黒恵の認識編
吸血鬼
吸血鬼、その言葉は様々な作品に現れて時に脅威、時に仲間、更に時には恋人や配偶者となる時代。
その存在の起源はと問われたならば古代ローマやギリシャの時代にまで遡る。しかしある時のこと。ある作家が握る筆によって書き上げられ、人々の印象に深く刻み込まれたそれが吸血鬼の存在そのものという印象に塗り替えられてしまった。いつの時代のいつの日にだったか、かつては実際にこの地に生きてこの地のある区域の王を努めていた人物を元にした怪物。
基本的に不死とされているものの、ニンニクや十字架や聖水、日光を嫌い鏡に映らないとっされている怪物。顔色は悪く血を好み、噛んだ相手を吸血鬼に変えてしまうと言う感染症の如き能力を持つある種の厄災とも呼べるおぞましきモノ。
これから語られる事においてどれだけの知識が役に立つものだろうか。黒恵の記憶、これから日記帳と名付けられた摩訶不思議体験レポートノートに綴ることを舌で転がし味わってみてはすぐに結論が舞い降りる単純さに呆れるばかり。
「そんな既知も知己も要らない神さまの児戯だったみたいじゃないか」
そう、今から綴ろうとしていることは飽くまでもひとりの少女が平凡と変わりない範囲での行動で幕を閉じたひとつの体験談。
踏み込むことが無ければ危機のひとつも無しに嬉々として生きていけるというだけの単純な話だった。
☆
それはいつも通りの日常を歩む少女の姿。日差しに落ち葉は透けて黒恵の思うカーテンとしての役割を全くもって果たしてくれない。澄んだ空気、涼しいはずの空気の中にどこか強い熱が差し込んでくる様を感じてしまう。気まぐれな気候、季節という時間の流れによる気まぐれがおめかしをしている。黒恵はその美しさに嫉妬せずにはいられなかった。
――どうしてアンタらのがカワイイことやら
同級生のかわいらしい鼻や瑞々しい肌の艶、綺麗に整えられた髪に嫉妬することはあったものの、それはついに人間という対象の外にまではみ出してしまっていた。
そんな黒恵は通学途中に妙な肌の色をした少女を見る。堂々と歩く姿、姿勢は立派と褒め称えることは容易いものの、青白く色気の無い肌とひそめられた眉毛によって作り出されてしまった弱々しい貌は素直に褒めてもまっすぐ受け取ってくれるかどうか怪しく思わせる。表情から人柄が見えていた。
同じ学校の生徒であろう。白くて固い印象を抱かせるカッターシャツの襟や袖はしっかりと閉じられて長いスカートは膝下五センチを上回る。下に履いている黒のタイツの分厚さもまた隙の無さを強調していてまさに自分を見せたくないといった印象を高らかに叫んでいるように思えた。
そんな彼女は黒恵よりも少し歩みが速かったのだろうか。特に何もなく黒恵の隣をゆっくりと過ぎていって更に一歩もう一歩、更に一歩。次の瞬間、黒髪が揺れてようやく余計な動きのひとつを感じさせた。
振り返り、黒恵に見せた表情。青白く力の無い顔に浮かべた弱々しい笑顔。灰色と乳白色のブレンドを思わせる貌はまさに生きた心地を感じさせなかった。
そんな彼女の顔や肌が放つ恐ろしさを目の当たりにして、雰囲気を吸い込んでは力が抜けていく。鞄を持っている手から感覚が抜け落ちてしまう。握っていることは頭では分かっていた、しかし、そこに実感を得られず視線を落とさずにはいられない。
黒恵は視線を落とした先、鞄を握る手と袖の間からチラリと覗く手首を見つめては黄色っぽさを持った色白に血の巡りの気配を、身体に宿る温かみを感じて落ち着きを取り戻す。
視線を戻して今の景色の中にあの少女がいない事を確かめて一息ついて。
――さっきのは、一体何だったのかい
黒々とした瞳、生気の宿らない肌。綺麗だと言えばそうなのかも知れない。人というモノから離れたような美しさ、ある種の陶器のような何か。そんな気配は日常から切り離された色をしていた。
