不幸な人生を送ってきた二人が、幸せな結婚式を挙げるまでの百合
壊滅的な扇子
第1話 出会い
ライトをつけた車が行き交ってゆく。バイトの面接からの帰り道を、私は歩いていた。夏なだけあって、夜でも空気が暑い。私はぱたぱたと顔を扇ぎながら夜空を見上げた。
雲一つない、月の綺麗な明るい夜だった。
点滅する歩行者用信号をみつめる。なにか夢があるわけでもなく、ただ、惰性で生きている。最後に本心から笑顔を浮かべたのはいつだろうと思うくらい、笑ってない。バイトには落ちるし、どうしたものか。
ため息をつきながら交差点を渡り向かいに近づくと、誰かが苦しそうにうずくまっている姿をみつけた。暗闇に同化するような紺色のせいで、気付かなかったのだ。
私はおそるおそる声をかける。
「大丈夫ですか?」
顔をあげたのは、少女だった。紺色は制服。長い黒髪はお姫様みたいに緩くウェーブがかかっているけれど、それが天然ものなのか人工なのかは分からない。なぜなら少女は、その豪華な髪の毛に劣らないほど、美しい顔をしていたからだ。
この少女なら、どこかの国でお姫様をやっていてもおかしくないと思えるほど。
私は思わず、息をのんだ。
二重でぱっちりとした目は愛らしい印象だけれど、口元は固く結ばれていて涼しげだ。意思の強さをどことなく感じさせる少女は、並外れた容姿の美しさこそ別物だけれど、過去の私を思わせる雰囲気をしていた。
表情は苦しげで、放っておけば今にも倒れてしまいそうだ。どうすれば、と私が戸惑っていると、少女はカバンから何かを取り出そうとしていた。でも痛みに悶えている体では、上手く取り出せないようで。
「……薬、飲まないとっ」
少女はその顔に見劣りしない鈴を転がしたような声で、でも苦しげにつげる。
「薬、取り出せばいいんですね?」
私は慌てて少女のカバンを開いて、中に手を入れた。カバンの中には教科書や筆記用具など、学生としてありふれた物ばかりが入っていた。でもその中に、錠剤の入った透明な容器をみつける。
差し出そうと、少女に目を向けたそのとき。
「……え?」
少女はとても不思議そうに私を見下ろしていた。さっきまでの苦しみは嘘のように。でも少女自身もなにがあったのか理解しがたい様子で、真っすぐに立っている。
少女はぼそりとつぶやいた。
「なんでこんなことが。発作、薬を飲まないと治まらないはずなのに……」
よく分からないけれど、どうやら助かったみたいだ。私は視線をそらしながら立ち上がって、錠剤の入った透明な容器を少女に手渡す。そして軽く頭を下げた。
さっさと立ち去ってしまおう。出来るだけ人とは関わりたくない。必要最低限の人としか関わりたくないのだ。
私は少女に背を向けて、歩き出そうとした。
でもその瞬間、少女の手が私の手に触れた。
「待って」
久しぶりに感じた人肌の温もりに、私は思わずびくりとしてしまう。人間の手ってこんなに温かかったんだ。でも人と関わるつもりなんてない。バイトだって、お金があれば受けようだなんて思わなかったのだから。
さっさと家に帰りたい。この少女にだって本当は関わりたくなかった。でも苦しんでいたから、仕方なく助けようとしただけで。
これ以上、付き合ってやる必要はない。
私は少女の温かな手を振り払おうとした。でも少女の力は思ったよりも強い。少女といっても、私よりもわずかに低いくらいの身長だ。なんの運動もしていない私が、少女の腕力に勝てる道理もなかった。
