#13 偶像
――ずっと、〝普通〟に、憧れていた。
物心ついた頃から、人の目を見るのが怖かった。誰かから、視線を向けられるのが嫌だった。話をするのが、苦手だった。
始めから、集団の中で浮いていた。同じ説明を、指示を受けたとしても、わたしだけは、すぐにあれこれと喋りながら動き出す周囲の流れに、ついて行くことができなかった。今の言葉はいったいどういう意味なんだろう、これからどうすればいいんだろう、と考えて立ち竦んでいるうちに、他の人たちの背中は、どんどん遠ざかっていって。
一人だけ、暗闇の中にぽつんと取り残されるようなその感覚が、ほんとうに、おそろしかった。
何をするにも不器用で、人より遥かに時間がかかった。折り紙ひとつ折るにしても、周りのみんなが次々と手順をこなしていくのを目にして、終わっていないのは自分だけだと気付いて、焦って。頭の中が真っ白になって、指先も、上手く動かせなくなって。
――鏡花ちゃん、まだ?
――鏡花ちゃん、早く。
無邪気な声が、視線が、身体中に突き刺さってくるようで。他の人と同じようにできない自分が、恥ずかしくて仕方なかった。
最初は、みんな、やさしかった。こうやるんだよ、と教えてくれる親切な子もいた。けれど、二回、三回と同じところでつまずくたびに、同じ過ちを繰り返すたびに、その表情には、苛立ちと呆れが浮かんでいった。
――なんで、同じことができないの?
――どうして、みんな簡単にできることが、きみにはできないの?
――みんな当たり前にできることができないなんて、おかしいでしょう。
やがて、苛立ちは嘲笑に変わり。呆れは、憐憫に姿を変える。
嘲笑は、排斥を呼び。憐憫は、「あの子には期待しないであげようね、可哀想だから」と、触れない優しさを生み出して。
ああ、わたしは、みんなとは〝違う〟のだと、自分は劣っているのだと、人生の始めの段階で、思い知った。
だから、他人の存在も、行動も、言葉も、〝普通〟で在れない自分を、鏡のように映し出しているように思えて、息をするだけで苦しくて。
唯一、深く息を吐くことができたのは、お姉ちゃんの隣にいるときだけだった。
お姉ちゃんにだけは、視線を向けられると嬉しくて、こころがふっと、解けていって。
お姉ちゃんだけは、わたしがどんなに失敗をしても、呆れも笑いもせずに、そばにいてくれて。
お姉ちゃんだけは、いつだってわたしに、やさしかった。
身体が弱かったわたしが寝込むたびに、友達との遊ぶ約束を断って、飛んで帰ってきてくれた。風邪がうつるからやめなさい、と言われても、わたしの好きな、二つに折って食べるチューブ状のアイスを、こっそり部屋まで持ってきてくれた。細い腕で、顔が赤くなるくらい力を入れて、一生懸命割ろうとしてくれた。
結局上手く折れなくて、鋏を使って真ん中を切ったら、水色の雫が、布団の上に零れてしまって、慌ててティッシュで拭った。それから二人で、お母さんには内緒だね、と笑い合って。
――おねえちゃん、ありがとう。
ささやくように告げると、お姉ちゃんは何度か瞬きをした後、はにかむように口元をほころばせて、まぶしいものを見るように、少しだけ目を細めて。
――どういたしまして。
――そうだ、いつものおまじない。
――あついの、いたいの、飛んでいけ!
――きょうか、もうだいじょうぶだからね。すぐよくなるよ!