空気を吸い込む。風景を彩る茶色に染められ残された命を懸命に振り絞る葉の存在を見つめながら、黒恵の目は日常を捉えて平常を捕らえて、涼しさに微笑む空気を肌に塗り付ける。
現実に蔓延る幻想というものに惹かれながらもそれを受け止めるための勇気が備わっていない。そんな黒恵に収まった右目は死の色をしていた。
あの少女をこの瞳で見つめたらどのように映るのだろう。好奇心の針が指す方角の最果てはその程度のもの。平凡から外れるのは情報だけでいい。あの少女ともう一度だけ会いたい。ただ見つめるだけ、ただそれだけのこと。
そんな願望を胸に仕舞って止まっていた足を再び進める。
結局の所、黒恵は非日常に目を輝かせながらも非日常に飛び込むことを嫌うだけの臆病者に過ぎない。歩いている景色は過ぎていく。次の景色が現れても変わり栄えはしない。毎日歩く場所、いつも瞳に納めている場所。どれだけ進んでも違ったものは見られない。飽きてもうんざりしてもそこを目にすることは避けられない。
おかしなことに惹かれてしまうのは心情がいけないのだろう。本人の中では明らかになっていることではあれども、対処する方法が見いだせずにいた。
校舎は相変わらず埃っぽくて今にも息が詰まりそう。外の景色や開放感に恋心を抱きながら今の空間の中から肌寒い違和感を受け取らずにはいられなかった。
辺りを見回す。いつも通りの明るみが窓を通り抜けて侵入してくる廊下、ワックスを塗り付けられて薄らと輝きツヤを主張する木目の床、そこに立つのは色白の少女。
また近くにいた、呆れ混じりにため息をつき、今にもこぼれ落ちてしまいそうな言葉を声なしに吹き、誤魔化してみせる。
そこに立つ少女の姿はあまりにも儚くて、睨み付けるだけで崩れ落ちてしまいそう。夢が産んだ幻像のようでありながら季節が巡ってくる時を待てずに降っては風に舞う雪のようでもあって。
その美しさはあまりにも残酷に思えた。
「何か用でも」
黒恵の問いかけに言葉の返しも無いまま少女は近寄り、微かに瞳を細めて弱々しく笑う。きめ細やかな肌の隅々までもが乱れを許さない。表情を動かすことで見えてくる細かな皺すら目立ってしまってこの少女には無表情以外の何も似合わない。
そんな少女は相変わらずの無言を貫き通して近寄ってくる。心は果たして顔に浮かべたものそのものなのだろうか、その貌は正直に感情を語っているのだろうか。
想像するだけで寒気が走ってしまう。
細かに震える指にまで乾いた神経が走り止まらない。
歩み寄る彼女の姿は吸血鬼を思わせる。あの小さな口で噛まれてしまったら最後、黒恵も同じような姿に変えられて同じような生活を強いられるかもしれない。
黒恵は振り返る。
振り向きざまに少女の姿が窓ガラスに映っていることを確認して何らかの違和感に思考が支え得る感覚を得ていく。しかしそんな想いもまた生きるためには無視しなければならない。
直感が危うさを告げていた。
狙われている。
廊下を走っては教室と反対側の階段を駆け上り、生徒たちの群れの中に混ざり、安全をその手でつかむ。しかしながら未だに油断は許されない。
廊下を勢い任せに駆け抜けて一直線。それから階段を流れるように駆け下りてやがて見えてきた廊下へと身を移してドアを開く。ぽっかりと正直に口を開けたドアの向こうへと、特に思い入れの無い仲間たちが自由気ままに座っている部屋へと滑り込み、勢いと風の余韻を以て周囲の人々を驚かせた上で席に着く。
時計の針は幾つの目盛りをなぞっただろう。席に着いてからどれだけの時間を経ただろう。
黒恵の体感時間はそれすら実感に起こせないほどにズレていた。
肩で息をしながら思い返す。果たしてあれは如何なる生き物なのだろう。黒恵の知る人間とも異なる生き物であることは間違いなかった。
黒恵の瞳はそう思わせる事実を確実に捉えていた。