「ちょっと。お姉さん。無視しないで!」
少女は私を後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
こんなことをされては、もう動けない。逃げたいのに、少女の温もりが私をつかんで離さない。私はあまりに非力だった。社会的な地位でも、腕力でも、この少女には勝てないのだ。
惨めだった。バイトには落とされるし、少女にはあらゆる面で負けるし。
だから自然と声も冷たくなる。
「……なんなんですか」
「お姉さんが必要なんです!」
少女は後ろから私を抱きしめたままの姿勢で、そんなことを叫んだ。訳が分からない。私を必要とする人はこの世にはいない。両親は私に愛想を尽かしているし、バイトにすら必要とされない。
私はそういう人間だ。最近はずっと誰からも必要とされてこなかった。当然、少女の言葉を信じることもできない。きっと新手の美人局みたいなものなのだろう。思い返してみれば、最初から少女の様子はおかしかった。
今にも死にそうなくらい苦しそうにしていたのに、私が近づくとすぐに立ち上がっていた。演技になれていないのかもしれないけれど、余りにお粗末だ。
「私、お金持ってないんですけど。だから美人局なんてされても……」
私は少女を振り払うのも諦め、後ろから抱きしめられたまま告げる。でも少女は後ろで首を横に振っているみたいだった。
「そんなのじゃないです! 私、病気なんです。あと一年で死んじゃうんです。でもお姉さんがいたらもしかすると、もっと長く生きられるかもしれなくて」
少女は焦っているのか、声を荒らげている。きっと即興で作ったのだろう。話が雑過ぎる。どうして私がいれば、一年で死ぬ少女が長く生きられるのだろう。医者でもあるまいし、そんな付加価値、私はもってない。
いい加減、イライラしてきた。深いため息をつきながら告げる。
「意味が分からない。私とあんたの命、どう関係があるの?」
すると少女は私を逃さない為か、腕を掴んだまま、正面に回り込んでくる。相変わらず、お姫様みたいに綺麗だ。意志の強そうな顔立ちをしている。私は蛇に睨まれた蛙みたいな気持ちになって、視線をビルの明かりに逃した。
「私、奇病を患ってるんです。一億人に一人だけの「適合者」と一緒に過ごさなければ、死んでしまう。そんな、奇病に」
たちの悪いラノベみたいな病気だな、と私は思った。要するに、私は少女の言い分を全く信じなかったのだ。本当に今日は最悪の日だとため息をつく。バイトには落ちるし、変な少女に絡まれるし。
「それで? 私がその「適合者」だって言いたいわけ?」
私がそう告げると、少女はうんうんと頷いていた。かと思うと、懇願するような真剣な声で、私の頬に手を当ててくる。
「だからお姉さん、私を助けてくれませんか?」
少女の手はやっぱり温かかったけれど、何かがおかしい。普通、初対面の人の頬に、手なんて当てないはずだ。何となく、嫌な予感がした。でも相変わらず、少女はとんでもない力で私の腕を握っていたから、逃げることができない。
突然、少女が視界の中心に現れた。かと思うと、唇になにか温かいものが触れた。それが少女の唇だと気付いた瞬間、私は半狂乱になって、少女から離れた。
頭の中に大量の疑問符が浮かび上がる。
今、こいつは私に、何をした?