お姉ちゃんはいつも明るくて、楽しくて、やさしくて、そこにいるだけで、みんながつい笑顔になってしまうような、溌溂とした魅力があった。人望があって、話を盛り上げるのが上手で、運動も勉強もできて、でもちょっとだけ抜けているところもあって、とにかく人を惹き付けずにはいられないような存在だった。
わたしとお姉ちゃんは何もかも正反対だったけれど、互いのそばにいるときが、いちばん落ち着いていられた。多分それは、お姉ちゃんも、同じだったのではないかと思う。
お姉ちゃんは、わたしと二人でいるときは、静かだった。ぽつりぽつりと話をしたりもするけれど、友達やお母さんやお父さんといる時に比べると、格段に口数が少なかった。
一度だけ、その理由を尋ねてみたことがある。ややあってから返ってきたお姉ちゃんの答えは、簡潔なものだった。
――鏡花だけは、わたしに何も、望まないから。
少しだけ目を伏せてそう告げたお姉ちゃんの表情は、どこまでも静かで、なぜか、ひやりとしたものが心の奥底を過ぎっていったことを、覚えている。
同時に、ああ、一緒なんだ、と安堵して。
――お姉ちゃん、あのね。
お姉ちゃんだけは、わたしになにも、望まなかった。〝普通〟であることも、自分と同じように振る舞うことも、同じ価値観を持つよう要請することもなく、そのまなざしは、ただわたしを包み込むように、見つめていてくれた。
それが、どれだけ、嬉しかったか。
――わたし、お姉ちゃんが、だいすきだよ。
たとえ、誰もが認める優等生ではなくても。何でもできる、万能の頼れるお姉ちゃんじゃなくたって。そんな要素は、わたしにとって、お姉ちゃんを彩る衣装に過ぎないのだと、ただそばにいてくれるだけで嬉しいのだと、伝えたくて。でも、幼いわたしは上手く言葉を見つけることができなくて、そう告げるだけで精一杯だった。
それでも、聡いお姉ちゃんは、たどたどしい言葉に込められたわたしの想いを、いつだって汲み取ってくれて。
――ありがとう、鏡花。わたしも、そのままの鏡花が、大好き。
たった二つしか違わないのに、その手で何もかも包み込むように、わたしの頭を、撫でてくれたのだ。
そうやって、いつも、守られてばかりいた。
かつて一度だけ、わたしの将来を案じたお母さんが、『どうして明葉みたいにできないのかしら』と、ぽつりと零したことがある。
周囲と同じように振る舞うことを期待されているのだと、わかっていた。そうしなければ集団から疎まれることも、排斥されるのだということも、だからこそ案じてくれているのだということも、理解していた。でも、それらの期待と不安を悟っていたからこそ、わたしはお母さんの前で、ことさら上手く振る舞うことができなかった。
お母さんの言葉を聞いていたお姉ちゃんは、静かに。けれど、底に溶岩のような怒りをはっきりと湛えていることがわかる声で、きっぱりと告げた。
――どうしてそんなこと言うの。鏡花は鏡花でしょう。わたしみたいになる必要なんてない。
行こう、と告げてわたしの手を引いてくれたお姉ちゃんは、全身から炎のような怒気を迸らせていた。今まで見たことがない剣幕に驚きつつ、玄関から外に飛び出したお姉ちゃんの後に、ついて行く。
――お姉ちゃん? どこ行くの?
その問いには答えず、ずんずん進んで行くお姉ちゃんは、道の角を曲がり、家が見えなくなった辺りで急に立ち止まった。振り向いたその目や頬の辺りに、先程の厳しい表情の名残が浮かんでいて、小さく息を呑むと、お姉ちゃんはすぐに口元をほころばせた。
――鏡花、さっきのこと、気にしなくて大丈夫だからね。
――うん。お母さんが心配してくれるんだって、わかってる。
――ねえ、鏡花、よく聴いて。
そう言ったお姉ちゃんは、真剣な目で、まっすぐに、わたしの瞳を覗き込んで。
――わたしは、鏡花が何かができるから、好きなんじゃないの。自分に何かをしてくれるから、好きなわけじゃないの。鏡花が鏡花だから、好きなの。ただ、そこにいてくれるだけでいい。
――それに、自分で思ってるよりもずっと、鏡花には素敵なところがいっぱいあるんだからね。……傷ついてきたからこそ、誰かにやさしくしたいと思ってるところとか、他の人の気持ちを慮れるところとか、自分の気持ちを一生懸命考えて、まっすぐに伝えてくれるところとか、嘘を吐かないところとか、なかなかできないことでも、こつこつ真剣に取り組んでいけるところとか、誰も見てないところでも頑張れるところとか、人の悪口を言わないところとか、……鏡花?
