第3話 散歩

 いい天気だった。

 真っ青な空がどこまでも続き、爽やかな風がスーッと吹いた。

 アレグロ・レトリバーは虫でも追いかけてるのかさっきから庭をあっちに行ったりこっちに来たりと忙しない。

 こんな日なのに、というべきか、それともこんな日だから、というべきか分からないけれど、私は純粋に楽しんでアレグロ・レトリバーを見ることができなかった。

 何かが違う。

 いや、何も違ってなんかいないけれど、何か落ち着かないような、寝ようとする時に足の位置がどうにもしっくりこない、あの感覚。

 以前引っ張り出したスマホをいじってみたり、部屋の中で運動をしてみたり、部屋の掃除をしてみたりしたが、どうにも満たされない。

 この違和感の正体は一体なんだろう。

 そう試行錯誤しながら、私が違和感の正体を探っていると、窓の外のアレグロレトリバーは散歩へと出掛けていった。尻尾を振りながらリードをつけられ、るんるんと私の視界の外へ消えていく。

 そして、その瞬間、私は気がついた。

 いわゆるマンネリというやつなんだと。

 今まで見ているだけで十分楽しんでいたが、違うことも試してみたらいいのだ。

 私は早速準備を開始した。


 次の日、私は久々に外に出た。

 たぶん、5年ぶりか、6年ぶりか、いやもしかしたら10年経っているかもしれない。ただ、そんなことはどうだってよかった。

 私はいつも眺めているだけの庭に足を踏み入れると、アレグロ・レトリバーは不思議そうな顔で私を見た。

「アレグロ・レトリバー」

 私はそう呼びかけたが、アレグロ・レトリバーは知らんぷりをしている。生意気。

 私はアレグロ・レトリバーのそばに近寄って、彼の首に、持っていたビニール紐を巻き付けた。リードが見つからなかったのだ。

 私は彼の首と私の右手がビニール紐を介して繋がったことを確認すると、ビニール紐を軽く引っ張った。

「ほら、散歩行くよ。アレグロ・レトリバー」

 アレグロ・レトリバーは困惑したように、きょろきょろ辺りを見回していたが、私がもう一度ビニール紐を引っ張ると私の後をとことことついてくるようになった。

 私の気分は爽快だった。

 檸檬を持つと鬱屈とした気持ちが吹き飛ぶといった話があるが、私にとってアレグロ・レトリバーが檸檬だった。

 何年かぶりに歩く外もアレグロ・レトリバーと一緒なら実家の廊下のように歩くことができる。

 路地を歩き、商店街を歩き、住宅街を闊歩した。全てが見慣れない光景だった。

 この周辺の土地の開発のスピードが早いのか、私の記憶力がないだけなのか、それはわからないけれど、全てが新鮮で刺激的だった。

 一時間も歩くと私はへとへとに疲れ果てた。最近は陽が落ちる速度も早くなってきており、すでに辺りはオレンジ色に染まり始めていた。

 夕日を見ていると、急に寂しい気分になった。

 たぶん、夕暮れにはそういう作用がある。

 知らない道で夕日をみると、人は必要以上に感傷的になる。

 私はその場に座り込んだ。

 そこは河川敷で、遠くで子どもが水遊びをしていた。

 水に反射して映る、ゆらゆら揺れる夕日が美しかった。

 アレグロ・レトリバーが私の頬を舐めた。

 私はアレグロ・レトリバーの顔を見た。可愛い顔をしている。

 体毛が夕日を受けてきらきらと黄金色に輝いている。

 私は前から思っていたことがあった。

 アレグロ・レトリバーにとってあの庭は小さすぎるんじゃないか、と。

 飛び去るカラスを追っていたアレグロ・レトリバーが白い柵に行手を阻まれて、寂しそうにカラスが飛び去っていく姿を私は何回も見たことがある。

 ここは広かった。

 私はそっと右手に巻きつけていたビニール紐をそっと外す。

 アレグロ・レトリバーは川のそばに止まったカラスを眺めていた。

 右手にはビニール紐を握っていた跡が赤くなって残っていた。

 カラスは首を小刻みに動かし、そしてとうとう翼を広げた。

「行け!」

 私がそう言ってアレグロ・レトリバーの背中を押すと、一瞬こちらを向いてからアレグロ・レトリバーは駆け出した。

 速かった。

 カラスを追ってアレグロ・レトリバーはビニール紐を引き摺りながらぐんぐん速度を上げていく。

「すごいすごい! 速い! すごいよ! アレグロ・レトリバー!」

 私はかつてないほど興奮していた。

 自由で力強いアレグロ・レトリバーはこの世の何よりも魅力的だった。

 アレグロ・レトリバーの姿がどんどん小さくなる。

 猛然と走り去るアレグロ・レトリバーを道行く人はぎょっとした表情で見た。

 きっと、今のアレグロ・レトリバーには誰も追いつけない。ウサイン・ボルトもスーパーカーも、ジェット機さえも。

 アレグロ・レトリバーは全てを置き去りにして、自由に駆けていく。

 その姿は生物の象徴だった。

 私はいつまでもすごい、すごいと歓声を上げ続けていた。


 結局、アレグロ・レトリバーは賢かった。

 走っている途中で私の姿がないことに気がついたのだろう。

 思う存分走り、満足をしたアレグロ・レトリバーはビニール紐を引き摺り、ハッハッハと息をしながら私の元へ戻ってきた。

 彼の頭をそっと撫でてやり、私たちはいつもの四角い庭へと戻った。

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