ちらりと視線を向けると、少女はぽっと顔を赤くしている。
あぁ、どうやら、幻覚でもなんでもなかったみたいだ。私は、こんな少女に初めてを奪われたのか。屈辱的、とでも言おうか。もっとも私はこれから先の人生で、誰ともキスなんてする予定もなかったし、それをこんな美しい少女で済ませることができたのは、喜ぶべきことかもしれないけれど。
でもこんな、全てを持ち合わせたような容姿をした少女だ。きっとこれまでもこんな風に、私みたいなどうしようもない大人をからかってきたのだろう。そういう意味で考えると、やっぱり屈辱的だった。
なのに、私の顔は否応なしに熱をもち始めるのだ。本当に、馬鹿馬鹿しい。恥ずかしくて、情けなくて、私の体の中を怒りが回る。
「からかうのもいい加減にして」
「からかってません」
少女は、真剣な表情だった。意志の強い顔つきをしているだけあって、私をからかうことにも本気らしい。私はうんざりして、家に向かって歩き始めた。すぐに少女は私の隣についてくる。そしてぎゅっと私の手を握りながら、じっと横顔をみつめてくるのだ。
その熱っぽい視線を受けて、ついさっきの柔らかい感触を思い出してしまう。私は誰かに求められるような人間じゃない。親には見捨てられ、バイトにすら落ちて、社会に見捨てられた、先のない人間だ。
だからだろうか、ほんのすこしだけ、少女が私を求める気持ちが本物ならいいのに、なんて思ってしまう。
本当に、馬鹿馬鹿しい。できるだけ人を避けて、今日まで生き続けてきたっていうのに、その本質は人に認めてもらいたい。人に求められたいとばかり思っているのだから。
私はそんな自分が嫌いだ。でもその願望は止められなかった。
肩を落として、問いかける。
「どうしてキスなんてしたの?」
すると少女はうつむいてもじもじした。
「それは、その」
だけどすぐにぱっと顔をあげて、はきはきと話しはじめた。
「お姉さん。寂しそうにしてたから。私の願いを聞いてもらうためには、お姉さんが求めているものを与えないといけないかなって、思ったんです。でも寂しさを励ます方法として、キスが相応しかったのかは、正直分からないですね。ごめんなさい」
少女は肩を落として、反省しているようにみえた。本当にそうなのかは分からないけれど、反省しているかもしれない、と思ってしまうのなら、私も強くは当たれなかった。それに例え美人局だとしても、私は人との対話を求めていたのだ。誰からも必要とされないのはあまりにも辛いから。
私はとげを抜いた声で、少女に問いかけた。
「……「適合者」と一緒じゃないとあと一年で死んでしまうから、その「適合者」である私と一緒の時間を作ってほしい。それがあんたの頼み?」
すると少女はキラキラした明るい声で、私に抱き着いてきた。
「そうです! まぁ厳密には違うんですけど、そういうことですね」
これもやっぱり、私に助けてもらう。あるいは美人局として私を騙すために、私の求めるものを与えている。ただそれだけのことなのだろうけど、分かっていても嫌な気持ちはしなかった。
「助けてくれますか? お姉さん。もしも助けてくれるのなら、キスとか他のご奉仕とかも沢山します。だから、どうか」
少女は視界の端で顔を赤らめながら、私の腕に抱き着いていた。少女自身もきっと自分の美しさを理解しているのだろう。だからこういう風に積極的に体を押し付けてくるのだ。
実際、それは正解だと思う。私は女だけど、全然悪い気はしない。ここまでしてもらえるのなら、騙されてもいいかもしれないと思う。もう、どうなってもいい、ってわけじゃないけど。
ここで少女を放置して帰ったからって、人生はより暗くなるだけだと思った。
私はため息をついて、頷いた。真正面をみつめながら告げる。
「いいよ。助けてあげる。その代わり、私を求めること。そして、認めること」
明かりのついたビルがどこまでも並んでいた。
少女はヒマワリのようなまぶしい笑顔で、私の頬にキスをした。
「たくさん認めてあげます。だから、お姉さんは私を長生きさせてくださいね?」
別にキスとかじゃなくてもいいんだけどな、と私は思いながらも、別に嫌というわけではないから拒まず、少女と一緒に歩いていく。
雲一つない、月の綺麗な明るい夜だった。隣には名前も知らない少女がいて、私の手を握ってくれていて、騙そうとしているだけなのかもしれないけれど、私を必要としてくれていて。
さっきまで灰色にみえていた夜の街が少しだけ、色づいて見えた。
街灯の並ぶ歩道、少女は頬を緩ませて、弾むように私の隣を歩いている。その足取りは軽く、私までつられてしまいそうだった。
「お姉さん。今、時間あります?」
「あるけど」
私は一人暮らしをしている。借りているアパートには私の帰りを待つ人なんていない。時間なら、いくらでもある。すると少女は歩く私の一歩先に飛び出して、手を引っ張ってくる。
「今から私の家に行きましょう。お父さんとお母さんに挨拶しないとですから」
「……挨拶?」
またしてもけったいなことを言い始めた少女に、私はやれやれとため息をついた。
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