突然ぽろぽろと涙を零し始めたわたしの頬を拭いながら、お姉ちゃんは、そっと、花のように微笑んで。
――鏡花、大好きよ。わたしが鏡花を好きだってこと、忘れないでね。
泣かないで、ではなくて、泣いてもいいよ、と言ってくれるひとだった。そういうところも、大好きだった。
お姉ちゃんは、この世でただひとり、わたしのことを、まっすぐに見つめていてくれるひとだった。
――ああ、それなのに。
――わたしも、お姉ちゃんのことを、見つめていたはず、だったのに。
それなのに、わたしは、守られてばかりで。いちばん近くにいながら、何一つ、気付くこともできず、見落として、見過ごして。
お姉ちゃんを、ひとりで、旅立たせてしまった。
夏の、終わりだった。わたしが中学二年で、お姉ちゃんは高校一年生だった。
蝉の合唱が遠く響くなまぬるい教室の中で、台風で休校になった分の振替授業を受けていた時だった。
『宮澤、ちょっといいか』
突然教室の前側の扉から姿を現した担任に、暑さでだれかけていた教室の空気がざわめいた。クラス中の視線を感じつつ、いったい何だろう、と身を縮めながら、担任の下へと向かう。
すぐさま扉を閉めた担任は、血色の失せた真剣な面持ちで、声を潜めて続けた。
『今すぐ荷物を持って、家に帰りなさい。……タクシー代はあるか?』
『え?』
そもそも、自転車で通学しているのに、タクシー代がいくらかかるのかなんて、わかるはずがない。それに、今すぐ帰れと言われても、事情が全くわからない。
担任もすぐに気付いたようで、あー、と、呻き声のようなものを上げて、宙に視線を彷徨わせた。
『とにかく、タクシーを呼んだから、今すぐ荷物をまとめて来なさい。足りなけりゃ俺が払うから』
『……はい』
心が不穏にざわめきはじめるのを感じながら、席に戻り、手早く荷物をまとめた。周囲で何事か囁き合っている気配を感じたけれど、早鐘を打ち始めた心臓の音の方が大きくて、あまり気にしていられなかった。
『荷物、大丈夫か』
『はい』
言うが早いか、ぱっと背を向けた担任の後を小走りで追う。クーラーのついていない廊下は焼けるような陽射しが射し込んでいて、すぐに身体が汗ばんできた。
『……先生、何があったんですか』
担任は、無言だった。黙ったまま歩き続けて、校門の前で停まっている黒いタクシーの数歩手前で、おもむろに足を止めた。
『宮澤、落ち着いて、聞いてくれ。さっき、お父様から連絡があってな。……宮澤の、お姉さん、が――――――――――――――』
蝉時雨が、止んだ。
うそだ、と思った。けれど担任の痛みをこらえるような表情を見て、ああこれは質の悪い冗談じゃないんだな、と他人事のように考える。
そこからの記憶は、断片的で、混沌としている。
気付けば家に帰っていて、獣のように慟哭するお母さんの背を、お父さんが必死に抱き締めていて。
二人とも、朝に顔を合わせてから数時間しか経っていないのに、一気に十年も年をとってしまったような、やつれた、白い顔をしていて。
――鏡花、あなた、何も聞いてないの?
すがるような、責めるような口調に、お父さんが、やめなさい、と窘める声が遠く、響いた。
友達と旅行に行くのだ、と言っていた。心から楽しそうな笑顔で、お土産は何がいい? と、雑誌を片手に尋ねてくれた。
――これなんかどう? このイヤリング、鏡花に似合いそう!
ぎんいろの、丸いイヤリングの写真が、お姉ちゃんの笑顔が、明るい声が、次々と蘇って。
――なにも、聞いてないよ。
まるで現実感のないまま、よくできた夢でも見ているかのような心地で、呟いた。
どこか覚束ない記憶に残っているのは、お父さんの、鏡花は家で待ってなさい、という言葉。
――鏡花は、家で待っていなさい。……きっと明葉も、鏡花には、綺麗な顔を、覚えていてほしいだろうから。
絞り出すように付け足された言葉に、ふと、昔お姉ちゃんと見たある光景を、思い出した。
夏、だった。
強い、目を刺すような異臭が、漂っていた。
魚を捌いている時よりも数段強烈な、いきものの、血と、なにかのにおい。
――鏡花。見ちゃ、だめ。
ため池の中、水に膨らんで、ぐちゃぐちゃしたものがどろりとはみ出したそれは、腐乱した、犬の骸、だった。
お姉ちゃんは、海で、見つかった。
それは、つまり。
ようやくお父さんが言わんとすることに理解が及び、反射的に、口を開こうとした。
――わたしも、連れて行って。
けれど、その瞬間、お父さんの、あまりに悲痛な瞳を、憔悴しきった表情を、目にしてしまって。
結局わたしは、口を噤んで、頷いてしまった。
だから、骨になったお姉ちゃんと対面しても、わたしはまだ、信じられなかった。この黄みがかった、小さな骨の持ち主がお姉ちゃんだなんて、まるで思えなかった。
あのときからずっと、お姉ちゃんは、本当はどこかで生きているんじゃないかって、心の片隅で囁く声が、消えなくて。
きっとそれは、お母さんも、同じだったのだろう。
お父さんと一緒に、お姉ちゃんの身元確認を終えてからのお母さんは、魂を失ってしまったかのようだった。事実、そうだったのだろうと思う。愛娘を突然喪って、正気でいられるはずがない。
だから、仕方がないのだ。
――明、葉?
