5-3
眠れないまま過ごす三日目の夜が明けた。
手を伸ばして時計を確認する。朝の八時、昨晩ベッドに入ってちょうど八時間が経っていた。ぼくはしぶしぶベッドから起き上がると、ブランケットとシーツを乱したままおざなりに寝室のカーテンを開け、床に転がったクッションを放置したまま寝室を出た。
コップ一杯の水を口の中に流し込みながらざっと昨日のメモに目を通す。冷蔵庫の中に放置したままだったチコリー・コーヒーをカップに掬い入れ、電子ケトルのお湯を注ぎ入れる。
身支度を整え、約束した相手が到着するまでの三十分でメールをチェックした。DM類をまとめて削除し、そのままの勢いでいくつかの雑務を片付けていると、約束の時間ぴったりに玄関の扉のベルが鳴った。レトロな方のケトルに火をかけて、ぼくは玄関へ向かう。
「やあ、クロエ。いらっしゃい」
ノースリーブの黒のサマーニットを身につけたクロエがぼくを見て笑った。
「こんにちは、ルーク。今日はありがとうございます!」
「いえいえ。最近事務所が賑やかで、何だか楽しいよ」
ぼくの言葉に、クロエは安堵した様子で再びお礼を言う。彼女を事務所に招き入れ、ぼくは準備しておいたカカオフレーバーの紅茶とパウンドケーキをテーブルに置いた。すぐに引き返して、おざなりに紐が巻かれた箱を奥の事務所から取ってくる。
「お待たせ。これが、ヴィクトールとカシムに見せた手紙だよ」
「ありがとうございます……。突然の無茶なお願いに、こんなにも快く応じてくれるなんて」
「ヴィクトールの突撃に比べたら、ちっとも無茶じゃないよ」
彼の二日前の狼藉を聞いていたのだろう。なんとか表情を整えようとしていたクロエが堪えきれずに破顔した。
「……あいつ、ホントとんでもないですよね」
「やっかいなことに、彼のあの振る舞いに慣れ始めている自分がいるんだよ」
「分かります。そこが特に、やっかいなんですよ」
そのまま、ぼくとクロエは少しの間おしゃべりをした。天体物理学ってどういうものかとか(ほとんど理解できなかった)、インテリアデザイナーって何をするのかとか(要は専門家達による部屋の模様替えだ)、好きな惑星はどれかとか(ぼくは土星)、最近のお気に入りの雑貨は何かとか(新しい花瓶とのこと)。
そしてそれぞれがケーキを三分の二ほど食べ終わった頃、ぼくはようやく重い口を開いた。
「それで、この手紙のことなんだけど」
クロエの背筋が分かりやすくピンと伸びる。
「差し支えなければ、君の確認したいことが何かを聞いてもいいかな」
クロエの眉が困ったように下がった。
「……もしかしたら、手紙の差出人が分かるかもしれないと思って」
「なんだって?! 本当かい」
「あまり期待はしないでほしいんですけど……この蓋、開けてもいいですか?」
「うん、もちろん。――ああ、聞いていると思うけど、ぼくへの思いが溢れてるから気をつけて」
ぼくの言葉に頷いて、クロエが黒いジーンズのポケットから薄手のゴム手袋を取り出した。
「わお、本格的」
「大切な証拠ですもん。それにヴィックが持って行けってうるさくて。昨日、自分が触れなかったのが悔しかったんですね」
「そういえば昨日二人とも、手紙に触ってなかったかも」
「万一にでも、証拠を消したくなかったんだと思います」
「はあ、そういうものか」
若者たちの気遣いに、ぼくはただ感心した。それにしても、カシムとクロエはともかく、ヴィクトールまでが気を遣ってくれていたのは意外な気がする。
そんなぼくの心が表情に表れていたのだろう。クロエが笑う。
「あいつ、人の心の機微以外には、けっこう気が回るんです」
「確かにそんな感じかも」
「……でも、最近は変わろうと努力してるみたい。相変わらず人を見下すような言動は直らないけど、人の大切なものを嘲笑うことがなくなりました」
