雨上がり
その日の空は灰色の濁りに染まっていた。色褪せても尚かろうじて青を保った空は寂しさに充ちていて、黒恵の気持ちまで沈み込んでしまいそう。
そんな灰色の風景に細かなノイズのような粒が、霧を思わせる細かな雨が注がれていた。
弱々しくも延々と降り続ける雨。それは人の心をも冷やして空の感情に引き摺ってしまう。飽くまでも恵みの証だというのに、人の心にとっては恵みから程遠いところにいた。
血色を感じさせないおめかしをした空の中、おとなしさを感じさせる風景を裏切るような風が吹き上げられて、空の情緒は乱れているのだと思い知らされた。そんな感情が肌を撫でる寒気となる。妙に優しい寒さが半端で織りなされた心地の悪さは見事なまでの完成度の高さを誇っている。
気怠さは突風の錯覚に巻き上げられながら渦を成す。それは黒恵の寝不足の目では別のものに思えた。覚束無い思考で捉えたその世界では風が竜となる。
風のうなり声が低く枯れた竜の叫びのように響いていく。尻尾や爪は不安定ながらにしっかりとした形という矛盾を孕みながらもそこに在る。
黒恵の手は震えていた。
秋雨のひんやりとした気候が寒かっただけなのか、目の前の風に恐怖してしまったのか、事実は霧に覆われていた。
風が吠え、黒恵に襲いかかる。そう思っていた。
しかし、風の竜はただ低空飛行で飛んでいっては空の彼方へと消えゆくのみ。
怯えすぎた身体は相変わらずの寒気に振るえ続けていた。
☆
そんな昼の出来事を思い返しながら進み続ける雨上がりの夜。
夏の間なら未だに明るみの中だっただろう。しかしここでは完全な黒。晴れていたものの闇の色に染め上げられた一級品の空のバランスを保てない太陽は顔を出すことを許されていなかった。
輝く星の姿は空に散りばめられたラメのようで、流れる雲ははためく布のよう。あの竜を思わせる風の豪快な響きは耳に届くものの、肌を撫で続けるものの、姿がそこには見当たらない。
静寂の景色の中で太陽の代わりを務めているつもりだろうか、堂々と浮かぶ月やキラキラと泣き続ける星が頼りない光を発していた。
そんな空に霧を思わせる薄い膜が張っている。月明かりを薄めて街灯の強い輝きに白い濁りをもたらすそれは昼の雨の余韻なのだろうか。そうしてかけられた歪みに対して当たり前のように滲んではっきりとしない態度をとり続ける町の明かりの数々が瞳に滲んで心地よい。
歩き続ける黒恵にいつまでも付き纏う霧。
夜の闇の中を歩き続けることは恐ろしいことこの上ない。人の姿を隠して本性を暴いてしまうそれが驚くべき行動をおびき寄せることだってある。
全くもって安心できない下校と名付けられた散歩、その心理の色彩はただの虚しい夜景をも趣味の悪い作品に仕立て上げてしまうのだろうか。
心を打たれながら、心に響く感情のテンポに合わせながら歩み続ける。露を被った草を踏み、濡れていつまでも周りになじめない砂の心地を受け、薄くかかった霧の幻想に心を奪われる。美しさの中に混ざる恐ろしさ、そのようなもの無くなってしまえば良いのに、そう思うことがやめられない。
そんな夜空の装飾を努めていた霧が突然厚みを増した。かつての弱々しさを失ったたったの一部分、それがエイの形を取る。
空を泳ぎ、翼のようなひれをゆらゆらと揺らしながら、月の明かりに微かに透ける身体をはためかせながら確かに飛んでいた。風に乱され歪な姿を取りながら、風に逆らうようにエイの姿を保ちながら、空気という海を泳ぎ続けるその姿についつい見とれてしまう。
そんな幻想が現実の中にいて、今という時間の波に乗って滑り続ける。
不確かな姿は黒恵にとっては程よい距離感。確実な幻影も朧気な現実も混ざらない絶妙な塩梅に不思議と親近感を覚えて、気が付けばその手を伸ばしていた。
触れられない、届かない。あの楽しそうな移動の世界には追い付けない。待ってと叫んでも飛び跳ね近付こうとしても無駄のひと言で片付けられてしまうことだろう。あまりにも遠いそれはまさに現実と理想を反対語たらしめる原因。理想に追い付けない身体を睨み付けながら、エイに愛しの色を向けながら、今の己のなんと不甲斐ないことかと心に噛み付いていく。
間違いなく目に見えている理想との距離を埋められない。進めば進むほどどの方向にも望まない壁が立ちはだかって進むことを許してくれない。
ゆっくりと進むエイの姿がいつまでもその目に見えていることが嫌味にすら思えてくる。そんな想いを抱くことすら間違えている、今の黒恵が現実方向の理想へと届かない原因は明らかに人間の暗い香りへの否定にあった。
やがてエイの姿は遠ざかり小さくなっていく。例え認識を変えたところであのエイを身近に感じることなど無いだろう。
見えなくなっていく、容赦など知らずただ彼らの都合によって想いのままに。
昼の竜も夜のエイも、飽くまで幻想。
存在するはずの無い存在。
しかし彼らはそこにあって、きっと何かを想い必死に生きていることだろう。彼らの目にはきっと黒恵の半端な姿勢も弱き姿も映されてはいなかっただろう。
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