性格は正反対でも、一目で姉妹とわかるほどに、目鼻立ちが似通っていたわたしたちを、お母さんが見間違えてしまったとしても。
その瞳に、お姉ちゃんではなく、わたしの姿が映ったことへの絶望と落胆が、浮かんでいたとしても。
直後に、その感情を必死に打ち消そうとするかのように、罪悪感の滲んだまなざしを、向けられたとしても。
仕方が、ないのだ。
だって、わたしだって、鏡写しのように、同じことを考えていたから。
――どうして、お姉ちゃんだったの。
――どうして、わたしじゃなかったんだろう。
それからほどなくして、お母さんは、わたしの姿を見ると、嬉しそうに、『明葉』と呼ぶようになった。お父さんは驚き、嘆き、それからお母さんを諭そうと試みた。お母さんは何を言っているのか、ときょとんとした表情で、だってここに明葉はいるじゃない、とわたしを見た。
絶句したお父さんに、わたしはちいさく微笑んで、それ以上言い募ろうとするのを止めた。
それから少し経って、お父さんは、会社に転勤願を出してきたと告げた。新しい環境に引っ越して、少しでもお母さんの心を回復させたい、という一心だった。
けれどお母さんは、頑なに引っ越しを拒んだ。家の中に、口論が絶えなくなった。お父さんが、日に日に憔悴していく姿を見ていられなくて、わたしはある提案をした。
――お父さん、大丈夫だよ。お母さんには、わたしがついてるから。
――このままだと、お父さんまで倒れちゃうよ。わたしなら大丈夫だから、行ってきて。
お父さんは、最後まで渋っていた。けれど転勤願を出してしまった以上、やっぱり取り下げます、というわけにはいかなかったから、結局単身赴任をすることになった。
――なにかあったら、いつでも電話するんだよ。
――うん。
案じるようなお父さんの表情が、ゆっくりと新幹線のホームから遠ざかっていくのを見送ってから、わたしは急いで、家に戻り。
深呼吸をしてから、ずっと扉を開けていなかったお姉ちゃんの部屋に、足を踏み入れた。
部屋の中は、何もかも、お姉ちゃんが出かけて行った、あの日のままで。今にもお姉ちゃんが姿を見せてくれるのではないかと、少しだけ立ち尽くして。
軋む胸に蓋をして、クローゼットの扉を開け、お姉ちゃんのお気に入りだった、水色のカットソーと、ネイビーのパンツを取り出す。
着替えている途中で、ふわりと、お姉ちゃんの匂いがした。震える手で、髪を頭頂部近くで一つに結い、最後に、机の上に置かれたぎんいろの丸いイヤリングを、手に取った。
――これなんかどう? このイヤリング、鏡花に似合いそう!
耳の奥で明るい声が蘇り、ぎゅっと、目を瞑る。
ごめんね、お姉ちゃん。
わたしのこと、好きだ、って、そのままでいいよ、って言ってくれたのに、ごめんね。
でも、もう、お姉ちゃん以外に、わたしのことを好きだなんて言ってくれるひとは、現れないだろうから。
わたしの名前を呼んでくれるひとは、もういないから。
だから、〝鏡花〟がいなくなっちゃったって、いいよね?