「そっか」
アランをからかっていたことを、彼はやはり気にしていたんだ。
相槌に微量のほろ苦さがにじみ出てしまったのが自分でも分かった。なんだか居心地が悪くなって、ぼくはいそいそと箱の中に手を入れた。
「ええと、この手紙なんだけど。君たちがこの事務所にやってきた日の夜に入れられたんだ」
ぼくは目玉のお守りを脇に避け、手紙をテーブルの上に並べる。並んだ手紙をじっと見つめ、クロエが小さくつぶやいた。
「……あいつの言った通りだ。手紙の順番がバラバラ、そして書き初めの方が冷静、便箋にはロゴ」
驚いた。
悪意に気を取られるばかりで、ぼくは手紙の差し出し人の精神状態なんて推し測ってみようともしなかった。
「ヴィクトールがそんなことを?」
「はい。手紙の順番がてんでばらばら、ルークの管理は全くなっていない」
「……こんな手紙、誰が丁寧に管理しようなんて思うんだ?」
「書き始めはまあ、冷静だったんだろうが、徐々に激昂していったようだって」
「ヴィクトールのやつ。その場にいたぼく達にも教えてくれたらよかったのに」
「自分と同じものを見ている人が、自分と同じことに気づけないとは思ってもいないんですよ。ホントやなやつ」
微かに賞賛の滲む声で吐き捨てて、クロエが手紙に視線を戻した。
「それで手紙なんですけど。一枚目がこれ。感情的に見せているけど、綴りのミスもないし力も入ってない。冷静です」
そう言って、並べられた七枚のうちの四番目の便箋を指差した。言われてみれば、その一枚は明らかに他の手紙に比べて文字に熱がこもっていなかった。アルファベットも比較的小さい。
「筆跡を変えようとしている形跡もあります。――ほら、こことここのp、それにこことここのR、同じようにクセづけようとしているけど明らかに違います。冷静に見えて下手なやり方です。きっと本人が思う以上に追い詰められてるんだ」
「うわ、本当だ……!」
指摘されるたびに浮かび上がるヒントの数々に、ぼくは唖然としたまま耳を傾けることしかできない。
クロエが手袋越しに手紙を一枚をつまみ上げ、その表面に目を走らせた。
「これ、よく見たらノートですね。一枚だけ裏に走り書きがきがある。この端にあるのは、クイーンズランド大学のロゴです。走り書きはたぶん法学の内容かな」
「法学って……」
「カシムの学部ですね」
ぼくはまたしても飛び上がりそうになった。
「クロエ、その可能性はないとぼくは思う……!」
ぼくの言葉の意味を正確に察した彼女は、少し厳しい表情で頷く。
「うん、これはそんな単純なことじゃないはず……冷静なんですよ、冷静なんです。それに筆跡を変えようとしてる」
そう言って、クロエは不愉快そうに眉を寄せた。しばらくじっと無言で手紙を睨みつけて、そしてためらいがちに再び口を開く。
「ここから先は、わたしの勝手な推測なんですけど。この手紙の差し出し人はあなただけではなく捜査関係者に見てほしくてわざわざこの手紙を書いてるんじゃないかな。もちろんクイーンズランド大学の関係者が、うっかり自分の身元を特定させる便箋を使った可能性もありますけど。でもわたしは意図的だと思う。……でもリスクを跳ね上げてまでカシム――もしくは他の法学部生を巻き込む理由が分からないな」
「法学生に対するいやがらせとか?」
その可能性はもちろんすでに彼女の頭の中にあったのだろう。クロエが頷く。
「多少ヘタを打ってでも成し遂げたかった嫌がらせ、なら説明はつきますね」
ふと、この手紙の送り主はカシムがアランの特別だということを知っていたのだろうかと思った。もし犯人がアランに執着を持っていて、アランからカシムの話を聞いたことがあったのなら、カシムはきっと嫌がらせしたい相手として資格十分だろう。
「……この手紙の差出人、誰かわかりそう?」
ぼくの言葉にクロエが長いまつ毛を伏せた。
「すみません、今は候補が二人から絞れなくて」
「……二人にまで絞れているって、それはすごいね」
「もちろん、わたしが知っている範囲外の人であればお手上げですよ。だめだな、妄想ばかりで思ったよりお役に立てないみたい」
おっと、それはとんでもない謙遜だ。
「クロエ。ぼくは今日、君の話に感嘆しっぱなしなんだけど」
ぼくの言葉に、クロエが少し照れたように笑う。
「少しでも、わたしなりのお礼ができたならよかったです」
「……ええと、お礼って、ぼくに? ぼく何かしたっけ」
クロエが、やや咎めるように目を細めてぼくを見つめた。
「あなた以前、ヴィックにわたしへの助言をしましたよね。人の目に引きずられて生きるには、人生は短すぎるって」
「――言ったかもしれない。あまりちゃんと覚えてないけど」
「あんな言葉を残しておいて忘れるなんて!」
ぼくの言葉に、クロエが思い切り目を釣り上げる。
「ごめんよクロエ。ぼくの言ったことなんて忘れていいよ!」
「そんなわけにはいかないじゃないですか……。だってあなたの助言は正しいのに」
悔しげそう落として、クロエはさらに続ける。
「あなたはヴィックにこう伝言したんですよね。有象無象に意識を囚われて終わる、間抜けな人生がご希望か?」
「いや、さすがにもうちょっと柔らかい言い方だったと……」
「アランの友人を名乗っておいてそれなら、君のIQはマイナス三百――」
「ぼくはそんなこと言ってないぞ、ヴィクトール!」
「まあ、途中からあなたの名前を借りて、自分の言いたいこと言ってるなとは思ったんですけど。わたしのことを思って言ってるんだということはわかるので、むかつくけど感謝はしてます」
「……クロエは人間ができているなあ」
「全然ですよ。あなたに腹が立ったのも事実だし。――図星を指されるのがこんなにもきついなんて、すっかり忘れてました」
そう言いつつも、クロエはさっぱりとした顔で笑った。
「確かにあなたとヴィックの言う通りなんですよね。アランとの時間は永遠に失われてしまった。当たり前にあると思っているこの時間は、永遠ではないんだわ」
前向きなクロエの言葉が、ぼくの心に影を落とすのを感じた。内側から切り裂かれたように胸が痛んだ。ばーちゃんやアランとの時間がもうぼくに少しも残されていないなんて、そんなばかげた話があるだろうか。
クロエが続ける。
「わたしは、やっぱりまだ周りの人の目が少し怖いです。――でもそれ以上に今は、自分が本当にやり遂げたいことに集中できないまま人生が終わってしまうことが、何よりも恐ろしい。それに気づかせてくれたから、あなたのためにわたしも何かしたかったんです」
「……あれは、ぼくのばあちゃんの言葉なんだ。ぼくの言葉じゃない」
「あなたの口から出てきた言葉なのに?」
不可解そうな顔でぼくを見つめていたけれど、やがてクロエは生真面目な様子でこくりと頷いた。
「分かりました。じゃあ、あなたとあなたのお祖母様にお礼を」
「あとさ、この間出会ったとある頑固なライオンが言っていたんだけど。誰かにアドバイスをする時って、実はそのアドバイスを一番必要としているのは言った本人なんだって」
クロエが少しいじわるそうににやりと笑った。
「そのライオンのこと、わたし好きになれそう」
「今度紹介するね。――まあだから、本当に気にしなくていいよ。あのアドバイスはさ、たぶん本当はぼく自身のためのものだったから」
ぼくの言葉に、クロエはぼくと出会っておそらく初めての、心からの屈託のない笑顔で笑った。
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