2-5
朝起きた時、ブライアンはすでに仕事に向かった後だった。
キッチンテーブルに置かれた手帳の切れ端に目を止める。見慣れた几帳面なアルファベットで、ドアをロックするために鍵を借りたこと、鍵をポストに入れたことが綴られていた。
「今日は早いんだな……」
ぼそりと、そのシワの入った紙切れに向かってつぶやくと、ぼくはあくび交じりにゴミ箱の蓋を開けた。——そして、迷った末にその蓋を閉じ、メモを仕事用のデスクの上に置いた。
起きたばかりだと言うのに、頭がちっともスッキリしていなかった。寝るまでに感情や情報をリセットできなかった次の日は、いつもこうだ。色々な言葉が次々と頭に浮かんでは、脳をぐちゃぐちゃにかき乱して重くする。
ぼくはメッセージ画面を眼球に映し出すだけの作業を諦めて、飲みかけのコーヒーを手にとった。そしてソファに沈み込み、ぼんやりと小ぶりなシャンデリアを見上げる。
——ドリンクスパイキングだって?
途端に浮かんできた言葉に、ぼくはため息をついた。
ドラマやニュース番組で、その言葉を見かけたことはあった。飲みかけのドリンクを置いたまま席を離れない、とか見ず知らずの人に勧められた飲み物は断る、とか、対処法だっておぼろげながら思いつく。けれど、今まで一度だってそれを警戒したことなんてなかったし、わざわざドリンクを飲み干して席を立ったことなんて、ぼくの記憶にある限り一度もなかった。
正直なところ、ぼくの記憶喪失に誰かの意図があったのだと、まだ完全に信じきれているわけじゃない。けれど一晩経ってみて、改めてあれはおかしなことだったと、ぼくはようやく自覚しつつあった。ひどい気分だ。ぼくは悪くないはずなのに、どうしてだか自分のマヌケぶりをあざ笑う言葉ばかりが浮かんでくる。
ガブガブと行儀悪くコーヒーを流し込みながら、ぼくは沈み込んだソファで今日の予定を確認した。思った通り、一日くらい無理やり休みをねじ込んでも、人に迷惑はかからなさそうだ。——オーケイ、ルーカス。今日はデイオフだ。この先どこかで、少しばかりオーバーワークすれば、カークの依頼してきた椅子のデザインくらいは何とかなるさ。
自分にそう言い聞かせると、ぼくはさっそく仕事用のパソコンをデスクの引き出しにしまい込み、意気揚々と掃除道具を手に取った。シャンデリア、棚、机と順番に埃を払い、香ったそばから消えていくアルコールと柑橘系のフレグランスで拭きあげる。細かいところに溜まった汚れや埃もきれいの取り除き、蛇口やドアノブを磨きあげて、床はモップもかけた。
——三十分もかからずに終わってしまった。くそ、普段から掃除を怠らないからこんなことに。
仕方なく、今度は棚や収納を覗き込み、持ち物を慎重に検め始める。ぼくが、どうあがいても自分のことを好きになれなくて苦しんでいた時期に、『自分が心から大好きだと思えるものだけを部屋に置く』ことを勧めてくれたは、例によってばーちゃんだった。——自分の手が止まってしまったことに気がついて、ぼくは軽く頭を振る。ぎりぎりと胸を締め上げてくる痛みをねじ伏せて、目の前の棚の中身に意識を集中した。
やがてその作業すら終えてしまうと、ぼくは遂に諦めてシャツとジーンズに着替え、戦利品の古い雑誌を手にとって部屋を出た。食料品の買い物ついでに、以前インテリアのデザインを請け負ったカフェの様子を見にいくつもりだった。
後頭部のハネを気にしながらエントランスを抜けようとしていたぼくに、珍しくメーガンが声をかける。
「おはよう、ルーク。素敵な髪型ね」
「……ありがとう」
やや憮然としながらお礼を言うと、メーガンが完璧な笑顔を貼り付けて、ゆっくりとレセプションデスクの向こうからエントランスに出てきた。
何かやらかしちゃったっけ、と怯えるぼくに、メーガンが芝居がかった様子でため息をつく。
「郵便物って、たいてい決まった時間に配達されるのよね」
話題の転換というにも無理のある突然の話の導入に、ぼくは目をパチくりさせた。
「ええと、うん……?」
「いつも決まった時間にこう、郵便受けがかたかた鳴り始めるじゃない? だからわたしもすっかり時間を覚えちゃってて」
満面の笑みを貼り付けたまま、メーガンがぼくの方へとエレガントに歩いてくる。そして、頭に大量のクエスチョン・マークを浮かべるぼくを、エントランス裏の郵便受けに引きずりながら続けた。
「ルーク。たぶんあなた宛に、差出人が直接あなたの郵便受けに入れた手紙が届いてる」
「え? え? どういうこと?」
「コンシェルジュとして、差し出がましかったらごめんなさいね。でも、どうも嫌な予感がするのよ。すぐに確認したほうがいいと思うわ。投函された日時が知りたければ聞きにきてちょうだい。いいわね?」
早口で一気に言い切り、メーガンはすぐにレセプションの方へと踵を返した。
ぼくは、彼女のピンと伸びた背中を目を白黒させながら見送ると、おそるおそる郵便受けを覗き込んだ。そこにたたずむ
少し迷ってから便箋を指でつまみ、チリひとつない事務所に舞い戻った。中の便箋を広げた瞬間、ぼくは思わず悲鳴を上げる。
「何これ何これ何これ、こわいこわいこわい!!」
手紙を放り出して飛び