鏡の前に立ち、震えの止まった手で、ぎんいろのイヤリングを耳につける。
鮮やかな、笑みを浮かべる。
――そうして、わたしは、『宮澤明葉』になった。
* * *
ひんやりとした仮住まいの部屋の中で、わたしは、少し離れた場所に座る、音色さんに語りかける。
「……全部、嘘だったんです。あなたが今まで目にしていたのは、お姉ちゃんのふりをしているだけの、偽物で、抜け殻。ほんとうのわたしは、空っぽで、あなたに返せるものなんて、なにもない。――だから、あなたの気持ちには、応えられません」
音色さんは、黙っていた。無理もない、と思う。いきなりこんな話を聞かされても、困るだけだろう。
「わたし、実家に、戻ろうと思います」
もう、潮時だった。自分を偽って彼のそばにいるのも、母から目を背けて逃げ続けるのも、限界だった。
「わかった。あと一つだけ、訊いてもいい?」
黙って頷いた音色さんは、静かなまなざしをまっすぐにこちらに向けて、何かを確かめるように、その問いを発した。
「お母さんのこと、どう思ってるの?」
考えるまでもない、問いだった。けれど、答えようと開いた口からは、空気以外、何も出てこない。陸に上がった魚のように、はくはくと息だけ零しながら、どうして、と自問する。
――たったひとりの、お母さんだから。
――わたしが、お母さんを支えなくちゃ。
そう、心から思っているのに。どういうわけか、声が、言葉が、出てこなかった。
――本当に? ほんとうに、そう思ってる?
ずっと心の奥深くに閉じ込めていた後ろ暗い感情が、無理矢理蓋をこじ開けようと、声を上げている。
――嘘つき。本当は、そんなこと、思ってもないくせに。
もうやめて、と懇願するわたしを嘲笑うかのように、いつの間にか手に負えないほど膨らんでいたそれが、目を背け続けていた代償のごとく、とうとう堰を切って、溢れ出す。
「……なんて、」
ずっと、言えなかった。心の中で、必死に、押し殺していた。
一度認めてしまったら、もう、歯止めが効かなくなりそうだったから。
そんなこと考えちゃいけないって、家族にそんな感情を抱くなんておかしいって、意識に上らせることすらできなくて。
だけど、本当は。
「お母さん、なんて、だいっきらい……!」
「嫌い。――――嫌い、嫌い、大嫌い!」
口にした瞬間、ついに認めてしまったな、と絶望すると同時に、仄暗い喜びのようなものが湧き上がって、自分の醜さをはっきりと突きつけられた気がした。
――ああ、すっとした。
だって、本当はずっと、叫びたかった。
どうして。どうして、どうして、どうして。
「なんで、わたしのこと、忘れちゃったの」
「わたしのことなんていらないくせに、どうしてわたしに頼るの」
「そばにいるのはわたしなのに、どうしてお姉ちゃんのことばっかり、ずっと探してるの」
「――どうして、お姉ちゃん、なの?」
「どうして、わたしじゃなかったの」
「わたしだったらよかったのに」
「どうして、わたしが生きているの」
「空っぽで、何も価値なんてないのに」
「ずっと守ってもらっていたのに、どうして何も気付けなかったの」
「お姉ちゃん、どうして、いなくなっちゃったの」
「わたしがいなくなればよかった。……そうしたら、お母さんも、あんなに哀しまずに済んだのに」
とうに捨てたはずの、もうそこには存在しないはずの何かが、胸の中で軋んで、悲鳴を上げている。
空っぽのはずなのに、本当はずっと、苦しくて。辛くて。痛くて。
いっそ心なんて、お姉ちゃんがいなくなってしまったあの日に、すべて消えてしまえばよかったのに、と思う。
そうすれば、こんな想いを、することもなかったのに。
何も考えずに、ただ、すべきことを義務的に、もっと上手に、こなしていくことができたのに。
それなのに、と目の前の音色さんを、きっと睨みつける。
ずっと凍らせていたはずの感情を、失くしたはずの心を揺り動かして、この手で殺したわたし自身を、その名前を、このひとは、呼び覚ましてしまったのだ。
「音色さん、なんて、だいきらい! ――どうして、どうしてわたしなんかのことを、好きだ、なんて、言うの……! どうして、やさしくなんてするの……! どうして、わたしの名前を、呼ぶの!」
嫌われることにも、疎まれることにも慣れていた。蔑みも呆れも無関心も当たり前で、空気のように扱われることに、安らぎすら覚えていた。