あの少女は明らかに微笑んでいた。しかしながら、窓ガラスに映る少女の顔は、悲しみに歪んでいたのだから。
授業がひとつ、またひとつと過ぎ去る。そんな時間の経過と共に今という時間はずっと溶けて消え去り続けているにもかかわらず、どうしても振り払うことの出来ないこと、記憶に住み続けて出て行ってくれないそれを思い出していた。
吸血鬼、そんな単語を思い浮かべてしまうそれは果たしてどのような人物なのだろう。なに故に黒恵の目の前に現れるのだろう。一般人の目に映らないはずもない、見えないのであればそれこそ行方不明者として学校で話題にならないはずも無い、喧噪の中のうわさ話のひとつとしても上がったことを確認していない。彼らが誰ひとりとして暇潰しの種として持ち込まない。
果たして存在は本物なのだろうか。
黒恵という人物が実体を持つと認識しているだけの幻なのでは無いだろうか。
存在そのものを否定する方向で思考を回しながら御手洗いへと足を運ぶ。
それからのこと。手を洗う黒恵の隣に人間とは異なる気配、異彩を放つ女の姿が目に入る。
それは隣で歪んだ笑みを浮かべる。
出口は黒恵のすぐ隣。今すぐ駆け出そう。
想いを行動に変えようとするものの、脚は全く動かない。黒々とした瞳は黒恵の姿を映して吸い込んでいるようで、行動のひとつさえ許してはくれない。
そんな少女の姿を映す鏡、そこに映る姿は直立する実像と異なり胸に手を当てて眉をひそめていた。
この少女の無表情が確か眉をひそめたような顔、しかし鏡に映るそれはまた異なる色をしていた。
少女が一歩近づいてくる。あまりにも静かな足音に気品とともにそれを上回る気味の悪さを感じていた。
水場に現れた幽霊、それを思わせるほどに存在の希薄な彼女。
この女は黒恵を標的にでもしているのだろうか。
青白い顔が浮かべる薄気味悪い笑いに撫でられて鳥肌が止まらない。
近づいてくる。
距離を取ろう、思うことは出来ても動くことが出来ない。このままではきっと養分にされてしまう。直感が、視覚がそう告げるものの、凍てついてしまったかのように動くことが叶わない。
臆してしまったのか魅入られてしまったのか。
吸血鬼のように見える姿、しかしその女が引き起こす現象はメドゥーサのよう。髪が蛇でないか確認してしまう認識の力に流されていた。
やがて口を近づけようと、背伸びを始める。黒恵の身長に届いていない、恐らく小柄なのだろう。今ようやく気が付かされた。彼女の背丈すら把握させない、距離感すら怪しい。もはや普通では無いことにようやく気が付いた。
そんな静寂で彩られた死が迫る中、それは突然断ち切られた。
「何やってるのきもっ」
横から突然割り込んできた声、黒恵の身体は今になって自由を得た。形も感覚も何も無い縛り。それはなんて美しくて恐ろしい魔術だったのだろう。
青白い少女は静かで優しい笑い声を零しながら黒恵の耳元で呟く。
「助けられたね」
そんな彼女に向けて堂々とした態度を崩すこと無く言葉を返した。
「色々したいのはやまやまかも知れないけどね、こんなところでやるのはやめていただけないかい」
「はあい」
血も通わぬ肌、そんな言葉が相応しい顔に尋常ではない情の揺れを、止まらない冷や汗の理由を見ながら黒恵の足は教室へと向かって進められる。
これからどのような時間を迎えるのだろう。あの少女は果たしてどのような方法で吸血鬼になってしまったのだろう。鏡に映る表情との違いは果たして何を意味するのだろう。考えれば深みに嵌まって止められない、止まるつもりにもなれない。
あまりにもおかしな状況の中、それでも流れ去る時間には慈悲など無い。このまま過ぎ去るモノたち、それはとても惜しく想えるものであり、とても大切に思える瞬間もこのような時である。
授業の始まりに黒恵はため息をつく。
休憩時間がまともに機能しなかったのも同然。