それは、何というか、ぼくへ思いの丈の全てを込めたような手紙だった。思いというのはつまり、有り体に言えばたぶん、殺意ってやつ。ご丁寧にも、「殺す」とか「おまえの死を望む」とか直接的な言葉が、ひたすら書き連ねてあるし。しかも、ぼくへの思いが深すぎたのか、ところどころ筆圧で、手紙には穴が開いていた。
「こわいこわいこわいよ、ばあちゃぁん……」
完全に怯え切って、ぼくはそのまま奥の寝室へと逃げ込んだ。がちゃりと扉の鍵を閉め、ようやく大きく深呼吸をする。
大きな二つの窓。重厚なロイヤルブルーと金糸のカーテンに、全ての家具は装飾も鮮やかなアンティーク。ぼくの寝室は、明るくてユニークな事務所とは真逆の荘厳で伝統的なインテリアだ。静かで調和の取れた、ぼくの聖域。
ベッドの上に配置していたクッションを抱え込み、ぼくはへなへなと座り込む。
「何だよあれ……」
我ながら、しなびたポテトのように力ない声だった。
もうこのまま部屋に閉じこもっていようかな——と一度は決めたぼくだけど、あの悪意の塊がぼくの事務所に存在することがどうしても許せなくなり、結局すぐに立ち上がる。
そのままドアに手をかけたぼくは、ふとベッドサイドに吊るしてあったマティに気がついた。ギリシャ出身の祖母から子供の頃にどっさりもらった、目玉を模した魔除けのお守りだ。とっさにそれつかみ取って、今度こそ扉を開く。その次の瞬間、手紙から浮き上がったゾンビがぼくに襲いかかる——!
……なんてことはもちろんなく、七枚の散らばった紙はそれぞれ風に吹かれて、小刻みにパタパタと震えていた。
マティを握りしめ、ぼくはそろりと七枚の影を通りすぎる。どうでもいいけど、七枚ってさすがに多すぎじゃないか? 書いてる間に飽きたり、昂ぶったぼくへの想いが落ち着いたりしなかったのだろうか。
書斎から手紙を入れるのにちょうどいいサイズの小さな箱を取ってくると、ぼくは手紙を慎重に爪の先で摘んで、その中に入れた。さらに上からマティを放り込み、大急ぎで蓋を閉める。
「よし、封印完了」
ぼくは念入りに箱を縛って書斎の奥に放り込むと、大急ぎで両手を洗った。コンロで火を沸かし、ポットとカップを温め、とっておきの茶葉で紅茶を入れる。ついでに、ストロベリー入りのヌーサチョコをいくつか小皿に入れると、その紅茶セットをお盆に乗せてベランダに出た。
太陽の光を燦々と浴びながらチョコレートを口に放り込み、紅茶と共にそれを味わう。ようやくひと心地ついたぼくは、大きくため息をつきながら頭を抱えた。
「……うっそぉ」
昨日ブライアンが言っていた言葉が、急に現実味を帯びてきた。ぼくだって今までの人生で、姿の見えない相手からの悪意にさらされた経験なんてあるけどさ。今回のこれはなんと言うか、本当に身の危険を感じた。悔しいけれど、ブライアンの言った通りだったんだ。昨日は大げさで照れくさく思えた「おまえを守る」と言う言葉が、ここにきて急に頼もしく思える。
とりあえずブライアンに連絡しよう、とデスクに戻ったぼくは、そこに置かれた二枚のメモにふと手を止めた。一つは今朝、ブライアンが置いて行ったメモ。もう一つは、カシムが置いていった彼の連絡先だった。
——おれがおまえを守る。
——わたしを手伝ってくれませんか?
二人の声が同時に再生され、ぼくは慌てて首を振る。やめてくれ。ぼくの望みはただ、この完璧な部屋で仕事をしながら、美しく調和がとれた世界で平和に過ごすことなんだ。自分が狙われる理由なんて知る必要はない。ましてやアランがこの世を去ってしまった理由なんて、ぼくのこの先の人生になんの関わりもないことだ。
アランの人生で、一体何が起こっていたのかなんて——。
ぼくはデバイスを手に取り、番号を入力した。耳元で鳴り始めたコール音を数える。一回、二回、三回。
「もしもし?」
「ルーカスだ。今、大丈夫かな?」
「あ、はい、もちろん」
電話の向こうの青年が、慌てたように返事をした。
「君に、確認したいことがあるんだ。君はどうして、アランのことを知りたいんだ? アランのためかい?」
「なぜって……昨日も説明した通りです。わたし自身が、これ以上後悔を重ねたくないから——アランのためかと言われたら、そんなことはないと思う。どう考えても、これはわたしの自己満足のためだから」
どこまでも澄んだカシムの声に、ぼくは自分の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「——分かった。君に協力する」
「ポッターさん……!」
「ただし、ぼくはぼくの目的のために手を貸すだけだからな。それから、二度とぼくをファミリーネームで呼ばないこと。オーケー?」
少しの間口をつぐんだ青年が、やがて吐き出す息とともに返事をする。
「もちろんです、ルーク。本当にありがとうございます」
「いや。また連絡するから」
そう短く告げ、ぼくは通話を切った。しんとした部屋の中で、形容し難いクーラーの音だけが、ぼくの鼓膜を刺激している。
反射的にクーラーの電源をオフにしながら、ぼくは後戻りのできない——とんでもない決断をしてしまった予感に、ぶるりと身を震わせていた。
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