だから、まっすぐな好意を向けられると、どうすればいいのかわからなくなる。こんなわたしのどこがいいの、と戸惑って、それまでどんな風に振る舞っていたのかが、全くわからなくなってしまう。
好意の受け止め方すら知らない自分が嫌になって落ち込んで、そのくせ嫌われるのが怖くて、何をしたら嫌われてしまうんだろう、と怯えて。それを悟られないように、必死に笑って。
お姉ちゃんが恋をしている姿を、わたしは知らない。少なくとも、目にしたことも、話を聞いたこともない。だから、お姉ちゃんのふりをすることもできなくて、わたしは途方に暮れていた。音色さんの言葉に触れるたび、お姉ちゃんの仮面が剥がれ落ちていくことに混乱して、これ以上近付くまいと、自分に言い聞かせていた。
それなのに。
――鏡花さん。あなたが好きです。
どうして、空っぽのわたしのことを、好きだなんて言うの。
――鏡花さんは、ちゃんと前に進んでるよ。……大丈夫。
どうして、わたしがいちばん欲しかった言葉を、贈ってくれるの。
――鏡花さん。
どうして、そんなやさしい声で、捨てたはずのわたしの名前を呼ぶの。
いつか、空っぽの、不器用でなにも取り柄がない本当のわたしを知ったら、みんなみたいに、離れていくくせに。
仮に、もしも万が一、嫌われなくたって。
いつかあなたもこの手をすり抜けて、自分の前から消えるのだ。
だから、そのうつくしい瞳に、わたしを映さないで。そのやさしい声で、わたしの名前を呼ばないで。
「鏡花さん、」
それまでずっと、静かな表情でわたしの話を聞いてくれていた音色さんが、ゆっくりと、唇を開く。嫌だ、これ以上、聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。
それなのに、見つめてしまう。その言葉を、待ち受けてしまう。
「――お母さんのこと、大好きなんだね」
このひとは何を言っているの、と思った。今まで何を聞いていたんだろうと、怒りすら覚えて口を開こうとした、そのとき。
――ぽろ、と頬を、熱いものが伝っていった。
長い指先が、労わるように、溢れ出した心の欠片を受け止める。そっと身体を引き寄せられて、頭を大きな手で撫でられた瞬間、ふつりと糸が切れたように、涙が止まらなくなった。
「……っ、ほんとう、は、わかってる、んです」
「うん」
「お姉ちゃん、じゃ、なくて、……わたしを、見て、ほしかった」
「うん」
「なんであなたが生きてるの、って目で見られて、苦しかった」
「うん」
「忘れられて、哀し、かった。さみしかった」
「うん」
「お姉ちゃん、が、……いなくなって、すごく、哀しくて。でも、お母さんが、もっとずっと、哀しんでたから。わたし、は、落ち込んで、いられなくて。お母さんばっかり、ずるい、って、思ってしまう、自分が、嫌で」
「うん」
「ほんとう、は、」
「うん」
「だいきらい、なのは、お母さんじゃなくて。……あいされない、なにもできない、わたし自身、なんです」
――お母さん、ごめんなさい。
――あなたに愛されるような、娘になれなくて、ごめんね。
そうなれないと、わかっていた。それでも、心の底では、ずっと、あいされたいと、希っていて。だからずっと、苦しくて、辛くて。痛くて。
そんな、わたしに、あなたは。
あなただけが。
「鏡花さん。……ここまで、頑張って歩いてきてくれて、生きてきてくれて、ありがとう」
いつだって、心に、ひかりを灯してくれた。
そのうつくしい瞳に、わたしの姿を、映してくれた。
わたしの名前を、呼んでくれた。
「――――好きだよ」
その言葉で、魔法のように、暗闇に包まれていた世界が、ゆっくりと、色とかたちを変えていく。
ああ、そうだ。
――あの日、何もかもに絶望していなければ、あの海で、音色さんに出逢うこともなかった。
――これまでのすべてが何かひとつでも欠けていれば、こうしていま、あなたと見つめ合うこともなかった。
簡単に、過去の記憶を、すべて肯定することは、まだできそうにはないけれど。刻まれた痛みが、ぽっかりと空いた喪失感が、切り裂かれるような哀しみが、唐突にすべて癒えるわけではないけれど。
それでも、それらすべてに、生きてきたことに、意味があったのだと、思えたから。
「……音色さん、お願いが、あります」
頷いた音色さんに、ぐい、と涙を拭って、震える声で、それでもはっきりと、告げる。
「もう一度、――実家に、一緒に来てもらえませんか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます