていた。自分の中に、馬という生き物が、こういう美しさの象徴としても存在している事を、匠は初めて自覚した。

 二分ほど経った所で、勝負が着いた。

 ぱこん、と小気味良い音がして、三人の審判が同時に白の旗を上げる。

 双方が竹刀を収め、礼をして試合を終えると、審判役の門下生も一緒に道場の隅に下がって面を外した。剣道の試合は先に二本取った方が勝ちだから、おそらく、匠がやってくる前に、白のたすきをつけた方の門下生が先に一本取っていたのだろう。

 匠の待ち合わせ相手は、師範代の所を回って講評を受けてから、駆け足で座敷にやって来た。

 そして、三歩ほど離れた所で立ち止まり、深々と頭を下げて待たせた事を詫びた。匠も慌てて腰を浮かせたが、それを見るや、彼女は一歩後ずさった。

「どうか、それ以上はご容赦を。……まだ汗が引いていないものですから」

 そのはにかんだ笑顔が、今でも鮮明に記憶に残っている。

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