闇
星の光は遠い過去に灯された祭りの残響。宇宙を進んで遅れて届き地球の周りで輝く姿、生と死を重ねて命を鳴らすその姿は黒恵によく似ていた。
そんな夜闇の中をただひとり歩く。瞳に映る星々は空の潤いの中でゆらゆらと、地球の表面にまで到達することなくキラキラと、泡となって輝き続ける。視界を泳いでいるものであろう、しかしそこに見える姿はいつまでも止まって見えた。
黒恵の中で、黒恵いっぱいに、黒恵を充たすように、どのように表せば良いのだろう。黒恵は星に心を持って行かれてしまいそう、この現実に夢中。
――私が欲しいのはこんな星たちを見上げることだけ
最近の出来事を見つめ返す。まるで舌を出して馬鹿にしたくなるような光景だった。黒恵の望みとは異なり近付いてくる脅威たち、不思議な現象。そうしたものの動きに巻き込まれていくだけの人生。黒恵には友だちのひとりもいないものの、これもまた黒恵の行動の結果なのだろうか。最近行かなくなった部活を思い返しては、思い出に変わり果てたあの空気感を思い出しては、大きなため息をつく。
彼女のそうした姿、自ら進まないという幻想との向き合い方こそが今の現実の有り様を映す鏡の中の像。
きっとこれからも黒恵は人との関わりが少ないまま生きていくことだろう。
星の輝きの居座りを許しながら広がる空、夜闇に覆われた大きな空の片隅に霧がかかる。黒恵の心の夢中はいつのまにやら身体が霧中へと変わり果てていた。
――この霧
見つめながら思う。霧の存在から嫌な予感を感じ取る。暗い夜闇とはまた異なった深い闇のように映って仕方がなかった。
どこから伸びて来たのだろう、どのように伸びているのだろう。
分からないまま。
探ろうとしても途中で薄れて見通すことが叶わない。そうした光景を追うつもりにもなれずにいつも通りに歩き続ける。
この世界の中に住まう闇や理解の及ばない存在たちは人類のことをどのように思っているのだろう。
歩く毎に霧が深くなる。追っているつもりはなく、かと言って発生源が分からない以上は逃げようもない。今ここを覆っている霧はどのようにここまでたどり着いたのだろう。黒恵が踏み込んでしまったのか霧が踏み込んできたのか。
その答えは黒恵の思考から十秒ほど遅れて訪れた。霧は縮んで纏まろうと集まり始めた。それはやがて一本の卯での姿を成してどこかを目指し歩いていた若い男をつかんで飲み込む。彼の目指す場所、その終着点は命の終了。死に飲み込まれてしまっていた。
――あれに捕まったらおしまいってわけかい
命を、人生を死の世界へと仕舞う霧。霧だと思っていたそれはいつの間にか不安定な質感を持ちながらもしっかりと固まった何かへと成り果てる。言葉には表し難く、口はあれを何事にも当てはめられない。
そんな存在の根源を辿ろう、そう誓って視界を移していった末に獲得したものは大きな驚きと轟く不安だった。
そこに立ちはだかるのはいつも見ているはずの山、しかしそれはいつもの姿を保っていなかった。
夜の山、それ自体が闇に包まれて大きな塊のようで木々は分厚い雲のよう。しかし今のそれの姿は明らかな幻想の産物だった。木々のように伸びる闇の中の闇、それが近付いた人物を飲み込んでいく。まるで捕食のよう、大きな生き物は迫力と行動で黒恵の心を打ち続けていた、激しく揺らされていた。
――これは危ないかも知れない
黒恵の力で対抗できる程度の存在なのか、それすら分からない。本当に強い存在は理解すら及ぼさないのだと、強く思い知らされていた。
やがて伸び続けるそれは全てが腕や蛇のような姿を取り、人々を食い尽くしてしまおうと動き出す。食欲旺盛なことこの上なかった。
それに食われてしまえば終わり、それらはどこを見ているのかどのように見ているのか。
視界なのか香りなのか聴覚なのか温度なのか。如何なる感覚を利用して人物を食らっているのか分からない。そもそもそれは食事目的で食べているのだろうか、意思はあるのだろうか感情は。考えればその数だけ不明が増えて黒恵の脳内に散りばめられて。
このままでは何も変わらない。
そう思ったその時。
それはその手を伸ばし始める。大きくなっているのか、視界を埋め尽くしてしまおうとしているのか。
そう考えた後に気が付いた。次第に大きくなっているわけではない。近付いているのだ。
襲いかかってくるそれを躱し、その身体に線を引くように視線を交わらせて見つめる。
その姿は死そのものだった。
認識している限り、目に見ている限りは永遠に収まりそうにもない脅威。時間など、人の都合など一切理解出来ないだろう。死という概念に思考も思想もあるはずはなく、当然のように時が来た人間を、或いは死に近寄りすぎた人間を、生物全体を飲み込み終わりをもたらすだけのことだった。
黒恵は意識を集中させる。黒恵は意識を逸らす。死の闇と合ってしまったピントを上手くずらして逃げ去ろうと。
目をつぶり、心の中でひたすら現実だけを見るように念じ続けた。
再び開いた目に映る優しい光景に出迎えられて黒恵は脱力した。
広がる星空、闇のように分厚くありながらも風に揺られてただそこにいるだけの木々。死など今の視界には映らなかった。
☆
夕空の下を歩く。昨日の出来事に目を向けることなく前を向き続けて。それはいつの日か訪れる死の瞬間に背を向けているだけのことに過ぎないのかも知れない。しかしながら今はそれでいいか、そう思っていた時のことだった。
人通りの少ない道路の向こうから背筋を曲げた皺だらけの男が歩いていた。右手首に薬の入った袋を提げて歩いている。近所の病院の名を目にしていつの日か同じ場所の世話になるかも知れないということを思っては恐ろしさに釘付けになってしまう。
そんな男がよろよろと歩き続けるすぐ後ろに闇が手を広げて張り付くようについていく。背を追う姿はいつの日か追いつき死を与える姿へと変貌してしまうのだろうか。
見つめていれば飲み込まれ、目を背けてしまえばいつの日にか追いつかれてしまう。
決して逃れられるものではないのだと頭に叩き込みながら歩みを刻む速度を上げていく。緩かった足音が強く早く響き続ける。地と靴が叩き合う音を聞きつけて不安になるものの構わずに歩き続ける。
あの男のように追いつかれてしまうのが最も恐ろしいと感じていた。
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