死の目で見つめる過去、死してしまった時間たち、そこに滑り込むことが出来たら今ならどのようなことを行うだろう。過去をどのように変えてみせるだろう。
考えてみたものの、思い巡らせてみたものの、同じような過ごし方しか出来ないような気がしてならなかった。
突如心がざわめいた。無駄しか得られない悲しい人間なのだと知って、大切なものは次から次へと指の隙間からこぼれ落ちてしまうのだと悟って。
教師の話が耳に入らない。言葉は無事に聞き取る事が出来ていて、理解も無事に出来ていて、しかしながら記憶の中に留まってくれない。どうしてだろう。全くもって記憶力が生きて動いてはくれなかった。
☆
それからいつもの楽しみのはずの昼食すら楽しむことが出来ない黒恵がいた。気分が異なるがためだろう。購買にてコロッケパンを買って貪るだけ。濃いはずの味は、舌に絡みついているはずの香りは、何故だか味として見る事が出来ない。
周りに言わせれば恋でもしているのだろうか。そんな見栄え。
きっとこのままではまともに私生活すら送ることが叶わない。
それだけ吸血鬼のおぞましさの余韻は強く、黒恵にはどうすることも出来ない。もはや人の為せる業ではない。そう感じさせるには充分すぎた。
感性無き昼食を終えて次の授業もまた空っぽの心情で待つ。このままではいつまでも日常に戻ることが出来ない。いつ襲ってくるのか分からない脅威の中、黒恵は右目に宿る死の色を見つめる。次に出会った時、ようやく解放される。迷うこと無く右目に意識を集中させて見通す、ただそれだけ。魅了などに負けなければこれひとつで終わること。
授業中でさえも落ち着きを取り戻すことが出来ずに机の上でペンが不規則に動いていた。何かを綴るわけでも無くかといって弄んでいるわけでも無く。何かを書き記そうという姿勢に行動が追いつかない。
脳裏にはあの女の顔が浮かんでいる。どれだけ振り払おうともついてくる、焼き付いてくる。
次の出会いが待ち遠しい。あの顔を思い切り睨み付けて関係という形の無いものに死を与えてみせるのだ。その時が来るのをひたすら待っていた。
傍から見れば恋に見えるかも知れない。
間違いない。
黒恵は平凡という時間の集まりに恋をしていた。
輝かしい平凡への憧れに焦がれてどうすることもできずにただ立ち尽くして。
やがて来る授業の終わりに心臓の鼓動を強く早く打ち鳴らす。
帰りのチャイム、学校に於ける一日の終わりに黒恵の中のファンタジー体験の幾度目なのかも分からない幕開け。
文芸部に顔を出すことも無く、ただ進み行く。
これから来る時間、血も通わぬ顔をした少女に血も通わぬ術を使うこと。
人々が去って行く中で同じように、しかし彼らの歩みよりも幾程も遅れた進み。
そんな動きに答えるようにあの少女は再び現れた。
鉄の壁を背にして立つ少女。その顔は生気のひとつも感じさせない笑みを浮かべていた。少女の背にある壁は鏡面の役割を果たし、少女の背を映すはずだった。
しかしその鏡に映る少女もまた、黒恵の方を見つめる。その顔は今ここに立つ少女とは異なる色を、埃っぽい悲しみを蓄えていた。
どちらが素直なのだろう。
分からなかったものの、それ自体はどうでも良かった。人の都合は各々が解決していく。これこそが人の頭脳に求められること。そう頭に刻みつけながら黒恵は右目で吸血鬼を見つめた。
「終わりにしよう、幻想に死を」
簡潔に纏められた言葉は完結へと向かう。血に飢えたかわいらしい化け物に何かをすると言うことも無く、ただ黒恵本人が動き出し、下駄箱へと向かうだけ。
黒恵がした事と言えばただ、ふたりの関係性という認識のステージから降りたこと。
それだけのことに過ぎなかった。
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