第12話:束の間の休憩

 メタ・アースからログアウトした俺はいつものように薄暗い部屋の天井を覗いていた。俺はふと自分の手を天井へと向け、手の甲を見る。先ほどまで見えていた若緑色の霊気はすっかりと消えていた。


 それは『リアルワールドへと帰ってきた』と言う事実を明確にしてくれた。

 ゆっくりと体を起こし、カプセルから出る。霊気がなくなったのと同じように仮想世界で抜かした腰はすっかりと直っていた。身体は仮想と現実ではあくまで別物のようだ。


 立ち上がると体を伸ばし、軽くストレッチをする。横を見ると俺以外に二つのカプセルが開いていた。一番奥のカプセルのみが未だに閉じたまま。おそらく父さんがまだ仕事から帰ってきていないのだろう。


 俺はいつも一番遅くメタ・アースにログインするので、三人のうち誰が一番初めにログインをしたかは分からない。

 転移室を出て、リビングの方へと歩いて行った。


「兄さん、お帰り。今日は遅かったね」


 リビングに入ると妹の椿(つばき)が夕食を召し上がっていた。

 黒髪のショートボブにまん丸とした穏やかな瞳。短パンに白色のパーカーを着ている。フード部分にはうさぎの耳がついている可愛らしい仕様になっている。

 学校では才色兼備であるが故に優美な服装を心得ているようだが、ずっとその格好をしているのは不満のようで家ではかなりラフな服装をしている。


「ただいま。まあ、色々あってな」


 流石に霊気を使って戦っていたなんてことは言えるはずもない。遅くなった理由は本人の想像に任せることにして曖昧な返事をした。

 椿からさらに奥へと視線を向けると母がマッサージ機の上でゆっくりと休んでいた。


 短パンに白色のキャミソール姿で幸せそうな表情をしながら、マッサージ機に体を預けていた。椿がラフな服装を着ている理由に少なからず、この人の影響があるのは何となくわかった。


 だらしない格好をしている母は椿とは真逆で、あの状態をずっと貫いている。小さい頃の親子揃っての行事で大層な迷惑を被ったのは今ではいい思い出だ。しかし、だらしないが故に大らかなのか、色々と自由にやらせてくれつつ、危険なことはちゃんと教えてくれるので、大変感謝している。


 オラクルに夕食の準備を頼んで椿の向かい側に座った。

 椿のメニューを見るとハンバーグにサラダ、玄米にワカメの味噌汁だった。そして、いつもの如く牛乳が置いてある。


「どうしたの?」


 椿はジロジロ見る俺に嫌悪感を覚えながら、こちらを見る。思春期真っ盛りなご様子で兄に食生活を見られるのが気に入らないご様子だ。


「今日も牛乳飲むんだなと思ってな」

「兄さんには分からないでしょうね。私の苦しみ」

「パッと見た感じはそんなに貧相じゃないと思うけどな」

「世の中は相対的なの。一緒にいる人間で私の膨らみ加減は決まるのよ」

「左様ですか……」


 どうやら、中学生で仲良くなった友達が悪かったみたいだな。友達を変えるわけではなく、自らを変えようと努力するのは、椿らしい。

 椿は俺への不満からか、ハンバーグにがっつき始める。この辺の下品な様子も家でしか見せない行為だ。


「柃様、お待たせいたしました」


 そう言って、オラクルは俺の目の前に夕食のメニューを置いた。

 内容は玄米に豆腐の味噌汁、秋刀魚の塩焼きにほうれん草のおひたしだ。さらになぜか俺にも牛乳が置かれている。


「オラクル、何で俺にも牛乳を?」

「柃様の身体スキャンをしたところ、カルシウムが不足しておりましたので」


 オラクルはそれだけ告げると俺のもとを去っていった。

 椿が俺に向けて憎たらしい笑みを浮かべる。


「最近は、ストレス値も高ければ、カルシウムも不足しているようで。小さいことばっか気にしているからよ」

「どうした? 自虐ネタか」

「誰も私の胸のことは言ってないよ……」

「それにしても、よく俺の食事メニューを知ってるな」

「なっ!」


 椿は顔を真っ赤に染める。「してやられた」という表情を見せるが俺は特に何もしていない。気になった点を指摘しただけだ。

 一泡吹かせられたので、椿も黙って食事をするだろう。


 俺は最初に牛乳を飲み始めた。食後や食事中に牛乳を飲むと食材の味が台無しになってしまうのだ。それに牛乳は冷たいほうが美味しい。

 飲んでいると一件の通知が入ったようでスマホが振動した。


 牛乳瓶を握りしめた手とは反対の手でスマホを取り出す。飲んだ状態ではあるが、通知の内容へと目を通した。


『明日、リアル世界で会えないかしら?』


 差出人は柊さんからだった。

 俺は彼女からの突然の誘いに動揺し、口に含んだ牛乳を思わず吹いてしまった。

 牛乳は目の前の椿、及び彼女の夕食を汚染する。


 椿は全く予想もしていなかった出来事に、涙ぐみながらも俺を鋭い眼差しで睨みつけた。その視線は人を殺しかねないほどの殺意を持ち合わせていた。

 俺は彼女から視線をゆっくりと外してオラクルの方を見る。助けてくれ、オラクル。


「流石に母がいるところで、兄妹二人でそういうことをされると困っちゃうんだけどな」


 するとマッサージを終えた母が俺たちの元へとやってきた。

 俺たちは仲良く母の方を見て「それは誤解だ!」と言った。

 何だか朝も同じような光景だなと思いつつ、目の前の夕食に目をやった。もちろん俺の夕食も牛乳に汚染されていた。


 まさか自分が驚きのあまり牛乳を吹くとは思いもしなかった。

 夕食中にスマホを見るのはやめようと心に固く誓った。

 その日の間、椿は一切口を聞いてくれなかった。

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